4-12 『雨の日の弱音』
窓の外は暗く、地面に打ちつける雨の勢いは弱むことを知らない。
「せっかく宿を借りたのに、残念ですね」
大志を抱いたイズリは、哀愁に満ちた表情で雨雲に満たされた空を見上げている。
大志に光を浴びさせようとしたのだが、その思いとは裏腹に、あっという間に黒い雲が空を覆い隠してしまったのだ。
「仕方ないから、室内で遊ばせるしかないみゃん。……それにしても、どうすれば大志は元に戻るみゃん?」
「私に聞かれても、困ります。ただ、これは大志さんの能力ではないです。他の人の能力が関係しているとしたら、大志さんと理恩さんが合体……というか、一人になった時の能力のせいかもしれません」
理恩と一人になった大志は、理恩の能力を強化された状態で使っていた。
大志の中には、理恩の能力が確かにあったのである。
「でも、大志はその能力を使ってなかったみゃん」
「そ、そうですけど……。私たちの知らない何かが、あるのかもしれないですね」
大志も、能力についてはわからないことばかりだ。
ただ大志の中に他人を取り入れるということはわかるけれど、その他のことはわからない。今回のこれは、もしかしたら能力の副作用かもしれないのだ。
「そもそも、不思議みゃん。その能力は、因子の数を考えてないみゃん」
「そうですね。きっと大志さんには、能力とは別に特別な何かがあるのかもしれないですね」
イズリはレーメルの言葉を軽く流し、大志の頬を指でつつく。
そんなイズリの手を両手で握ると、幸せそうに言葉にもならない声を漏らした。
「かわいいですね……。今の大志さんになら、なんでもしてあげちゃいそうです」
「そんなこと言うと、大志が調子に乗るみゃん。今だって、胸に顔を押し当ててるみゃんよ」
レーメルの指摘された通り、イズリの胸を堪能している。
しかしイズリは、そんな大志に怒ることはない。ただ、優しく微笑んだ。
「こんな小さな子相手に恥じらっても仕方ないですよ。レーメルは厳しすぎます」
その時、扉をノックする音が聞こえた。
大志を抱いたまま扉を開けると、そこにはイパンスールとアルインセストが立っている。どうやら誰かが二人に居場所を教えたようだ。
しかしイパンスールは、イズリを見て、動きを止めた。
「どうしました?」
「……おまえ、それ子ども……」
イパンスールは、イズリに抱かれている大志を指差す。
大志が小さくなったことは、イパンスールには知らせていなかった。驚いてしまうのも、無理はない。
「はい。かわいいですよ!」
笑顔を見せたイズリに、イパンスールは膝から崩れそうになる。アルインセストが支えたので、倒れることはない。
そんな放心したイパンスールを見て、イズリは首を傾げた。
「あまりに可愛くて、倒れちゃいましたか?」
軽く笑ったイズリは、イパンスールとアルインセストを部屋の中へと入れる。
イパンスールを椅子に座らせると、その正面にイズリは座った。
「そ、その子ども……誰のだ……?」
信じられないとでも言いたそうな顔で、イパンスールは大志の顔を覗く。
「大志さんですよ。大志さんが私を選んでくれたので、こうやって幸せな時間を過ごしているんですっ」
「た、大志……あいつ、イズリと……」
頭を抱えて奇声を上げるイパンスールは、どうやら勘違いをしているようだ。
しかし、それを訂正することは、今の大志にできない。イパンスールが自分で気づいてくれるまでは、面白い姿を見られそうだ。
「兄さん、静かにしてください。泣いちゃったら、どうするんですか?」
「す、すまん。……大志に用があったんだが、ダメそうだな」
イパンスールは部屋の中を見回し、大志がいないとわかって、立ち上がる。
するとイズリも立ち上がり、帰ろうとするイパンスールを止めた。
「大志さんが戻ったら、私が伝えておきますよ。兄さんも、忙しいですよね?」
「……これは、言ってもいいのかわからないな。かつて先々代が、第二星区から鉄などの金属を大量に仕入れていたんだ。それが何に使われていたのかわかったから、知らせようと思ってな」
それは、イパンスールに調べるよう言っておいたものだ。
まさかこうも簡単に見つけられるとは、やはりイパンスールは優秀である。
「それなら、私もグルーパの一族として、知ってもいいのではないですか?」
「……そうだな。じつは、船という海の上を進むものを造ろうとしていたみたいなんだ。海の先へも侵略の手を伸ばそうとしていたのかもな」
イパンスールの取り出した設計図は、蒸気機関を用いた船のものだ。
大志が転移してくる何年も前から、蒸気機関の知識を持った人がいたということである。しかし極秘だったのか、その知識が広まることはなかった。それが今になって、わかったのだ。
「海に住むマーマンやマーメイドたちも、それは知っていたらしい。大志が戻ったら、俺のところに来るよう伝えてくれ」
イパンスールがいなくなると、再び室内は静かになった。
「イパンスール様は、きっと勘違いしていたみゃん」
イズリの隣に座ったレーメルは、頬杖をついて、大志の頬をつつく。
嫌がってみせると、レーメルは慌てた様子で手をひっこめた。
「何が勘違いなんですか?」
「大志のことみゃん。きっとイパンスール様は、大志のことをイズリの子どもだと勘違いしたみゃん。そのせいで動揺していたみゃん」
するとイズリの顔は、あっという間に赤くなる。
そんな顔を見上げつつ、自覚なかったのか、と大志は思った。
「そっ、そんな……まだ子どもなんてっ」
しかし、やぶさかではないといった顔が丸見えである。
「イパンスール様の誤解を解くためにも、早く大志を元に戻さないとみゃん。それに、大志に用がある人もイパンスール様だけじゃないはずみゃん」
「ですが、能力を調べることもできませんし、私たちにできることは……」
イズリの指が何度も唇をつついてくるので、咥えた。若干の抵抗はあったものの、ずっと触られていては、気に障る。
すると、これまた嬉しそうな表情をするので、イズリがよくわからなくなった。
「あぁぁ……お、おいしいですか?」
しまいには、そんなことを口走る。
ただの指を咥えただけで、おいしいと思うほうが異常だ。あまりの喜びに、そんなことさえもわからなくなったというのか。
「一生懸命に吸って、かわいいですね。……もしかして、お腹がすいているのですか?」
吸ってはいない。咥えているだけだ。
しかし、もはや本題はそこにない。お腹がすいたと勘違いしたイズリとレーメルが、慌て始めたのである。
「どっ、どうするんですか? 何を食べさせるんですか?」
「そんなの、ミルクを飲ませるに決まってるみゃん!」
「み、ミルクって、私のですか? で、出るかわからないですよっ」
「出るわけないみゃん! ティーコにつくってもらうみゃん!」
外の雨はやむ気配がなく、ティーコのところへ行くには、どうしても濡れてしまう。
大志としては、お腹がすいているわけでもないのでどちらでもいいけれど、それを知らないイズリとレーメルは、どうしようかと頭を悩ませる。
「……つ、連れてきたみゃん」
それからしばらくして、ずぶ濡れになったレーメルとティーコが部屋へ入ってきた。
レーメルに連れてきてもらうのが一番早い、と判断した結果である。
「すごい……濡れた」
二人の服からは、水が垂れていた。
レーメルはワンピースを脱ぐと、絞ってからハンガーにかける。
「下着までびしょびしょみゃん」
大志が子どもだからと安心しているのか、レーメルは躊躇なく、下着も脱いだ。
ティーコは少し気にしつつ、しかし風邪をひくので、レーメルと同じようにすべてを脱ぐ。
レーメルはいいとしても、ティーコのまで見てしまい、罪悪感に苛まれた。
「もう少しで、できますからね」
イズリは、ティーコに並んで作り方を教わる。
しかしティーコは裸だ。部屋の中は適温に保たれているため、服を着ていなくても寒いことはない。
「まずは水を沸騰させる。菌を死滅させるために、できるだけ沸騰させたほうがいい」
水が沸騰するよりも先に、大志の頭が沸騰してしまいそうだ。
これ以上見ないように身体ごと向きを変えると、イズリは慌てて後退する。
「もしかしたら、火が怖いのかもしれないですね」
水を沸騰させるために、火をつけたところだった。
コンロのような便利なものはなく、薪を燃やすものだ。
「緊縛様、怖がり」
「仕方ないですよ。まだ、子どもなんですから。……レーメル、少し大志さんを見ていてくれますか?」
「風呂に入ろうと思ってたのに、仕方ないみゃん。一緒に入れてもいいみゃん?」
イズリからレーメルへと手渡される。
イズリとは正反対の真っ平らな胸に、つい手を伸ばしてしまった。理恩ほどもなく、壁そのものである。
「んみゃッ! なんで触ったみゃん?」
「いいじゃないですか、子どもなんですから。いろいろなことに興味を持っていていいと思いますよ」
子どもというだけで、何をしても許されるようだ。
さすがにイズリは、子どもに甘すぎる。そんなことでは、いつか子どもに襲われそうだ。
「それにしても、どんなことを思ってるか、わからないみゃんね……」
湯船に浮かぶようにして浸かる。
レーメルにしっかりと支えられ、落ちることはない。
「本当は喋れるんじゃないのかみゃん?」
そんな疑いをかけてくるレーメルを叩いた。しかし、あまりの力のなさに、触れたと言ったほうが近いかもしれない。
意識はしっかりとあるけれど、喋れはしない。喋れないというだけでここまで意思疎通ができなくなるとは、魔物の苦労してきた気持ちを思い知らされる。
「大志の住んでいた世界は、ここよりも暮らしやすかったみゃん?」
レーメルは大志の身体を撫でながら、つぶやいた。
その目はどこか儚げで、大志を見ているのに、大志ではない何かを見ているようだった。
「クシャット様には感謝しているみゃん。……でも、もしも大志に拾われていたら、もっと幸せになれたかもしれなかったみゃん……」
レーメルの口から出たクシャットという名。聞いたこともない名だが、それよりも拾われたというのは、どういうことだろうか。
レーメルはグルーパ家に雇われたはずだが、それより前にも誰かに仕えていた。しかしそうなると、さすがにレーメルが幼すぎる。
「私がレーメルになる前……服と呼べるかもわからない布切れを着て、毎日飢えに苦しんでいた時に、大志に出会えていたら。その頃はまだ大志がいないとわかっていても、そんなことを考えてしまうみゃん。……それくらい今が幸せに感じられて、それまでが苦痛だったみゃん」
濡れた大志の身体に、雫がこぼれた。
それは大志を温めるお湯よりも、純粋で、清らかで、濁りのない雫である。
「差別の対象だった不良も、大志は受け入れてくれたみゃん。大志のおかげで、第三星区の人は不良に嫌な目を向けなくなったみゃん。……大志は、私のような不良に、居場所をつくってくれたみゃん」
しかしそれは大志のおかげではなく、レーメルたちの頑張りのおかげだ。
レーメルたちが、今まで問題を起こさずに生きてきたからこそ、認められるようになったのだ。大志はその手伝いをしただけである。
それだというのに、レーメルの涙は次々に溢れた。
「こんな時くらい、弱音を吐いてもいい……?」
その声は、まるでレーメルではないようだった。
大志は腕を伸ばし、頬を撫でる。今の大志にしてあげられることは、こんな些細なことしかない。
大志だって親が死んだり、仲良くなった友人も死に、つらい思いをしてきた。しかし、レーメルの受けてきた差別などに比べれば、それは些細なことにすぎないのかもしれない。
「まるで、聞こえてるみたいみゃん……」
レーメルは口からそう漏らしつつ、目を閉じた。
もはや聞こえていたとしても、いいのだろう。
「私は、強くなんてなかったみゃん。不良として生まれたせいで、無理やりにでも強く見せないと、生きられなかったみゃん。でも運がいいことに、強く見せるにはもってこいの不良だったみゃん。だから、力を見せつけた。……なのに、思った通りにはならなかったみゃん」
レーメルだけでなく、ペドやレズも同じような境遇だったのだとしたら、目も当てられない。
たしかにレーメルたち不良は、大志のような一般人から見たら、殺戮兵器と大差ない。それと最初から仲良くなんて、できるほうがおかしい。
「店では何も売ってくれないし、不良じゃない家族まで標的にされたみゃん。……孤立した私は、クシャット様に拾われて……」
そこでレーメルは、口を閉ざした。
クシャットに拾われたということは、レーメルの本当の家族は、もういないのだろうか。それとも、家族への被害をなくすために、自ら距離をとったのか。
「今の私は、たくさんの犠牲の上で生きてるんだみゃん」
レーメルは悲しげに微笑むと、大志の額に唇を当てる。
そして再び見えたレーメルの顔は、明るく笑っていた。今までの暗いレーメルは、そこにはいない。
「弱音はここまでみゃん。笑ってないと、大志がうるさそうみゃんっ!」




