第2天 ミナ
濁った空が光った数秒後に、体を震わす低い音がとどろく。フーはその音に身を縮めることなく、じっと滑り台の支柱を見つめている。
それに気づいたケンはフーの視線を辿って、自身もその先を見つめる。一瞬何があるかわからなかったそこへとフーが不意に歩み寄った。辺りに散らばる石がフーを導くように支柱へと集まっている。それをなぞるようにゆっくりと近づき、滑り台の影の中へと入った。
人影はピクリとも動かない。フーは静かに息をしながら、フッと支柱の裏を覗き込んだ。すると、そこにはケンと同年代くらいの少女が立っていた。
「やっぱり、ミナちゃんだ!」
少女を見たフーはいたずらっぽくニッと笑った。ミナと呼ばれた少女は観念したように肩を落として、困ったように笑った。
「やっぱり見つかったちゃったか」
ミナは支柱から体を離して伸びをした。隙ができた体にフーがすかさず抱きつく。それをミナはわしゃわしゃと撫で、ぼさぼさの頭でフーははしゃいだ。
ミナはケンより一つ年上の雷の子で、風の子同様、基本的に感情で雷を操る。しかし、ミナはすでに雷の扱いに慣れており、感情の変動なしに雷を操ることができる。そんなことから、化身の中ではお姉さん的存在として皆から慕われている。
そのように周りからもてはやされ、ミナはいつも困ったように笑う。それをフーはくすぐるようにミナに甘えるが、ケンはどこか違和感を胸に抱きながら遠くから見ていた。
曇天の下、抱き合うフーとミナにケンが近づいていった。それに気づいたミナがフーから顔を上げ、いつものように困ったように笑う。ケンはその顔に退きそうになりながらも、ミナの腕の中にいるフーを引っぺがすように肩を掴んだ。
「フー、そんなにベタベタしたらミナが困るだろ」
こちら側に来させようとするも、フーは無理矢理ケンとは反対方向にぐるりと体を回転させた。
「やあだ! ミナちゃんと遊ぶんだもん」
それをミナはクスクスと笑いながら見ている。フーはミナの腕を掴み、マフラーのように首に巻き付ける。それを見たケンは参ったように顔を片手で覆いながら、深いため息を吐いた。どうにもならないと思ったケンは、話題を変えようとミナに顔を向けた。
「そういえば、今日はあいつ来てないの?」
その言葉にミナは笑ったまま肩をすくませてみせた。
「昨日、ちょっとちょっかい出しちゃってね。拗ねて、今日はどこにも行かないって言ってる」
ミナはフーの目の前に垂れる自身の腕を持て余すようにぶらぶらと揺らした。フーはそれを握りしめ、体を反らせて見上げるようにミナの顔を覗き見た。
「じゃあ、今日は雨降らないの?」
ミナは困ったように笑いながら、「そうね」と頷いた。
「今日の雲は雷だけ。次の時はちゃんと連れてくるようにするわ」
それを聞いたフーはあからさまに肩を落とし、視線を足元へと落とした。ミナはその顔を笑わそうとフーの脇に手を忍ばせ、いつもの明るい笑い声が響き渡った。
ケンがミナを敬遠するのは昔からではない。
初めの頃は、フーと同じように何も気にせず笑い合っていた。というのも、歳が近かったせいか、共に遊ぶことが多かった。鬼ごっこをしたり、花を摘みに行ったり、落書きしたり――みんなで楽しむことからいたずらまで様々なことをしていた。
その頃からミナはたくさんの化身に慕われており、まんざらでもなさそうにいたずらっぽく笑っていた。
その数年後、ケンに妹のフーができた。
一人では何もできない小さな赤子は、よく泣いては辺りの草木を存分に揺らした。それをあやすのに苦労したケンだが、泣き止むとフーは決まってふにゃりと柔らかな笑顔を見せるのだった。それを愛しく感じたケンは、その笑顔を守ろうと誰よりもフーと過ごす時間が増えていった。
その辺りからであった。ケンは変な視線を感じるようになった。初めは新参者であるフーへの興味の眼差しだろうと思っていた。しかしいつまで経ってもその視線はなくならず、逆に執着するようにねっとりとまとわりついてくるようであった。
その異様さを感じたケンは、フーを隠すようにして辺りを見回した。周りにいるのは人間の子どもばかり。しかし人間にはケンたち化身を見ることはできない。では、一体誰の視線なのか?
フッと木陰に目をやると、幹に背を預けながらこちらを見ているミナがいた。周りで他の化身たちがはしゃいでいるのにも関わらず、ミナはじっと静かにこちらを見ている。その目はとても黒く、深い闇がどこまでも続いているようで、何を考えているのか読むことができなかった。
そのことにぞっとしたケンは咄嗟にミナから視線を逸らし、すべてを覆い隠すように身を丸めた。
――あれがミナ?
確かめるようにそっと振り返ると、ミナはいつものように周りの子たちと笑い合っていた。幻覚でも見たかのようにケンは呆然と立ち尽くし、その袖を心配そうにフーが引っ張る。怖い、近づいてはならない――それが、ケンが初めてミナに抱いた恐怖だった。
バリバリと何かが砕け散るような音が響き渡る。ケンは我に返り前を向くと、フーは呆然と上を見上げている。それに顔をしかめたケンは咄嗟にミナに視線を向けた。
分厚いねずみ色の雲にちらりと黄色い閃光が走る。その光がより一層ミナの顔に影を落とし、どんな顔をしているのか見えない。ただ口元だけはっきりと見え、ゆっくりと口角が上がった。
「もっと遊んでたいけど、もう帰らないと。あの子の機嫌がもっと悪くなっちゃうからね」
ミナは困ったような笑顔を傾けた。それにフーは不満の声を上げる。
「えー、まだ全然遊んでないじゃん! もっとミナちゃんの雷見てみたいー!」
ブーブー言ってミナに引っ付くフーをケンは引き寄せてなだめた。
「そんなワガママ言うな。あいつと仲良くなりたいんだったら、まずここに来てもらうようにならなきゃだろ?」
フーの頬はもっと膨らむが、大人しくケンの腕に囲まれた。ミナはクスリと笑い、フーの顔の高さまで身を屈めた。フーが不機嫌そうにミナを見ていると、ミナは膨らんだフーの頬を突いた。
「じゃあ、またね、フーちゃん。お兄ちゃんの言うことは聞くんだよ」
プッと出た息に二人は同時に笑った。そのままの笑顔でフーはミナに別れを告げる。
今日は何もなかった、とケンが胸を撫で下ろそうとした時だった。ミナが踵を返す瞬間、その口元が妖しく歪んだように見えた。ケンの背筋が凍りつくも、二度とミナは振り返らなかった。
闇に歪な光が走る。その下を軽やかに歩くミナの姿をケンは眺めながら呟いた。
「なあ、フー」
「なあに?」
静かな問いに大きな丸い瞳が見上げてくる。そこには何にも遮られることなく、きれいな曇り空が映りこんでいた。それを見て、ケンは一瞬躊躇う。そして開きかけた口をごまかすように、横に大きく開けた。
「ミナのこと、好きか?」
フーがケンの腕を固く握りしめる。そして大きな目を細めて、満面の笑みをケンに向けた。
「だーいすき!」
その言葉に、握りしめられた腕に力が入る。しかし、晴れるようなその笑顔にケンは静かに笑った。
撫でるような少し暖かい風が吹く。その中に、微かに冷たい風が混ざっていることなど誰も知らなかった。
引き続き、第3天「レイ」をご覧ください。