第1天 ケンとフー
ここは小さな子どもたちが集う小さな公園。フラフープのような鉄が重なり合ったジャングルジムに段違いになった鉄棒、空を駆けるブランコに夏になると熱くて座れなくなる滑り台、それから夢を築き上げる砂場。この狭い場所で今日も子どもたちの笑い声が高らかに響く。
どこまでも晴れ渡る空の下、走り回る子どもたちの中に誰よりも小さな少女がいた。三歳ほどのその少女ははしゃぎながら公園の中を駆け回る。少女がくるくると回ると、木の葉もくるくると一緒に回り、また少女が木々の周りを駆けると、彼女に話しかけるように木々がざわめく。
そんな少女が目の前にいても、誰も何も言わない。なぜなら、誰も彼女のことが見えないからだ。
少女もまた彼らに自身が見えないことは知っている。しかし、子どもたちから視線を逸らされても、目の前を通り過ぎられても、少女は彼らと共に駆け回る。
そんな時、不意に少女は小石に足を引っかけた。少女はバランスを立て直すことも、手を前に差し出すこともなく、そのまま顔面から地面にぶつかった。うつ伏せになった少女はピクリと動くこともせず、その横を他の子どもたちがはしゃぎながら通り過ぎていく。
「う……」
やっと少女の声が聞こえたと思ったら、案の定サイレンのような少女の泣き声が響き渡った。
それと同時に、公園にものすごい突風が吹き込んでくる。木の葉がいくつか木から離れていき、砂が舞い上がる。風に煽られたブランコはのたうち回るように揺れ、滑り台のステンレスはガタガタと騒いだ。周りにいた子どもたちは立ち止まり、腕で目を塞いでいる。
そんな中、周りに誰もいなくなった少女のもとに、一人の少年が駆け寄る。少年は少女の前で屈み、小さな頭にそっと手を乗せた。
「いつまで泣いてんだ、フー。もう痛くないだろ?」
その声でフーと呼ばれた少女の泣き声はぴたりと止んだ。すると、辺りをかき乱していた突風も少し弱まった。しかしフーはうつ伏せのまま、顔を上げない。フーは鼻をスンッと鳴らして、小さく呟いた。
「……痛いもん。痛くて歩けないもん」
少年は困ったように笑い、フーの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。そしてフーを抱えて、無理矢理立たせる。フーはぐしゃぐしゃの顔で小さな頬を膨らませている。少年はフーに背を向けて屈んだ。
「しょうがないな。痛いなら、おぶってやるよ」
ほら、と言うとフーは顔を明るくして少年の背中に抱きついた。顔を埋めるように背中にこすりつけ、少年の首に腕を回す。その笑った顔を少年は微笑みながら見つめていた。
もうその頃には風は止み、いつもの公園に戻っていた。子どもたちは一度不思議そうな顔をするも、誰かの呼び声で再び遊びに戻っていった。
先程まで泣いていた少女の名はフー、そしてその少女をあやしていた少年はその兄、ケン。四歳差のこの兄妹は風の化身である風の子である。もちろん人間には見えない。それはこの兄妹自身も知っていることだが、妹のフーは人間の子どもと遊ぶことが好きである。
よく一緒に遊んでは、先程のように何かして一人で泣きわめく。そこにケンが近づきフーをあやす、というのがお決まりだ。そのことにお互い慣れ過ぎて、フーはケンが来てくれることを待っている節はある。
彼らは風の子なので、基本的に感情で風を操る。笑っている時は優しく心地よい風が吹くのだが、先程のように怒ったり泣いたりすると荒れたように風が吹く。ケンはそのことをフーに話し、「人間の子と仲良くしたいなら、怒ったり泣いたりしちゃダメなんだぞ」と言うが、それでもフーはよく泣いている。なぜかと訊ねたら、こんなことを言っていた。
「だって、泣かなかったらお兄ちゃん、すぐに来てくれないでしょ?」
頬を膨らませて、上目遣いでケンを見た。それを見たケンはクスリと笑い、フーの頭を撫でた。
「助けてほしいなら、どこにいてもすぐに行くよ」
小さな肩にかかった柔らかな髪がふわりと手の上を流れた。それがフーの耳にもかかり、くすぐったそうに首を傾げる。フーは細めた目を少し開き、頬を赤らめながら訊ねた。
「ホント? 絶対だよ」
フーが右手の小指を差し出す。ケンも自身の小指を差し出し、その指に絡ませた。
「うん、絶対」
辺りで子どものはしゃぐ声が聞こえる。しかしそれは二人を茶化すものではなく、優しくそよぐ風にボールを弾ませて楽しんでいるものだった。
こうして契られた約束は誰かに阻まれることなく、密かに二人の心の奥に仕舞われたのだった。
今日もケンとフーは例の公園で遊ぶ。フーはいつもの如く人間の子と駆け回っているが、いつもに比べて人の数が少ない。
それを気にしたケンは辺りを見回した。すると、遠くの空に怪しげな雲が広がっているのを見つけた。多くの人が降られることを危惧して、外に出ることを躊躇ったのだろう。実際、今ここにいる子の家のほとんどはこの公園からすぐ近くにある。ベンチに目を移すと、傘まで持ってきている用意周到な子までいるようだった。
この公園に近づいてくる雲が太陽を遮った。影鬼をして遊んでいた子どもたちは、薄くなった影を見て立ち止まった。
「影、なくなったちゃった……」
「こんなんじゃ、影踏めないじゃん」
鬼だった少年は足元にあった小石を蹴った。勢いよく飛んだ小石は滑り台の方へと飛んでいき、その鉄の支柱にコンッと音を立てて当たった。その音を聞いた子どもたちは「おお……!」と小さな歓声を上げる。
それから子どもたちは次々と滑り台に向かって小石を蹴り出した。コンッという音だったら二点、ガンッという鈍い音だったら一点、カンッという響くような音だったら三点、外したらマイナス一点と、点数を競うように次の遊びにはしゃいだ。
そうやって人間の子どもたちが遊んでいるにも関わらず、フーはふくれっ面をしながらベンチに座るケンのところへと近寄ってきた。フーはそのままケンの横に座り、足を抱え込んだ。
「……つまんない」
小さく呟いたフーに視線を移すことなく、ケンはフーの頭を優しく撫でた。
風の子は化身であるので、風を使って物を動かしたり揺らしたりすることができても、実際に自分で物に触れることはできない。そのため、今回のように風では滅多に動かない物での遊びとなると、フーは彼らに混ざることができないのである。
また、細かいことを言うと、今ケンとフーはベンチに座っているのではなく、ベンチの上で浮いているのである。
むくれるフーにケンはため息を吐いて言った。
「もう帰るか?」
それを聞いたフーは咄嗟に顔を上げて、ケンを睨んだ。
「まだ! 遊び足りない!」
フーは足を抱えていた手を解き、足をぶらぶらと揺らし始めた。その時だった。ドーンと体の奥を震わせるような低い音が鳴り響いた。空を見上げると、遠くにあった怪しげな雲がもう間近まで迫ってきていた。
「やべ! 降られるぞ!」
子どもたちはひったくるように物を抱え込み、公園から去っていった。子どもたちが蹴っていった土が微かに舞い上がり、その下には小さな足跡が何重にも重なっていた。
フーは呆然と彼らの背中を見送る。そして静かに立ち上がって、彼らが先程まで立っていた場所へ向かった。ケンもそれを追うようにして立ち上がり、辺りを見回した。フーは足元に散らばった小石を眺めて、視線をゆっくりと前へと移した。小石は四方八方へと転がり、ある一点へと繋がる。フーの視線は自然と滑り台の支柱へと向けられた。
そしてその支柱の影からちらりと人影が見える。人影は支柱に身をもたれ、下を俯く。遠くで光った光がその影をより一層濃くし、フーの目に焼き付いたのだった。
引き続き、第2天「ミナ」をご覧ください。