1-9 『千頭理恩の初体験』
「見たいって言ってくれれば、いくらでも見せるのに……」
私にとって大志は、唯一の幼馴染みであり、家族だった。そして、とても大切な、特別な相手。
私にできる範囲だけど、大志の望みは叶えてきたはず。どんなことでも、大志が喜んでくれるなら私も喜んでやった。
今回のことは、いきなりで心の準備ができていなかった。それに、大志が見たかったのは私の反応で、もしかしたらこの行動が正解だったのかもしれない。
「大志が喜んでくれるなら、私、何でもするからね……」
けれど、肝心の大志はここにいない。
今まで大志には愛情を注いできたつもりである。たとえ大志が学校に行きたくないと言っても、私はそれを否定しなかった。大志が大変な思いをしないためにも、私が頑張ってきた。なのに、詩真の存在が私の存在意義をなくした。
私にとって大志はすべてだった。なのに、詩真のせいで大志と私の間には距離ができてしまった。
涙がこぼれる。とめどなく溢れ、そして地面に落ちた。
「これから、どうすればいいの……」
大志が私を必要としなければ、私は何をすればいいの。
涙の落ちていく行方を見ていると、誰かの足が視界に入った。
ここは大通り。道の端には露店が並び、人通りも多い。足など、視界の中にいくつもあった。しかし、見えている足は、他とは違う。私のすぐ前に立っているのだ。
「お嬢さん、大丈夫かい?」
顔をあげると、長いもみあげが特徴的な、小太りな男がいた。
男の目は私に向けられており、その手も私へと差し出されている。
「だ、大丈夫ですっ」
小太りな男の横を通りすぎようとすると、その男は咄嗟に私の手を掴んだ。
大志以外の男に触られたのが久しぶりすぎて、少し驚いてしまう。
「すまない。驚かせるつもりはなかったんだ」
その声は優しかった。
握る手も力強くない。本当に私を心配している。
しかし、『知らない人についていくな』と大志から何度も教えられた。だからいくら相手が心配しようと、ついていくことはない。
「なら、離してください」
「それはできない。泣いてる子を放ってなんかおけないよ」
大丈夫って言ってるのに、なんで。でも、この人を見てると安心してしまう。
絶対についていかないと決めていたのに、その決意すら、もうなくなってしまった。
「少し、お茶でもしようか」
アンティーク調の内装の店に入る。
「自分の家のように、ゆっくりしていいからね」
そう言って、男は私の前に白いコーヒーカップを置いた。中に入っている黒い飲み物はコーヒーだろうか。
この世界に来てからまだ数日だけど、元の世界にない食べ物をたくさん見てきた。だから、食文化も異なっているのかと思っていたけど、違うのかもしれない。
私と小太りな男がいるだけで、店の中はとても静か。妙なくらいに。
「他の客はいないんだね……」
「ああ。ここは夜の店だからね。昼間はたまにしか開かないんだ」
まだそういった店には行ったことがない。大志も興味がないみたいだから、私も行く意味がないのだ。
コーヒーカップを持ち上げ、口をつける。
「にが……」
「口に合わなかったかい?」
「……少し」
男は軽く笑うと、置いたグラスの中に持ってきた何かを注ぐ。
しゅわしゅわと底から気泡が湧き出ているから、炭酸飲料なのだろうか。
「なら、こっちはどうかな?」
差し出されたグラスを持ち、中身を口内に移す。
口の中を、軽くしびれたような感覚が襲った。
「大丈夫そう……」
「よかった。これで少しは落ち着けるかな?」
「あなたは、なんで……こんなにしてくれるの?」
すると男は息を吐いて、正面に座る。
二人しかいない空間はとても奇妙だけれど、不思議と警戒心はなくなっていた。
「君を放っておけなかったからだよ。ところで、何があったか聞いてもいいかい?」
単刀直入にわけを聞き出そうとする。しかし、いくら警戒心がなくなったとしても、話せるような内容ではない。
私が躊躇うと、男は手の平を前に出した。すると心の中で何かが解ける。
「嫌ならいいんだ。でもね、辛いのなら、君の力になりたい」
「私の力に……?」
男の目には、強い信念のようなものが感じられた。
もしかしたら私の他にも、複数の人が悲しんでいるのを救ってきたのかもしれない。それなら、きっとこの人はいい人だ。
完全に信じきってしまった。だから、すべてを話してしまった。私が苦しんでいた原因の全てを。
「なるほど。つまり、そのタイシという人に裸を見られてしまったわけだね」
「少し違うけど、そう」
私と大志の関係、今までの思い出、私の大志への想い。すべてを静かに聴いてくれた。
言ってから後悔してしまう。別に言う必要もなかったのに、言葉が次から次へと紡ぎだされた。まるで開いた穴から水が流れ出るように、自制できなかった。
「君はタイシが好きなんじゃないのかい?」
「それは……」
好きじゃない。けれど、それが声にならない。
いくら口を動かしても、かすれた息が出るだけで、どれも声と呼ぶには程遠い。
大志には詩真がいる。だから、大志に好意を向けてはいけないのだ。私が大志を好きになってしまったら、大志はきっと困ってしまう。そして詩真とも、今までの関係ではいられなくなる。
「何を躊躇っているんだい? ここには二人しかいない。君の正直な思いを聞かせてほしい」
男の言葉は、私の胸を苦しめた。
私は大志を好きになってはいけない。なのに、そう思えば思うほど、胸が苦しく、痛くなる。
「私の……正直な?」
「そう。君の話を聞いているとね、なんだか遠慮している気がするんだ」
遠慮なんてしていない。私は、大志が楽しく暮らせるように、行動しているだけだ。大志の幸せは、私の幸せ。だから、大志が幸せになってくれれば、私はそれでいい。
口をつぐむ私に痺れを切らしたのか、男は私の目の前で、ぐるぐると人差し指で円を描くように二回転させた。それにどういった意味があるのか、わからない。
「何なの?」
「正直になる、おまじないさ」
ばかばかしい。そんなおまじないがあるものか。
「それで、君はタイシが好きなんだろう?」
「……そう。好き」
驚いた。思ってもいないことが、口から出た。
訂正しようとするが、声が出ない。それどころか、口すら動かなくなる。
明らかにおかしい。私の身体が、私の意志とは関係なく動いている。それはとても不気味で、恐怖そのものだ。
「やっと正直になってくれたのかな。君はどうして嘘をついたのかな?」
嘘なんかじゃない。好きじゃない。好きになってはいけない。
けれど、どれも声になってくれない。まるで操り人形になってしまったかのような気分だ。
「私が大志を好きだと、皆が困るから」
「他人が困るから、君は君の幸せを諦めるのかい?」
どうでもいい。大志が幸せなら、私の人生なんて投げ捨てたっていい。
私の人生は、大志のもの。そして、私の身も心も、すべてが大志のもの。
「いいの。大志さえ喜んでくれれば、それで」
私の言葉に、男は深いため息を吐いた。
いくら呆れられようが、それが私の幸せであることに違いはない。
「けれどさ、もし君の幸せとタイシの幸せが重なったら、どうかな?」
「意味がわからない。私の幸せと大志の幸せは、もともと同じなの」
すると、すかさず男が私の頭を掴んできた。潰されるんじゃないかというほどの痛みが襲う。
優しかった男はもうそこにはおらず、怒りで表情を崩した男がいるだけだ。
「わっかんないかなぁ。タイシと相思相愛になれたら、幸せだろって言ってんだよ」
「でっ、でも……大志には、しっ、うッ、詩真が……」
「邪魔者は、排除するだけだ」
耳元で囁かれる男の声。意識が遠のいていくのを必死で堪え、なんとか意識を繋ぎとめる。
何かがおかしいって話じゃない。この男は、何かの能力者。そして私に何かをさせようとしている。こんな時に大志がいてくれれば、なんて考えてしまう。
「もっとタイシを求めろ。タイシへの想いで心を満たせ!」
「な、何が目的……なのッ」
しかし、男から返答はない。口の端を上げ、白い歯を見せる。
いつもピンチの時は、大志が助けてくれた。幼い時からずっと、大志は悪くないのに、私の代わりに罪を背負ってくれた。あの時の、突き落とした時のことまでも、すべての責任を背負ってくれた。
だから私はすべてを大志に捧げる。捧げてもなお返せないほどの借りが大志にあるのだ。
「だぁッ、だめっ。大志は巻き込まない!」
男の手を振りほどき、空間に穴を開ける。はずだった。
しかし、いくら空間の穴を開けようとしても、開かない。これでは空間移動ができない。
「どうした? 能力が使えないのは初めてか?」
「あなたが何かしたの!?」
すると男は自分の顔を手で隠し、ひそかに笑う。
能力がなくなったのと、この男はどうやら関係がありそうだ。しかし、この世界で能力を消すというのは、生死にかかわる。生きていくためにはギルドで稼がなければならない。そしてギルドに入るためには能力が必要不可欠。
「返して!」
「なら、タイシを求めろ。邪魔者は排除しろ」
そんなのできるはずがない。私は大志を求めてはいけない。私は大志へ好意を向けてはいけないのだ。私は大志の道具として、大志に必要とされた時だけ、大志のためになれればいい。
「邪魔者って誰なの……」
しかし、私の気持ちは揺れ動く。もしも、私も大志へ好意を向けていいのなら。
誰よりも長く大志に連れ添った私の、心に閉じ込めていた気持ちが溢れてくる。
「君とタイシの間にいる邪魔者は、一人だけだろ?」
詩真だ。しかし、大志は詩真に気がある。それなのに、邪魔者なんて……
邪魔者は、私のほうだ。大志の幸せを邪魔しているのは、詩真ではなく私。
「いいかげん、素直になれよ!」
再び頭を掴まれる。立ち眩みをしたかのように、視界がぐるりと回った。そして私は静かに目を閉じる。
「おーい、生きてっかー」
頬を何度も叩かれ、その痛みで目が覚めた。
目を開ければ、そこは暗い壁に囲まれた場所だった。積まれたゴミ袋の上に横たわっている。
そして私を見下ろす三人の男。顔に大きな傷跡があったり、着ている服がやけにぼろかったりするが、何よりも驚いたのは、頭に小さな角が生えていることだ。
「兄ちゃん、それ」
察してくれたのか、一人が角を指摘してくれる。
指摘されると、兄ちゃんと呼ばれた男は慌てて角を頭に押し入れた。とても痛そう。
「って、おめーもじゃねーか!」
兄ちゃんと呼ばれた男は、指摘してきた男にチョップを食らわせる。すると、頭を叩かれた勢いで角が隠れた。
何なのかわからない。外見はほぼ普通の人なのに、角が生えている。肌も黒く、不気味だ。
「やぁ、すみませんね。騒がしい連中で」
「はぁ……」
他の二人と違って、真面目そうな少年だ。いや、少年かはわからない。童顔だが、身長は他の二人と同じくらいである。その少年にも角はあるが、隠そうとはしない。
「それで、ねえちゃんは、なんでこんな所にいるんだ?」
三人の中で一番偉そうな男が、ごみ袋の上で横たわっている私を見下ろした。
「兄ちゃん、それ兄ちゃんにも言いたいんだけど」
「るっせーな! 今はこのねえちゃんに聞いてんだよ!」
なぜと言われても、私もわからない。私は今まで何をしていたのだろう。
大志から逃げて、それで何があったんだっけ。思い出せない。何かを忘れているような気がするんだけど、まったく思い出せない。
「私もわからない。気づいたら、ここに」
「そうか。お互い大変だな」
お互いということは、この三人もここにきた理由がわからないのだろうか。それとも、私を落ち込ませないように、同じ境遇だと言っているだけだろうか。
「あなたたちは何者なの? それと、ここはどこ?」
色々なことがあったけど、今までこんな見た目をした人はいなかった。まさか、また別の世界へと来てしまったのだろうか。
「ここはサヴァージングの外れにある、廃墟だらけの場所だ。そして俺はヘテ。こっちのまぬけそうなのがロセク。で、この頭良さそうなのがシュアルだ」
サヴァージングということは、ここはまだ町の中で、同じ世界ということだ。
まぬけと言われたロセクは、ヘテの服を掴んで持ち上げる。見かけによらず、力はあるみたい。
「兄ちゃんのほうが、まぬけ」
「わ、わかった! わかったから、下ろしてくれぇ!」
それほど高くは上げられていない。もし落とされても、尻餅をついて済む程度の高さだ。それなのに、この慌てようは少しおかしくて、笑ってしまいそうになる。
「わ、笑うな!」
顔を真っ赤にして、ヘテは声を上げた。
しかしその姿を見ると、ますます笑いが込みあげてきてしまう。
「笑ってないよ。全然」
「目が笑ってんだよッ!!」
「それで、ねえちゃんは誰だ?」
ロセクに下ろされたヘテは、地面に尻をつく。
私はごみ袋からおり、ヘテへと手を差し出した。
「私は千頭理恩。よろしくね」
するとヘテは、ロセクへと目を向ける。シュアルは目を伏せた。
しかしロセクは、ほけーっと反応を示さないので、ヘテは諦めて咳払いする。
「リオンっていうのか。だが、よろしくはできねーな」
「なんで?」
するとヘテは自分の頭を指差した。そこにはさっきまで角があった。人間にはない、角が。
この世界の住人ではないから、それが何を意味するかは知らない。だが、何か良くないものなのだということは、何となくわかった。
「詳しいことは自分で調べてくれ」
「……わかったよ」
もし大志のような能力があったら、触っただけでわかるのに。
しかしその考えと共に頭を振る。大志と同じ能力があればなんて、おこがましい。私は大志の道具であり、大志と並んではいけないのだ。
「やぁ、それじゃ、安全な場所まで送りますよ」
シュアルに手を引かれ、細い道を進む。
ここは何か危険な場所らしい。シュアルの話では、社会に相容れなかった者たちが、ほそぼそと暮らしている。そのため、知らない人を見つけると襲ってくるらしい。
「ずりーぞ! シュアルだけ、手なんか握って!」
「兄ちゃんと同じ意見」
私がシュアルと手を握っているのが気に食わないらしく、ヘテとロセクは口を尖らせる。
「手ぐらい、言ってくれれば握るよ」
空いているほうの手で、ヘテの手を握る。するとヘテは一目でわかってしまうほど、顔を赤くした。そんなに恥ずかしいことなのかな。
ヘテにしたのと同じように、ロセクの手も握る。
「兄ちゃん、嬉しい!」
「あの……握ってるの、私……だよ?」
「ロセクは恥ずかしがりやなんだ」
そうなんだ……。でも、喜んでくれるのは素直に嬉しい。
「――理恩ッ!」
その時、聞き覚えのある声が響いた。