3-18 『先の見えない夜』
「ふざけたことを言うな。貴様に何がわかる!」
イパンスールは息を荒げ、大志を殴りつける。
大志は受け身も取れず、地面に倒れた。しかし理恩にレーメル、ポーラとルミセンが大志に寄り添う。
「何だってわかる。お前のことなら、何だってな」
「そうだよ、イパンスール君。タイシ様の能力は、触れただけで何でもわかるの!」
「る、ルミ姉さん……っ! な、何なんだ、その男は!!」
イパンスールは奇怪なまなざしで、ルミセンを見た。
接点のない相手が、自分のことをよく知っているというのだ。混乱して当然である。
「た、タイシ様は、ルミの……」
そこでルミセンは頬を染めて、恥ずかしそうに大志へと目を向けた。
するとイパンスールは表情を崩し、大志を睨む。そして胸ぐらを掴んで無理やり立ち上がらせ、もう一度殴るのだ。
立たされてすぐにまた倒され、忙しい限りである。
「片腕相手に何度も暴力とは、さすが緊縛は常人とやることが違うな」
「なぜ、貴様がっ! こんな貧弱な貴様がァッ!!」
再び殴ろうとするイパンスールを、ルミセンが身を挺して止める。
行き場のなくなった拳は、アルインセストを殴った。
「アルインセストは関係ないだろ!」
「うるさい! こいつは家畜だ。どう扱おうと、俺の自由だ!」
アルインセストは文句ひとつ言わず、ただ目を閉じている。
拾われてから、グルーパ家に生かされてきたアルインセストは、イパンスールからの仕打ちもひどいものだった。それはレーメルよりもひどいものだったが、アルインセストはイズリの目の届かない場所で働かされていた。だからイズリは、レーメルだけしか助けられなかった。
「そんなわけないだろ! アルインセストだって人だ。殴るなら、俺を殴れ」
ルミセンの前へと出て、イパンスールと額を合わせる。
「そんなことをしたら、ルミ姉さんが悲しむ」
「なら、アルインセストを殴っても、ルミセンが悲しまないと思ってるのか?」
大志はイパンスールの腹を殴り、ルミセンへと踵を返した。
ルミセンは確かにわがままだったり、レーメルを軽視したりしたが、それでもルミセンの心が優しいと、大志は信じている。誰だって過ちを犯し、そのたびに自分と向き合う。今イパンスールに必要なのは、それだ。
「ルミセンからも何か言ってくれよ。そのほうが、イパンスールも聞くだろ」
するとルミセンは血相を変えて、大志の横を通り過ぎる。
振り返った時には、すでにそれは起こっていた。
大志を背後から襲おうとしたイパンスールの拳を、盾となったルミセンが受け、そのまま地面へと倒れたのである。
「っはぁ……はぁ……る、ルミ、姉さん……」
殴った本人ですら驚いている始末だ。
イパンスールの全力を受けたルミセンだが、意識はある。
「自分すら制御できなくなったのか、イパンスール!」
「ちっ、違う。俺はルミ姉さんを殴ろうとしたんじゃない……」
「それでもお前がルミセンを殴ったんだよ! 故意じゃなかったとしても、自分のしたことを認めろ。そうじゃないと、お前は苦しむだけだ」
大志はルミセンの隣に腰を下ろし、イパンスールを見上げた。
イパンスールから戦意は失われている。ルミセンを傷つけたことで、罪悪感に蝕まれているのだ。
「お前が能力の制御を失ったのは、そのせいだ。親を殺したことを理解していても、それを認めようとしない。そのせいで能力は不安定になって、お前は制御できないんだ」
「なぜ、それがわかるんだ!」
「言っただろ。お前のことなら何でもわかる。自らを偽って、自分を捨てて生きてきたお前を、お前よりももっとずっと知ってる。本当のお前を知っている。すべてを守ろうとする優しい心があることを知ってる。だから誰も傷つけないように、人と距離をとったことも知っている。……苦しかったんだろ、辛かったんだろ。なら助けを求めろ。一人じゃどうにもできないことだって、あるんだ」
イパンスールは大志の言葉をかき消すように首を振り、ルミセンの上を通り過ぎる。
アルインセストは目を閉じたまま、イパンスールの背に心配した表情を向けた。あんなひどいことを言われても、アルインセストはイパンスールを心配している。その姿を見て、大志は少し安堵した。
「待て、イパンスール!」
振り返ると、イパンスールは立ち止まっていた。
イパンスールの前に立ちはだかったレーメルが、イズリを守るように両手を広げている。それが気に食わなかったのか、イパンスールはただただレーメルに殺気を向けていた。
「邪魔だ、レーメル」
「これ以上は進ませないみゃん。イズリを、自由にしてほしいみゃん!」
しかしレーメルの反抗が、さらにイパンスールの感情を逆撫でする。
無言のイパンスールの拳が、レーメルの顔面を殴った。
それなのにレーメルの身体はピクリとも動かず、いまだにイパンスールの前に悠然と立ちはだかっている。その姿に、イパンスールは眉間にしわを寄せた。
「こんなの、痛くないみゃん。イズリと一緒にいられなくなることに比べたら、痛くもかゆくもないみゃん!」
レーメルはイパンスールの腕を掴み、イパンスールの足を地面から離す。そしてイパンスールの身体が、ちょうどレーメルの真上に来たところで、今度は地面へと叩きつけた。
地面はへこみひび割れ、イパンスールの口からは血が吐き出される。
「イパンスール様は、緊縛になるべき器じゃなかったみゃん。今まで生かしてくれたことには感謝してるみゃん。……でも、もうイパンスール様には従えないみゃん」
「……ごほっ、な、なぜだ。恩を忘れたというのか」
両手をついて立ち上がろうとするイパンスールは、血反吐を吐いて、レーメルを睨んだ。
そんなイパンスールの前で、レーメルは両ひざをついて座る。
「恩は忘れてないみゃん。恩を感じているからこそ、従えないみゃん。イパンスール様は変化を恐れているみゃん。それではいつまでたっても、イズリも、イパンスール様も笑えないみゃん」
「わっ、がァッ、ゴホッ……笑う、か……」
立ち上がれそうにないイパンスールに、アルインセストが歩み寄り、その身を支えた。
ルミセンも倒れたまま、イパンスールへと目を向ける。
「俺、は……間違って、いた、のか……?」
苦しそうに問いかけるイパンスールに、アルインセストは静かに頷いた。
「そう思ったのなら、きっと間違っていたのですよ」
イパンスールの治療をしている間に、大志と理恩の能力でイズリを鉄の柱の牢獄から出した。
するとイズリは何よりも先に、イパンスールのもとへと走った。いくら恐怖の相手だからといっても、イズリにとって唯一の肉親である。そんなイパンスールが怪我を負っているのに、心配しない妹はいない。
「兄さん、大丈夫ですか!?」
心配してくれるイズリに、イパンスールは笑みを浮かべた。
「ごめんな。今まで、俺の好き勝手に……」
「いいんですよ。家族なんですから、少しくらいわがままでも」
イパンスールは反省をしている。それをわかっているからこそ、イズリはイパンスールに優しく言葉を返した。
イズリにアルインセスト、それにルミセンも、イパンスールを心配している。イパンスールが手を伸ばせば、その手を握ってくれる人は、すぐに近くにいたのだ。けれどイパンスールは自分一人で問題を抱え、そして他人に恐怖を振りまいたのである。
「イズリは俺が責任をもって守る。だから、イズリを自由にしてくれ」
大志は横たわるイパンスールに、頭を下げた。
イズリを傷つけ、それに気づけなかったのは大志の失態である。けれどイズリは仲間で、それはこれからも変わらない。
「……ふっ、イズリはもう自由だ。これからイズリは、自ら選んだ道を歩いていく。誰も守ってくれない道を進む。……そこに貴様がいれば少しは安心だが、それを決めるのはイズリだ」
アルインセストの治療が終わり、イパンスールは上体を起こした。
すると、自然と全員の視線がイズリへと集中する。大志に背を向けていたイズリは一度深呼吸をし、大志へと身体を向けた。
「よろしければですけど、これからも大志さんのうしろをついて行ってもいいですか……?」
「何言ってんだ。うしろと言わず、隣を一緒に歩いてくれよ」
大志の差し出した手に、イズリは手を重ねる。
「……そんなことを言って、いいんですか?」
目の前で微笑む少女は、本当の自由を求めて、逃げて、逃げて、その末に自由を掴んだ。
その境遇はきっと、あの島で出会った人々と同じである。そしてこれは、大志に与えられた試練だ。今度こそ、救ってみせろという。ラエフはこのために、異世界転移をさせた……なんてのは考えすぎかもしれないが、たとえどんな理由であっても、大志がイズリを守ることに違いはない。
「いいんだ。だからこれからはイズリも、本音で俺と向き合ってくれ」
「樽はどこかに処分しろよ。絶対にそこらの水路に流したりするなよ」
大志はイパンスールに釘を刺すように、何度もそれを伝える。それほどまでに樽の中身は危険なのだ。樽の中身が致死飲料であることは、間違いない。それを水路に流せば、被害は広まってしまう。
イパンスールは樽と、イズリのためにつくられた鉄柱の牢獄を見て、息を漏らした。
「ここは埋める。城ごと壊して、過去を断ち切る」
「そんなことしていいのか? これからどこに住むんだ?」
「……やり直す。俺を今まで支えてきてくれたアルインセストと共に、幸せな日々というものを築いてみたいんだ。この城も、緊縛としての地位も、もう必要ない」
イパンスールはアルインセストの手を握り、大志たちに背を向ける。
緊縛をやめることはできるが、そうなれば代わりの緊縛に必要になるはずだ。まさかイズリを緊縛にする気もないだろうに、イパンスールの考えがわからない。
「なら、誰が緊縛になるんだよ!」
「ボールスワッピングは、カマラへの合併を申し入れる。民の意見を聞いてからだから、もう少し時間がかかるかもしれない」
アルインセストの手を引いて進むイパンスールの姿が暗闇へと消えていく。イパンスールたちは地下を脱出する気なのだ。大志は見失わないように、イズリの手を引いてその背を追う。
理恩が拗ねていることに気づいたのは、地上へ出てからだ。
「カマラの緊縛として、合併を申し込むのなら快く受け入れる。だが、くれぐれも恐怖で従わせたりしないようにな」
「そんなのは、当たり前だ」
差し出してきたイパンスールの手を握り、大志たちは別れの挨拶をする。
たとえ合併することにならなかったとしても、これからのボールスワッピングは今よりもきっと、より良い町へとなるはずだ。
「もう自分のしたことから、逃げない。親を殺したのは、俺だ。どれほどの時間がかかるかわからないが、それでも俺は向き合わなければならない。そうだろ、タイシ……」
「つらいだろうけど、もう一人で抱え込むなよ」
するとイパンスールは、隣に並ぶアルインセストに目を向ける。
アルインセストも気づいたのか、目を閉じたままイパンスールに顔を向けた。
「もう俺は一人じゃない。ずっと、俺は一人じゃなかった。これからも俺は、アルインセストと二人で生きていく。……今まで、ルミ姉さんを好きだと思っていた。だが、ルミ姉さんに抱いていたのは好意ではなく、依存。今ならそれがわかる」
イパンスールは、今まで恐怖の中でも真摯に一緒にいてくれたアルインセストに、抱いた感情。それが本当の好意であることに気づいたのである。
ルミセンは自分の名前が出てきて驚いているが、これでイパンスールも、その周りの環境も変わるはずだ。
「お幸せにな。明日の朝まではギルド館にいると思うから、何か用があったら、そこまで来てくれ」
すでに空は黒くなっており、夜になっている。
急ぎでもないので、明るくなってから出発するのだ。大志が最初に起きた部屋で寝るという手もあるが、またあんなことがあったら大変なので、ギルド館を使わせてもらう。
「一夜の間に、いったい何があるというんだ」
イパンスールはそう笑って、アルインセストと城の中へと入っていった。
「それじゃあ、俺たちもギルド館へと戻るか」
レーメルの顔は殴られたというのに、傷一つ見当たらない。
不思議そうに見ていると、大志とレーメルの間にイズリが割り込んできた。
「いくら大志さんでも、レーメルに欲情したら怒りますよ?」
「ただ心配してただけだ。殴られていたが、傷はないな」
するとレーメルは鼻の周りを触り、その手を見る。
怪我がないのはいいことだが、殴っても無傷となると、すごいを通り越して怖い。
「傷はすぐに治るみゃん。ペドの回復力をもらったみゃん」
不良にはそれぞれ、人とかけ離れた性能を持っている。レーメルは戦闘能力で、ペドは回復力だ。しかし、もらったというところが引っかかる。能力とは違うけれど、不良も能力と同じで固有のものであるはずだ。
「もらったってどういうことだ? 俺ももらえたりするのか?」
「前にも言ったけど、不良はいきすぎた不完全みゃん。ただの人が不良の力を取り入れたら、身体がもたないみゃん」
レーメルは人差し指を立てて、偉そうに説明する。
説明を聞くに、不良にのみ付与が許されているということだろうか。
「どうやったんだ? 念じたらもらえる、とかでもないだろ?」
「難しい話になるけど、精の因子を身体に取り入れたみゃん」
ギルド館に向かいながら詳しい話を聞くと、どうやら精は複数の因子の集合で、できているらしいのだ。記憶や経験、能力や筋力、そのすべてそれぞれが因子で、それをまとめて精と呼んでいる。
人が持てる因子には個数制限があり、不良は普通の人よりも一つ多く因子が持てるのだ。その因子に、不良が不良である特徴である、いきすぎた不完全がある。
「つまりペドの因子を受け取ったから、回復力が身についたのか。でも、レーメルは戦闘能力を失ったわけじゃないだろ? 溢れてるじゃないか」
「溢れたら生きてられないみゃん。因子を得る分、因子を出せばいいだけみゃん。ペドに何を渡したかわからないけど、きっと大したものじゃないみゃん」
大事なことなのに、平気な顔をして笑った。
それは過去の置き換えではなく、もっと根本的な部分を置き換えている。聞いているだけの大志でも、怖いと感じてしまうほどだ。
「なら普通の人も、何かしらの因子と交換すればいいんじゃないのか?」
「交換はできるけど、身体がもたないって言ってるみゃん。負荷に耐えられないみゃんよ」
つまり人と不良は、つくりからして別の生物なのだろうか。
わからないことが多いのと眠さが相まって、言葉が出てこない。
「って、こいつらは……」
ギルド館の4階に戻ると、そこには海太たちがいる。しかし全員、身体を横にして目を閉じていた。さすがに時間も遅く、眠っていたことを咎めるつもりはない。ポーラも眠ってしまって、理恩に背負われている。
「なんだか……眠くなってきたみゃん」
レーメルはそう言うと、その場にばたりと倒れた。
イズリと理恩も続くように倒れるので、不審に思って見まわそうとするが、身体が動かない。気がついた時には大志の身体も倒れており、まぶたが重い。
そして閉じていくまぶたの間から、タキシードを着た赤髪の男が見えた。
その男を大志は知っている。バルアニ・リングス。その能力は、他人の意識を眠らせて操るというものだ。