3-29 『タイシなら』
「こっちに来てよかったのか?」
ついてきたイズリを尻目に、イパンスールは声を漏らした。
もはやイズリをそばに置いておこうとは思っていない。タイシがいれば、イズリは安全だ。だというのに、迷うこともなくイズリはついてきた。
「はい。大志さんは、私がいなくても大丈夫です。……私が、いなくても」
「それなら、俺だって大丈夫だ。イズリは、イズリの行きたいところへと行けばいい」
イパンスールのうしろには、アルインセストもついてきている。
能力のせいで、イパンスールには対等に話せる存在がいなかった。タイシが、くるまでは。
タイシが正してくれたからこそ、イパンスールはすぐ近くにあった特別な存在を、そして本当の愛を知った。そんなタイシになら、妹を任せられる。
「そんなの、当たり前じゃないですか。私だって、兄さんが心配なんですよ」
「……妹に心配されるとは、兄として失格だな」
「たとえ、どんな兄さんでも、私の兄さんです。私にとって、唯一の兄さんですよ」
するとうしろをついてきていたアルインセストが足を速め、イパンスールの腕を抱いた。
そして目を閉じたままのアルインセストは、イズリに顔を向ける。その表情はどこか不機嫌そうで、イズリにわずかな敵意を向けている。
「な、なんですか?」
「イズリが気にするようなことではない。アルインセストも、そんな顔をするな」
アルインセストの頬に触れると、愛おしそうに頬ずりした。
イズリはよくわからないといった風に、首を傾げる。しかし、それで十分だ。イズリが気にするようなことではない。
イパンスールは足を速め、助けるべき相手を追う。
「ちょ、ちょっと兄さん……」
急に足を速めたイパンスールに戸惑いながらも、イズリは追ってくる。そしてアルインセストは、いまだに腕を抱いたままだ。
走りづらいが、これでアルインセストが笑ってくれるのなら、何時間でもやっていられる。やはり恐怖に染まった顔よりも、笑顔を見るほうが、イパンスールとしても心が休まる。
「アルインセスト……お前はずっと、俺を……」
イパンスールがまだ幼いころ、イパンスールが緊縛になるよりも前。
先代の緊縛が、六星院から帰る途中に、一人の捨てられていた少女を拾ってきた。
珍しい黒髪に、人が捨てられているという異例の事態。ちょうどその頃、イパンスールの使用人となる不良を探していたところだったが、見つかっていなかった。そのため、不良かどうかにかかわらず、その少女を使用人として家に連れ帰った。
「俺はイパンスール。お前の名は、なんだ?」
イパンスールは、目をつぶっている少女に目を向ける。まるで眠っているかのようにも見えるが、その姿はあまりにも失礼で、つい能力で恐怖を与えてしまった。
すると少女はビクッと身体を震わせ、次の瞬間には床に座り込んでいる。
「ごっ、ごめんなさいっ! ごめんっ、なさっ、いっ……ぐすっ……」
泣いてしまった少女の顔を覗きこむと、まだ目はつぶったままだ。
恐怖を与えても目を開けないとなると、イパンスールでもお手上げである。
「なぜ目を開けないんだ?」
「……めっ、目をっ、あけ、ると……みっ、みんな、止まって……」
少女の声に、イパンスールの眉間にはしわが寄った。
そんな面倒なことを、わざわざするはずがない。しかし少女が嘘を言っているようでもない。
「それが、お前の能力か?」
「え……? のう、りょく?」
人である以上、能力を知らないはずがない。しかし少女はまだ幼い。自覚がないだけなのかもしれない。
イパンスールは無理やり少女の目を開けさせる。しかし、開けたと思ったら、イパンスールの手は少女から離れており、少女の目は閉じられたままだ。
「間違いないな。目を開けると、何かしらの能力が使われるみたいだな」
それがわかっても、肝心の能力はわからない。しかし、それでいいのかもしれない。目さえ開けなければ、能力があってもなくても変わらないからだ。
イパンスールは手短に、そばにあった包帯を使って、少女が目を開けないように巻きつける。
「あっ、あの……」
少女は困惑した声を漏らすが、これも少女のためだ。
「これからは目を開けるな。お前の目に何が映るのか知らないが、目を開けなければ能力を使うこともなくなる」
「こっ、怖い……」
少女の視界は黒く染まっている。
イパンスールは震える少女の手を握り、ゆっくりと手を引いた。
少女はおぼつかない足で、ゆっくりと、ゆっくりと前へ進む。少女のためにも、慣れさせなければならない。使用人として働くのだから、歩行ぐらい一人でしてくれなければ困るのだ。
「慣れるまで、俺がついてる。まだ俺もお前も子どもだ。まだ時間は、余るほどある。だからゆっくり、確実に身につければいいさ」
「はっ、はいぃ……」
少女は気の抜けるような声を漏らし、足を前に出す。
倒れそうになれば支え、恐怖で足がすくんだら、恐怖が消えるように話し相手になった。イパンスールは朝から晩まで少女に付きっきりになり、まるで主従が反転してしまっているようにも見える。
「イパンスール様は、どうしてそこまで、私を気にしてくれるのですか?」
ある日の朝、少女は、イパンスールに抱いていた疑問を打ち明けた。
するとイパンスールはその問いに、迷うことなく答えを返す。
「お前の目を封じたのは、俺だ。だから俺は、お前の目となる。お前が使用人として俺を支えるのだから、俺もお前を支える。俺のせいで、お前を悲しませたくない。……もっと答えが欲しいか?」
今度はイパンスールが、優しく問いかけた。少女は静かに首を横に振る。
それを確認して、イパンスールは少女の手を握った。
「さあ、立てるか?」
少女はイパンスールの手をしっかりと握りしめ、ベッドからおりる。
立つだけなら、足が震えないほどになった。その成長をしっかりと胸に刻み、イパンスールは手を引く。
それはもう、毎日が楽しくすぎていった。少女と一緒にいると、これまで感じられなかった喜びや幸福感で胸が満たされ、夜なんてこなければいいのに、と思うようにもなっていた。夜になれば少女とは離れ、別々の部屋で眠りにつく。少女と離れるのが、イパンスールにとっては苦痛でしかなかった。
「……早く、朝に……会いたい……」
布団の中でつぶやき、そこであることを思い出した。
少女の名だ。少女の名を、いまだに知らないのだ。
「お前の名を、教えてくれ」
その日、少女を迎えにいったイパンスールは、目をつぶったままの少女に問いかける。
今までなぜ知らずにいられたのか、不思議でならない。
するとイパンスールの言葉に、少女は明らかに落ち込んだ。
「どうしたんだ? 教えて、くれないのか?」
今度は首を横に振る。
「ないです。イパンスール様が、つけてください。イパンスール様がつけた名を、これから名乗ります」
思いがけない返答に、イパンスールは唖然とした。
少女にも、名があるはずだ。しかしその名を、教えてくれない。二人の間にある主従の関係が、少女にそう言わせてしまっているのかもしれない。
「それで、いいのか? 本当の名前を、捨てるのか?」
「はい。私の名を、ください」
怒りの感情すら、生まれなかった。少女が生きやすいように、手間をかけてきたつもりだった。少女の人生を守りたいと思っていた。それなのに少女は、自分の名を捨てるというのだ。やるせない気持ちがイパンスールを包み、無造作に、そして適当に口から出た言葉。
「アルインセスト」
それが、少女の新しい名である。
イパンスールの心の変化に気づいていないのか、アルインセストは微笑んだ。しかしイパンスールは無言で、アルインセストの寝ていたベッドに腰を下ろす。
「イパンスール様?」
手を握ろうとするアルインセストから逃げるように、横になった。
すると部屋の扉が開き、イパンスールよりも年上の女が中へと入ってくる。
「やっほー、イパンスール君の使用人を見に来たの」
入ってきたのは、ラフード・ルミセン。イパンスールよりも年上だが、その年齢はイパンスールでも知らない。
ルミセンはアルインセストの姿に、首を傾げる。
「なんで目を隠してるの?」
「これは、ちょっとわけがあって。それよりも、せっかく来てくれたんだ。町を見に行こう」
イパンスールはベッドからおりると、ルミセンの手を引いて、外へと出ていく。
残されたアルインセストは、一人で立ち上がり、怖かったけれど、イパンスールのあとを追った。目を開ければ追いつくことなんて簡単だ。しかしイパンスールに目を開けないように命じられた以上、許可なく開けるわけにはいかない。
「イパンスール様……」
「ちょ、ちょっと、どうしたの?」
イパンスールは走っていた。どうしようもない感情を向ける矛先がなく、ただ走り続けている。
町は廃れ、歩いている者たちは、今日の食にも困るほどだ。しかし、それは当たり前。緊縛の家系に生まれなかった者たちは、緊縛にすべてを捧げ、幸せになることなどあってはならない。
「……お前も、もしかしたら……」
イパンスールの発した言葉は、ルミセンに向けられたものではない。もちろん、町を行きかう人に向けられたものでもなかった。
考えれば考えるほど苛立ってしまい、手を引くルミセンの足の遅さにまで苛立ってしまう。
「イパンスール君?」
「うるさいっ!」
振り返ろうとすると、足が絡まり、イパンスールは一人で転んでしまった。
走っていたこともあり、イパンスールは地面をすり、膝に擦り傷をつくってしまう。
「もー、イパンスール君ってば、ふざけてるからそうなるの」
すかさずルミセンは応急用具を取り出し、イパンスールの膝に応急処置を施した。
しかしそれに恩を感じていないのか、イパンスールはルミセンを睨みつける。
「ふざけてないっ! ルミ姉さんが遅いから!」
「それは、ごめんなさい。じゃあルミも頑張っちゃうの」
応急処置を終え、ルミセンは笑ってみせた。
ルミセンが怒っているところを、イパンスールは見たことがない。今も怒る様子はまったくなく、イパンスールに微笑んでいる。
イパンスールは礼も言わずに、再び走り出した。そしてそのあとを、負けじとルミセンも追いかける。
「ここだけは、まるで別世界なの」
イパンスールの隣に、ルミセンは腰を下ろした。
見渡せば、青々とした芝生が敷きつめられ、湖のほとりに立っている大木の周りで、小鳥たちが鳴いている。
荒れた町とは違い、この場所だけはグルーパ家が保管しているのだ。
「当たり前だ。安らぐ場所くらい、なくては困る」
「……それも、そうなの。イパンスール君は、すごいの」
ふいに頭を撫でられ、イパンスールは顔が熱くなる。
慌ててルミセンの手を振り払い、イパンスールはまた走り出してしまった。休憩なんてしている暇もなかったルミセンも、イパンスールのあとを追う。
そして城への道を走っていると、壁を伝いながら道を歩いているアルインセストを発見した。
「何してるんだ! 一人で歩いたら、危ないだろ!」
イパンスールの声を聞いて、表情を明るくしたアルインセストは、つい壁から手を離してしまう。すると当然アルインセストはバランスを失うけれど、倒れるよりも前にイパンスールが抱きしめた。
「イパンスール様のあとを……」
「そんな無茶しなくていいんだ。一人にしたのは、謝る。お前にもしものことがあったら、俺は……っ!」
アルインセストを強く抱き、自分が愚かだったと痛感する。
もしもアルインセストが怪我でもしたら、立ち直れないほど大きなショックを受けていたかもしれない。
「イパンスール様が謝ることはありません」
「ごめんな、アルインセスト」
歩いていると、城の敷地内から、普段は聞かない音が聞こえてきた。
「おい、何か音がしなかったか!?」
イパンスールは声をあげ、アルインセストの手を引いて走る。そして門をくぐり、音が聞こえてきた庭へと足を進めた。
するとそこには、庭で遊ぶ妹のイズリと、見ず知らずの男、そして空中に浮かぶ黒い球体がある。
「貴様、誰だ?」
町の者にしては、やけに立派な服装だ。しかし緊縛の家系にいる者でもない。その男の存在は、あまりにも異様すぎる。
「イパンスール君の知り合いじゃないの?」
ルミセンが男に問いかけるけれど、知り合いのはずがない。
イパンスールの知り合いは、まだ片手で数えられるほどしかいない。
「俺は、タイシだ。それよりも、イズリを安全な場所へ!」
男は不思議なことに、イズリの名を知っていた。
イズリの名は、家の外へは持ち出されていない。知っているとしたら、緊縛と何らかの関係がある人物かもしれない。
「タイシといったか。なぜイズリの名を知っている? 何が目的だ?」
するとタイシは、バツが悪そうに眉間にしわを寄せる。
そして空中にある黒い球体を指差した。
「この黒い塊が、イズリを狙ってるんだ! 俺はイズリを助けたいだけだ!」
「……タイシさんは、イズリとどんな関係なの?」
ルミセンが、冷静を装いながら、イズリとの関係を聞き出そうとする。
もしもイズリの命に危険でもあれば、イパンスールやルミセンよりも、一緒にいたアルインセストが多大な罰を受けてしまうはずだ。
「関係はない。ただ、助けたいと思っただけだ。……この町の人も、ずいぶんと苦労してるみたいだ。その苦労を一緒に背負うのが、緊縛じゃないのか?」
「……ルミも、何とかしてあげたいけど、無理なの」
ルミセンがそう口にすると、タイシは球体からルミセンへと視線を移動する。
「やる前から無理って決めつけたら、何もできないぞ」
タイシは黒い球体を掴むと、城の裏門から出ていった。
するとルミセンが第一にイズリを抱き上げる。イズリに怪我はなく、無事のようだ。
「町の人が苦労……。それは、いけないことなのか?」
タイシの言っていたことを思い出し、イパンスールの口から言葉が漏れる。
今まで町の人が苦労するのは、当然と考えていた。しかし、その考えは間違っていたのか。
もしもアルインセストが拾われずに、苦労していたらどうだろうか。そんなの、考えるだけでも嫌である。
「この町は、おかしいのか……」
「思い出したかと思ったら、まさかタイシの名で置き換えられてるとはな」
あの日、イパンスールに言葉を残した男の名。それが誰なのか、イパンスールは覚えていないのだ。
記憶の中でタイシと名乗っているのは、それほどまでに、タイシがイパンスールに与えた影響が大きかったからだろう。
「イパンスール様?」
「あ、いや、何でもない。今は、目の前に集中しないとな」
イパンスールの目の前には、ルミセンがいた。
そのうしろでは、腕と足を大の字に開かされて拘束されたポーラがいる。諦めているのか、抵抗する様子もない。
「イパンスール君、どうしてきたの? イパンスール君は、ルミの味方じゃないの?」
「それは、ルミ姉さんを助けるためだ。名器を取り出したら、ポーラは死んでしまうんだ」
すると、ルミセンは鼻で笑った。
そしてその笑い声はだんだんと大きくなり、高笑いへと変化する。
「それがどうしたの? ルミが生きられるなら、誰が死んでもかまわないの」
ルミセンは取り出したナイフを、ポーラの胸へと突き立てた。
ナイフによりポーラの身体は開かれ、その中が丸見えになる。その姿は、とても見ていられるものではない。しかし、目を逸らそうとしたその時、ポーラの身体に変化があった。
切られた身体が、まるで泡のように蠢き、元の姿へと修復していく。
「あぁ、すばらしいの。これが、不死の力なの……」
うっとりとするルミセンに、ポーラは閉じていた目を開いた。
目を開けても修復が止まらないということは、能力ではなく、名器の作用により修復されているということである。
「これは、すばらしくない。生に限界のある者は不死を望み、不死は生の限界を求める。不死になったらなったで、きっといずれ死にたくなる」
ポーラの言葉が気に障ったのか、ルミセンは再びナイフを突き立てた。何度も、休むことなく、ポーラの身体を切っていく。しかしポーラの身体は自然と修復され、お目当ての名器がどこにあるのかすらわからない有り様だ。
「死にたいんでしょ!? だったら、名器を出すの!!」
「ルミ姉さん! なぜ名器に頼るんだ! 名器に頼らなくても、俺が……タイシがいれば、きっと今日を乗り越えられる!!」
「イパンスール君、違うの。ルミの能力が、この年で止まるのは、きっとこの年で不老になるからなの。そしてその名器が、ここにある。きっとこれは、運命なの」
ルミセンは、ポーラの身体へと腕を差し込み、中をかき混ぜるように探る。
するとポーラが声にならない悲鳴をあげるが、いくら叫んだところで、ポーラが死ぬことはない。死ねないポーラは、その苦痛にただ耐えることしかできない。
「……こんな時、タイシなら……」
考えても、その答えが出ることはない。
答えが出なかったけれど、走るしかなかった。ルミセンへと飛び掛かり、ポーラから引き離す。
暴れるルミセンを押さえると、ポーラの身体は修復していった。
「なにをするのッ!!」
ルミセンはイパンスールを突き飛ばし、再びポーラへと襲い掛かる。
逃げることのできないポーラは、その痛みを感じることしかできない。
「うっ……ポーちゃんの名器に触れたら、大変」
ポーラがそう言った時だった。
「あったの!」
ルミセンは、ポーラの身体から腕を引き抜く。その手には、青く輝く結晶が握られていた。ポーラの身体から出てきたのだから、それが名器であることは確実である。
そして、ポーラはぐったりと身体から力が抜けた。名器を失って、命が尽きたのだろう。
「ちょ、ちょっと!」
それなのに、名器から出た黒い影が、名器をポーラの身体に戻そうと動くのだ。
その力に耐えられず、ルミセンが名器を手放すと、名器はポーラの身体へと戻る。そしてポーラの身体を、黒い影が包んだ。
再び顔をあげたポーラは、ポーラではなくなっている。目は黒く、口から漏れる吐息も黒い。
「眠りを妨げる者は、誰だ……」