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いつか帰る夏の空。

作者:

個人企画に投稿する予定だったものです。

 


           1



 人差し指と親指を立てて、他の指は折り曲げる。鉄砲みたいな形のそれを左右の手で作って、片方は手のひらが見えるように、片方は手の甲を自分に向けるようにクルッと回す。そしてそれぞれの人差し指と親指をくっつけて枠にすれば、お手製カメラの完成だ。

 アキラはそのフレーム越しに、半年後には卒業する学校の校舎をジッと眺めていた。

 島に唯一ある高校は、こじんまりとした木造校舎だ。グラウンドは夏休みになると、遊び場を求めたチビッコ達がやってきて、三人しかいない野球部のいい球拾い役となってくれる。

 アキラはそれを眺め、心の中のシャッターを切ってフレームに収める。右へ左へフレームを向け、ぱしゃり――この島の景色を余すこと無くフレームに、心に、焼き付ける。

 最後に海の向こう、遠く離れた霞んだ本島を眺めて、

 ぱしゃり。

 そんなところに「アキラ、何やってんの?」と、やってきたのは幼馴染のモモカだった。

「んあ? ……なんだろ? 俺何やってんの?」

「あらまあ、哲学」

 そこで、

 カキン! 小気味良い金属バットの音がして、二人揃って空を見上げれば、

「おお!?」

 白球が青い空に吸い込まれ、清々しい風とともに、海鳥が舞う。

 モモカが白球を目で追って空を仰ぐその仕草に、フレームを向けて、

 ぱしゃり。

「今日もいい天気だね! ね、アキラ?」

 島の一日は今日も変わらず流れ行き、

 この小さな島で過ごす最後の夏休みは、少しずつ、終わりに近づいていた。


 アキラは高校三年生で、この夏が終わるころには、いい加減に進路を決めないといけない立場の少年だった。

 しかし、イマイチそれが定まらない。このまま夏の暑さとともに、溶けてしまっても構わないというぐらい、進路のことなんて考えるのが億劫だった。

 だから、今ここで何をやっているか、という問の明確な答えは『逃避』だった。

 嫌になる――ここ最近は油断すればすぐそこに、終わりを告げる種が見え隠れするのだ。

 傍らを歩くモモカがいった。

「明日、浜辺でみんなでバーベキューするって。お別れ会! アキラ、行っておいで?」

 ――ほら、ここにも種があった。

「行きたくない……」

「ダメよー? いつか貴方も、この景色を『懐かしい』と言えるようになるために、ちゃんと思い出を作らないと」

 この島で『進路』というと、まず島を出るか出ないかの選択を迫られる。この島には大学はないし、働き口もほんの僅かしかないから、必ずそれを決断しなければならないのだ。

 しかし、島を出ると、仲間たちにもう会えないかもしれないし、彼女と並んで歩くことができなくなる。それが何よりも嫌だからこそ、アキラはこのままでいたいと切に願い、『進路』という言葉から逃避しているのかもしれない。

 そんな青臭い悩み、恥ずかしくてとてもとても口にはできない。

「どうしたの? 何か言いたいことがあるの?」

 返事をしないアキラに、モモカがふくれっ面でいう。

「昔っから、小難しいことごちゃごちゃ考える癖があるけれど、それを口にできないのが、貴方の悪いところだわ」

「……そんなこといわれてもなぁ」

 夏休みの間、こんなやり取りをずっと続けてきた。アキラにとってはそれだけでも、十分、幸せなことだった。

 どうか、神でもなんでもいいから、この時を永遠にして欲しい。

 フレームに収めた、あの頃の景色のように――



           2



 翌日。

「アキラ! あんたまたぐうたらして!」と、姉のマリが帰ってきたのは、アキラが昼寝でもしようかと扇風機の前に陣取った時のことだった。

 マリは島の外で仕事をしているのだが、今は夏休みを利用して帰省していた。今日は朝から出かけて『懐かしい』と言いながら、旧友と会っていたらしい。

「ほら、小遣いあげるから遊びに行ってきなさいよ。あんた、モモちゃんがいなくなってから、ほんと家を出なくなったのね。姉ちゃんがいない時もそんなんなんでしょ?」

「……うるせぇ」

 アキラはマリを一瞥すらせず、家を出て行った。


 ぶっきらぼうに家を出たアキラは、家の裏手に向かった。

 そこは海を見渡せる小高い丘で、アキラは辿り着くなり芝生の上にゴロッと寝転がった。

 ここにあるものは一つの石碑ぐらいで、来る人は少なく、一人の時間を過ごすのにはもってこいの場所だ。

 アキラ以外にここにいる人間といえば、

「どこに行っても、寝てるのねぇ」

 モモカしかいない。

「今日はお別れ会の日でしょー? まさか、本当に行かないの?」

「まだ時間じゃないんだよ」

「それなら家で寝てればいいじゃない?」

「……そういうモモカは他に行く場所ないのかよ?」

「私はアキラの隣が一番居心地がいいのよ」

 モモカはクスクスと笑うと、アキラの隣りに座る。

 幼い頃から、いつだってこうやって二人っきりの時を過ごしてきた。それは他人から見たら恋仲に思われることだろうし、友人たちはそう認識していたようだ。ところが実際の二人は、互いに想いを告げたこともないから、そんな事実はない。ただ、それを明確な形にしなくとも、ずっとずっと、隣り合っていられると思っていたのだ。

 しかし、モモカは中学生の半ばに、この島から家族揃って出て行ってしまった。祖母さんがまだ島にいるから、毎年、夏のこの季節になると帰ってくるのだが、遠い存在になってしまったのは事実だった。

 そんなアキラの心情を見透かすかのように、モモカはいう。

「夏休み終わったら、もう会えなくなるね」

「来年もまた会えるでしょ?」

「去年まではそうだったけど、今年は高校卒業だから……どうかな。アキラは島を出るんでしょう? きっと、戻ってくることも少なくなるわ」

 この島はモモカとの唯一の接点だ。もし、アキラが本島の大学に進学を決めたら、もう会う時間も、機会もなくなるだろう。

 だから――決められない。

「アキラ、どんな大人になるのかなー。私好みのイケてるダンディになって欲しいな」

「我が事ながら想像できない」

「先のことなんてわからないよ? どこかで何かを間違って、ハーレムを築いてしまうこともあるかも!」

「なんだそりゃ……」

 それからモモカはああだこうだと妄想なのか夢なのか、アキラの将来について好き放題に語っていた。

 潮騒に紛れたその声が心地良く、アキラはうとうと陸地で船をこぐ。


 ここ最近、アキラは同じ夢を見る。

 それは夢というよりか記憶。大切な人が島を出ていってしまった、『二つ』の記憶。

 一度目はマリだった。

 泣き叫ぶ自分。涙を流しながらも笑顔で手を降るマリ――

 マリは数年前に就職のために島を出ていった。その頃から姉が帰省しても、昔のように接せられなくなってしまった。それは八つ当たりのようで、子供の癇癪のようで、それでも、きっと彼にとっては真っ当な理由なのだろう。自分の大事な人が、遠く離れていく姿――そんなもの、受け入れられるわけないじゃないか。

 二度目のモモカの時も、同じように癇癪を起こして、その時は見送りにも行かなかった。その時のことをとても後悔している。

 その日の海はずいぶんと時化ていたそうだ。それでも本島までは僅かな時間。船は出港した。

 もし、あの時、アキラがモモカに言葉を掛けていられたら、何かが変わったのだろうか。あれ以来、いつも同じ夢に苛まれる。

 言えばよかったと、いつだって後悔している。

 ――言いたいことがあるの?

 もし、それがアキラにあるとするのなら。大切な人、全てに、

 行かないで、と叫びたいのだ。


 どれくらいの時間をそうしていたのだろうか。

「ほら、アキラ、起きて」

 ペチペチと頬を叩かれて目を覚ますと、西日が目に刺さり「うぇ」とアキラは唸った。

「ずいぶんぐっすり寝てたね」

 目を向けると、すぐそこにモモカの顔がある。夕日に当てられ煌めく瞳。

 それを見つめてアキラは目を細め、どうしてか無性に泣きたくなった。

「どうしたの?」

 モモカが不思議そうに小首を傾げると、アキラは身体を起こし、モモカに背を向けた。

 飽くまでも寝ぼけ眼をこすっているんだという素振りで、目を拭う。

「約束の時間だ」

「もう行く?」

「うん」

 立ち上がり、身体をほぐすためにグッと背伸びする。空を仰げば点々と星々が明滅し始めて、夜の帳が下りていく。

 モモカもまた立ち上がると、こう言った。

「行く前に、なにか言いたいことがあるんじゃない?」

 しかし、アキラが何も言わないでいると、

「ま、いいわ。それじゃあ、楽しんできてね?」

 モモカは手を振って、去っていく。祖母さんの家にでも戻るのだろう。

 その背中が小さくなるにつれ、物寂しさに襲われて、アキラはそっと手を伸ばす。

 行かないで――その言葉を言うにはもう、遅すぎるのだ。



           3



 夜。友人たちが集まり、浜辺でのバーベキュー大会が始まった。

 その主催者であるマコトは、妙に洒落こんでいた。

「バカ野郎。みんなで集まる最後の日なんだぞ? ビシッと決めて何が悪い」

 そこに「マコちゃんかっこいい」と茶々を入れるのは、ミズキという少女だった。狭いコミュニティであるこの島の多分に漏れず、ミズキもまたアキラと幼馴染であり、彼女はモモカの親友でもあった。

 そんな見慣れた仲間たちで集まるパーティは、確かに楽しいと言って差し支えなかった。

 しかし、

 やがて夜も更けていくと、アキラは喧騒から離れた場所にいて、彼らを蚊帳の外から眺めるようになっていた。浜辺とアスファルトを繋ぐ石造りの階段。そこに腰掛け、ボケっと呆ける。

 頭の中で響くのは、モモカの言葉だ。

 ――なにか言いたいことがあるんじゃない?

 明確にはわからないけれど、言いたいことは確かにある。「行かないで」とはまた別の、何か。モモカの顔を見ていると、いつだって胸につっかえるものがあるのだ。

 しかし、それが何かはわからない。

 この時を楽しめないのは、そんなモヤモヤした気持ちと、そもそもモモカがいないからなのだろう。

 深々とため息をついていると、

「アキラくん、こんな所で何してるの?」

 アキラのもとにやってきたのは、ミズキだった。

 ミズキは当たり前のようにちょこんとアキラの隣に座ると、遠目にはしゃぐ友人たちを見て、優しく微笑んだ。しかし、その横顔にはどこか哀愁が漂う。

 ミズキはいった。

「こうやってみんなで騒げるのも少なくなるんだね」

「……なんで?」

「だって、もうすぐ受験よ? それが終われば卒業。みんな離れ離れ。でしょ?」

 アキラが口をつぐんでいると、ミズキがポツリというのだ。

「モモカもここにいたら、もっと楽しいのにね」

「しょうがないよ」

「でも、毎年、帰ってきてるんでしょう? 今日、モモカの婆ちゃんの家に行ったら、帰ってきてるって言ってたもん。それなら遠慮しないで来ればいいのに。せめて私のところぐらい、会いに来いっての」

「気まずいんだよ、きっと」

「モモカが? そんなこと気にするタイプじゃないでしょ。私、あの子にいっつも泣かされてた記憶しかないわ」

「……よく考えたら、俺もいつも家から引きずり出されてたわ」

「ほらねー」

 ミズキはクスクスと笑った。そして、この話はもうおしまい、と言わんばかりに肩をすくめた。

 それからガサゴソと荷物をあさり、

「ねえねえ、これやらない? 線香花火! マコちゃんがいろんな花火用意してたの」

「それ、前の集まりで大量に買った時のあまりだよ」

「へー、そうなんだ。それじゃあ、消化するために、やろ!」

 押し付けるように差し出されたそれを受け取り、ミズキと共に火を灯す。

 くすぶるような明かりは、やがてパチパチと小さくも華やかな光となって、二人の顔を照らしだす。

「知ってる? 線香花火を落とさずに最後までつけていられたら、夢が叶うんだって。何お願いする?」

「……ミズキは?」

「んー? 私はしっかり何事も無く、寿命を全うすることかな」

 アキラはそれになんと言えばいいか、わからなかった。

 アキラは思う。もし、この線香花火が最後まで輝き続けたとしたら、何が叶うのか。ただ足踏みをするだけの自分に夢があるわけでもないのに。

「あ、あと少し……」

 そして、線香花火が落ちること無く、消えそうになった時、

「実は、もう一つ夢があるんだ」

「もう一つ?」

「うん!」

「どんな夢?」

「聞きたい?」

「教えてくれるなら」

 するとミズキはうふふ、とイタズラに微笑み、

「あたしね、アキラくんのこと――」

 その時、

 パァンッ! とアキラたちの背後で盛大な音を立て、花火が上がった。

 その音は、ミズキの言葉を打ち消していて――

 すると、ミズキは線香花火をジッと見つめて、クスクスと笑い出した。

 アキラにはどうして彼女が急に笑い出したのかわからなくて、

「え、と――それで、もう一つの夢って?」

「ううん! なんでもない! ねえ、それより、こんな所にいないでみんなのところに行こ!」

 静かな夜に、線香花火の小さな灯は落ちていく。


 お別れ会は盛り上がり、皆、大いに笑いあい、その時を終えた。

「いつかまた、みんなで集まろうな」

 屈託のない笑顔でそういったマコトに、ミズキの瞳から一筋の涙が零れていて。

 アキラはそれから目をそらし、家路についた。



           4



 マリが「少し話をしましょう」とアキラの部屋にやってきたのは、かのお別れ会から数日が経ってからの事だった。

「あなた、進路はどうするの?」

 しかしアキラは、それを無視して部屋を出て行く。

「待って! 真剣に考えて! 姉ちゃん、もうすぐ帰っちゃうんだよ!?」

 それを聞き、アキラはピタリと足を止めた。

「帰るって……――」

「アキラ?」

「家は、ここじゃないの?」

 それからアキラが振り返ることはなかった。

 姉を前にすると、すぐに逃げてばかりの自分に気がついて、なんだか情けなくなった。


 アキラは家を出ると、いつもどおりに裏手の丘へ向かった。歩きなれたあぜ道なのに、妙に足取りが重い。空気がどこか湿っぽくて、風が生暖かい。

 しばらくすると、立ち止まって空を見つめる。子供の頃から自然とともに生きてきたからか、この湿った空気の意味するところを、アキラはよく知っていた。

「あ、雨が降る」

 これはダメだ、とアキラは踵を返したが、一歩二歩も歩かないうちに、ゲリラ豪雨に襲われてしまった。やむ無しと近くにあった小屋の下に避難する。

 頭を振って水を飛ばし、雨が止むのをそこで待つ。

 轟々と降る雨の音は濡れさえしなければ心地よく、見たくないものを隠してくれるモザイクのように、アキラの心に燻る雑音をかき消してくれた。

 雨脚が最高潮となるころ、こちらに向かって走る人影が見えた。

 モモカだ。

「うおお、すんごい雨だ!」

 彼女はアキラのもとにやってくると、楽しげに笑った。今日のモモカはタンクトップにハーフパンツといった格好だった。

「お祖母ちゃんが用意してくれたの。可愛いだろー?」

 華奢なスタイルがはっきり目にとれて、やっぱり成長しないんだな、なんて思いながら胸元を見ていると、言い知れない罪悪感が沸いてくる。アキラはわざとらしく咳をした。

 しばらくすると、モモカがいった。

「今日、ミズキが来たんだ」

「祖母さんの家に?」

「そう。お花持ってきてくれた。そこで聞いたよ」

「何を?」

「この前のお別れ会で、ミズキに告白されたんだって?」

「……そうだったかな?」

「ミズキは邪魔が入って届かなかったって言ってたけど、本当は聞いてたんじゃないの?」

 アキラは無言に徹した。

「まあ、いいのよ。ミズキは『これでもう心残りはない』って言ってたし」

「何それ? どういう意味?」

「ミズキも島を出るんだって。だからその前に、貴方に『好きだった』って言っておきたかったんだってさ。今日、私のところに来たのも、お別れに来たみたい」

「そう……なんだ」

「もうちょっと周りのことを見ないとダメよ? 気がついたら一人ぼっちになってたって私は何もしてあげられないよ?」

 その言葉にアキラが何も返せるわけもなく、ただ黙していると、モモカはやはりいうのだ。

「会えなくなったらもう、言いたいことがあっても届かなくなっちゃうよ?」


 ――そんなこと言われたって、わからないんだ。


 雨が止んだら二人揃って帰宅した。

 モモカの言葉は、その夜になっても脳裏に張り付き、アキラが眠りにつくのをずいぶんと邪魔してくれた。『言いたいこと』――それを考えると、あのバーベキューの日、ミズキが言っていた言葉が脳裏をよぎる。

 ――あたしね、アキラくんのこと『好きだったんだ』。

 モモカの言う通り、本当はそれを聞いていた。

 聞こえていなかったわけではない。答えるタイミングを逃しただけだ。そもそも、あのあとミズキは答えなど興味ないとばかりに振舞っていた。強がりと言ってしまえばそれだけなのだが、先程、モモカに聞かされた『心残りはない』という言葉から、やはりミズキはアキラの返答など、不要だったのだろう。

 ミズキもまた島を出て行く。だから、きっと、あれは恋の言葉に載せた別れの言葉。いつか『久しぶり』と顔を合わせた時、濁り一つなく笑顔を咲かせるための――

 そして、ふと、気づくのだ。

「ああ、そうか……」

 そういうことか、とアキラは思う。

 また明日、じゃあね、バイバイ――別れの言葉なんて、今日までどれだけ言ってきたことだろう。この狭い世界で生きてきたからか、誰かと別れるだなんてことは滅多に無く、放課後を迎えた時だって、日が落ちて家に帰る時だって、その言葉に特別な意味を感じていなかった。この島に生きる者にとって、この島全体が家であり、そこに「さようなら」なんて、ありえなかったのだ。いや、もちろん大人たちはしっかりそれを知っているだろうけれど、子供のアキラは、この変わらぬ日常が永遠に続くものだと思っていたから、わかりようもなかった。

「モモカにも、姉ちゃんにも、一回も言ったことないや」

 ふと、流るる星々を見つめて、幼きあの頃の自分を思い出す。もしあの時、「行かないで」ではなく、別の言葉を言っていたら、何かが変わっていたのだろうか。

 どんな言葉を言おうとも、モモカも、マリも、行ってしまっただろう。しかし、マリもモモカも、「行かないで」という言葉を無視できるような人間じゃない。せっかくの大海に飛びだしたのに、いつだって後ろ髪を引かれる思いでいたのだろう。

 ――そうか、だからモモカは、帰ってくるのだ。

 彼女たちは、グズったれて泣き叫ぶ幼いアキラのことが、心配で心配で堪らないのだろう。姉が未だに世話を焼いてくるのだって、そういうことだ。

 自分はガキだったのだ。

 しかし、もうあの頃に縛られて、子供でいる時間は残っていない。いつまでも姉を、大好きだった少女を心配させてはいけない。

 もう一人で生きられるのだと、

 もう一人で旅立てるのだと、

 それを証明するために、

 この夏の夢の一時を、別れの言葉とともに終わらせないといけないのだ。


 いう言葉は、それだ。



           5



 翌朝、アキラは珍しく早起きをしてマリの部屋に行く。

 マリは「どうしたの?」と、アキラの顔を見返してきた。その視線から目をそらさず、アキラはいう。

「あの、姉ちゃん……あのさ……――」

 しかし、どうもうまく行かなくてどもっていると、マリは優しく微笑み、彼の頭を撫でた。

「進路、どうする? 島を出る?」

「……出たとしても、何をすればいいか、わかんないんだ」

「やりたいことなんて、今見つけなくたっていいのよ。立ち止まっていることがダメなの。進んで、新しい世界を見渡して、それからしっかりと、自分のやりたいことを見つければいい。小難しく考え過ぎなのよ、アキラは」

「あの……姉ちゃん……今までごめん」

「貴方に謝られるような覚えはないわ」

 アキラは一度頷いて、もう一つ、いった。

「姉ちゃん……もし俺がまた……『行かないで』っていったら、この島にいてくれる?」

「いいえ」

 マリはきっぱりと答えた。

「私には私の道があるもの。その道はこの島にはないの。でも、帰ってくるよ。私の家はここだから」

 それを聞いたアキラは、無理やりな笑顔だったけれど、マリのその真っ直ぐとした視線から、決して逃れようとはしなかった。

「そうだね。『いってらっしゃい』」

 マリは一度目をまん丸くしたかと思えば、ニコリと微笑んだ。

「まあ、まだ家にいるけどね。ほら、さっさと遊びにでも行ってき。私は寝る」

 しっしと、アキラは部屋から追いやられた。

 この夏休み、姉弟としてのまともな会話はそれだけだったのだが、きっと、それだけで良かったのだろう。姉弟とは、そういうものだ。



 そして、時は過ぎ――



 船が行く。

 いつもの丘の上。そこにある石碑の横で、アキラはお手製のフレーム越しに、広い世界へ旅立つ船を小さくなるまで見送っていた。

 その隣でモモカがいう。

「マリちゃん、行っちゃったね」

「また帰ってくるよ」

「そうね――」

 モモカは、どこか楽しげに笑っていた。

「ちゃんと言えたね。『いってらっしゃい』」

「そうだね」

「今、アキラは私の理想のダンディに一歩近づいたよ」

「何だそりゃ」

 モモカの顔を見て、アキラは小さく笑みを返した。

「さて、そろそろ私も帰ろうかな」

 モモカはうーっと背伸びする。太陽をつかもうとするかのように、手を伸ばす。その姿は夏の陽にあてられて、キラキラと輝いていた。

 アキラはその姿に見惚れて、頬をポリポリとかき、もう一度、モモカの目をシャンと見た。

「俺も島を出るよ。本島の大学、行こうと思う」

「そか。そうなると思ったよ」

 一人の少年が、ただ進路を決めただけ。しかし、それは、二人にとってはとてもとても重い決断だった。

 本島に行けば、様々なことがあるだろう。出会いもあるだろう。そうして島で過ごした幼き少年は大人になって、この島のことも、モモカのことも思い出にして、いつかは忘れていく。

 行かないで――その自らが発したその言葉に背を向け、去っていった人々と同じように、いつか二人が再開したときは『久しぶり』という言葉とともに、思い出を清算する。

 だからもう、縛られていてはいけないのだ。

 この島に――想い出に別れを告げる時が来たのだ。

「モモカ、今日までありがとう」

「お礼なんていいのよ。私はあれから毎日、泣いてた貴方が心配だっただけ」

「……なんで知ってるの?」

「私は貴方が好きだもの。だいたいわかる」

「……俺も、モモカのことが好きだったよ」

「それも知ってる」

 モモカは「にしし」とはにかんだ。その頬は真っ赤に染まっていた。

「モモカ――」

「おぉっ!?」

 アキラはモモカを抱きしめていた。強く強く、その温もりを忘れないように。

 モモカは決して抵抗することはなく、優しく優しく、アキラの背を撫でてくれて、それがとても心地良かった。

「どんなに環境が変わっても、優しいアキラのままでいてね?」

「ああ、約束する」

「ダンディな男になるのよ?」

「それは……毎年、ちゃんと島に戻ってくるから、ここで評価してくれ」

「あと――」

 それからも、モモカはあれやこれやと世話焼きの言葉をいって、アキラは律儀にうんうんと頷いた。

 やがて全てを言い尽くし、モモカはジッと、アキラを見上げた。

 中学生の頃から変わらぬ姿のモモカには、アキラの背丈はずいぶんと大きいものだ。

「ねえ、アキラ?」

「何?」

「私とミズキ、仲悪かったのよ」

「ああ、そうらしいね」

「理由、わかる?」

「大体予想はつくけれど、自分で言うのは恥ずかしい」

 モモカは笑う。

「彼女にするならミズキになさい。あの子はとってもいい子なの。あの子だったら悔いはない」

「……心に留めておくよ。呪われたら厄介だもの」

「でも――」

 そして二人は見つめ合う。言葉はなく。静かなさざなみの中に、二人だけの世界を築く。


 それは自然なことだった。

 ずっと想い合っていた二人が、その想いがようやく通じたのだから――

 モモカはちょっと背伸びして、アキラは少し屈んで、唇を重ねた。

 そのキスはずいぶんと長く続いた。いつか帰る夏の空の下で、互いの存在を確かめ合うように。確かに、隣りにいたのだと、忘れないように。

 やがて、ぷはっと、二人の唇が離れるとアキラはいった。


「さようなら、モモカ」

「ええ――さようなら、アキラ」


 そしてモモカは、一歩二歩と後退り、丘から走り去っていく。

 アキラはこの期に及んでその背に手を伸ばす。しかし、もう、モモカは手の届かない場所に行っている。

 どんなにそばにいたって、二度と届かないのだ。


「アキラくん!?」


 不意に、

 モモカと入れ違いにやってきたのは、ミズキだった。その手には大量の花束を持っていた。白百合と菊の優しい香りを、心地良いと思ったのは初めてだった。

 ミズキはアキラのもとにやってくるなり、興奮気味に、いうのだ。


「い、いいいい今、そこでモモカと! モモカとすれ違ったの! 『あんたにあげる』とか偉そうなこと言って、それで――」


 次第にその目に涙を浮かべるミズキを見て、アキラはケタケタと笑った。


「ちょっと、なんで笑ってんのよう。モモカがぁ、モモカがぁ……えぐっ」


 さて、これからこの少女に、どうやってこの夏の夢を語ろうか。アキラはそれに大いに悩んで苦笑する。


 幻想にとらわれていた幼き自分に別れを告げて、新たな世界へと旅立つ決意とともに、長い長い夏休みは、


 もう、終わりだ。


この話は学生が文化祭で発表する短編映画の脚本という設定です。つまり劇中劇です。

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[一言] やはり、文章力に圧倒されました(≧▽≦) ももかが幽霊であることに気付けづ申し訳ないです(汗 甘酸っぱい青春と、人の成長を描き綺麗に纏め上げた良作です。  ももかが、海難事故で亡くなってい…
[一言] あーなるほど、時化ってたのとか、そういうことでしたか。いろいろ辻褄あいますね。帰ってくるってお盆ってことですか。お盆なんて一言もいってないし笑 生きてるままでも行けるように書いたと。 いじわ…
[良い点] あ、どーも。土竜でたい。 読みに参りました(いや昨日だけれど) ・両手の人差し指と親指で造るフレームに、収まってしまうような小さな世界が、尊い思い出として綺麗に描かれていた点。 ・敢え…
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