月夜の下で
1.黒ポストの出現。
とても残念な満月の夜だった。
煙のような灰色の薄い雲が、橙色ほどに濃くなった黄色い月の面前を静かに、それでいて存在感を撒き散らしながら大胆に通り過ぎていく。
キィーコ、キィーコと、夜更けの静寂を引っ掻き金切る音がする。
暗闇に覆われて、人通りがすっかりなくなった住宅街の真ん中に、小さな市民公園がある。毎朝ボランティアの人々が清掃を行い、休日には幼い子供を連れた家族で賑わう、地域に愛されている公園だ。
だが、今はもう真夜中だ。公園だって、もうそろそろ就寝を考えているだろうし、孤独の時間を静かに堪能したいと思っているのだろう。――この、はた迷惑な金切る音さえなければ。
公園内のブランコに、一つの黒い影が座っていた。固い地面に軽く足をつきながら、気持ち程度にゆらゆらとブランコを揺らす。今は何時何分だろうか。左腕の腕時計を見た。
二十三時五十八分だ。
かれこれ、一時間以上こうしてブランコを揺らしては、時間を確認している。
この行為は、時間が経てば経つほどに頻回になっていった。三十分前からは数分に一度の頻度で時計と顔を合わせている。
今、二十三時五十九分になった。あと一分だ。もうすぐ、日付が変わる。
ここからは、時計から目を外せなかった。五十九分十秒、二十秒、三十秒……。
当然だが、時は止まることなく、確実に時間を刻んでいく。
――零時だ。
頭の中でノートルダムの鐘が鳴った気がした。
実際に鳴ったのは、腕時計の定刻アラームの簡素な電子音だ。
その人影は、待ちわびたように素早く顔を上げた。視線を公園内に巡らせる必要なかった。
ブランコの正面、安全柵の向こう側に、黒い郵便ポストが突っ立っていた。
ブランコとベンチの間の空きスペースの真ん中に、四角い胴体を片足で支えながら、しっかりと地に足をついている。さっきまで、このポストはそこにはなかった。
ブランコから降りた人影は柵を身軽に跳び越えて、言葉通り一直線に黒いポストに歩み寄った。静寂の中、砂利を踏みしめる慎重な足音がこだまする。
ポストから一メートルほど手前で足を止めた。ひと時の間、影は黒ポストと対峙した。
本当に現れた。
あの噂は本当なのかもしれない。
人影は唾を飲み込んだ。
ポストは薄暗い月明かりの下で、黒い姿を不気味に浮き立たせていた。ランドセルほどの大きさの金属製、全体をのっぺりと黒く塗装されている。
正面には投函口が設けられている。横長で、大学ノートをあっさり吸い込んでしまいそうなほどの大きさだ。胴体よりもさらに深い闇を携えて、静かに獲物を待ち構えている。
人影は、ズボンの後ろポケットから一通の封書を取り出した。
葉書サイズの茶色い封筒には、宛名も差出人の名前も書いていない。まったくの無地だ。封を閉ざした能面のような封筒を、黒いポストに封書を投函した。
カタンと、簡素な落下音が小さく耳に届く。それきり、音がなくなった。
体内の血液が全部、音もなく下っていく。手が震えていた。膝が笑っていた。力が入らない。指先が冷たい。痺れている。足元が浮遊しているみたいだ。
一大事を成したことへの達成感と高揚感、そして、得体の知れない不安感が胸の中で入り交じる。鼓動がうるさい。
昂る気持ちを落ち着かせようと、静かに長い息を吐いた。力の入りにくい拳を、軽く握る。徐々に震えが和らぎ、力が戻ってきた。
ふと、空を見上げた。
やっぱり、残念な満月だ。
薄い雲が拭った涙のように横に流れる。
黒い郵便ポストは、悲しい夜空を見上げる人影の傍らで、霧に包まれるように黙って姿を消した。零時三分だった。