2-19 『休暇の前日』
「先っぽだけお願いだってん! この通りだってん!」
海太は、桃華の前で額を床にこすりつけていた。
「ゆーちゃんの前で、何を言ってるのよ! ゆーちゃんだけのものなの!」
海太は桃華の足蹴にされ、それでも笑顔は崩していなかった。
桃幸はそんな桃華の足を触り、海太を蹴るのをやめさせる。
「先っぽだけなら、いい……」
桃華は、咄嗟に桃幸の口を塞ぎ、自分の後ろに隠した。
「ダメよ。先っぽだけなんて、信じられない」
「本当に先っぽだけでいいってん。先っぽだけで満足するってん!」
この一連の出来事は、大志の部屋で行われている。
これでは話がつきそうにないので、大志が仲裁に入ろうとするが、桃華に止められた。
「この前だって、そう言って最後まで……」
そこで桃華は、床にこすりつける海太の頭を踏みつける。
「こっちは痛かったのよッ!」
「そ、それは謝るってんよ。でも、今度こそ先っぽだけだから、お願いだってん!」
海太は、頭を踏む足を掴んだ。
そして顔をあげ、そのまっすぐな目で桃華を見る。
「な、何よ……」
「足を舐めれば、信じてくれるってんか?」
すると、海太の顔は蹴りあげられた。
「気持ち悪いことを言わないで! 何を言われても、あげないんだから!」
「さすがにそれはやりすぎだろ。桃華も、そこまで否定することないんじゃないか?」
大志がそう言うと、海太を睨んでいた目が大志へと向く。
そして再び海太を蹴りあげた。
「ゆーちゃんならともかく、なんでこんな男にあげなくちゃなのよ! そんな安くはないのよ!」
「安くないって……値段をつけるようなものじゃないだろ」
大志は羽毛の山の隣で、息を吐く。
桃幸も、声を出さずに頷いていた。しかし桃華はそれに気づいていない。
「求められてるってことは、価値があるのよ!」
「そうやって怒声を出すと、桃幸のストレスになるぞ」
桃幸は俯いていた。その姿は、とても辛そうにも見える。
それを見た桃華は慌てて、桃幸を覗きこんだ。
「ど、どうしたの? おねーちゃんが何かした?」
「う、海太さんが、先っぽだけって言ってるのに……おねーちゃんが……」
すると桃華は顔の前で、否定するように手を振る。
「ち、違うの。この男の言うことは信じられないってだけよ。この前みたいに、ゆーちゃんの前であんなことになれば、ゆーちゃんも悲しいでしょ?」
「いい。僕は、大丈夫」
「そこはダメって言ってよ。絶対に、先っぽだけで満足なんてしないんだから」
桃幸を撫で、桃華が再び海太を見ると、海太はすでに座って待っていた。
その姿はまるで、犬である。
「何でもするから、先っぽだけお願いだってん!」
「……なら、そのズボンに隠してる粗末でちっちゃーいのを握って、上下に振るのよ」
「わ、わかったってん」
海太はズボンから取り出し、それを握った手を上下に振った。
「そんなゆっくりで、振ったなんて言うの?」
「い、言わないってん!」
桃華に急かされ、海太の手は速度を速める。
そんな海太の姿を、桃華は気持ち悪いものを見るよな目で見続けた。
「ほら、もう我慢できないんじゃないの? でも、別に我慢しなくてもいいのよ。そうしたら、今回は諦めてもらうだけだから」
「そっ、そん、な……うっ、うぐぅっ……まっ、まだっ、あッ、うっ!」
「がんばれー、がんばれー。我慢しなくていいんだよー」
桃華に煽られ、海太の興奮は高まる。
そして自然と手の速度も上がった。
「ほぉら、その中、熟成されていくねー。音も聞こえてきたねー」
「んぐっ、ま、まだっ……んんぅっ、ふぅんっ」
海太は口を閉じ、鼻で大きく呼吸をする。その目は、握ったものをじっと見つめていた。
もう限界なのだろうか。我慢のできない男である。
「ぐちゅっ、ぐちゅっ、って音が聞こえるよ。我慢しなくてもいいんだよ。ね、ほら、ほらっ!」
桃華は追い討ちをかけるように、海太の耳元で手を叩いた。
そして、海太の我慢はそこで終わる。
「こうなるのよ」
桃華は冷蔵庫から、ビニールに包装された円柱状のゼリーを出す。片手では握りきれないほどの太さがあり、長さは三十センチほどだ。
ビニールを剥がし、それを桃幸の口に入れる。しかし、そのまま口に差し込むのは、さすがに苦しそうだ。桃幸がストレスを感じなければいいのだが。
「うぅ、さ、先っぽだけ……」
「うるさい。手に持ってるのを飲めばいいでしょ」
海太の手には、ゼリーの入った缶が握られている。
海太はそれの魅力に耐えられず、ふたを開けてしまったのだ。
ふたを開けずに我慢できれば、ゼリーの先っぽだけ食べられるはずだったのである。
しかし開けてしまったから、今日はお預けだ。
「それにしても、桃華の部屋の道具がゼリーだったなんてな」
桃華の部屋には、一日に二本、このゼリーが運ばれてくるのだという。
天井に排出口があり、そこから出されるのだ。
「ずるいってんよ。紐を貸してあげたってんよ」
そして海太の部屋の道具は、紐だ。桃華が桃幸を縛っていた紐は、海太の部屋の紐を使ったようである。
だから、その恩もあって、少し前に先っぽだけという条件で食べさせたら、全て食べてしまったのだ。そのせいで、桃幸が自傷行為をし、それを止めるために桃華が傷を負ったのである。
「その恩は、十分なほどあげたでしょ!」
「まあ、そういうことだ。その飲み物だって、ゼリーが入ってるんだろ?」
「こんな食堂でもらえるものじゃなくて、二条さんのゼリーってのが重要だってん」
海太は桃華に聞こえないように、ぼそっと呟いて、缶に口をつけた。
あれから海太は、桃華に近づいている。少しずつであるが、良い方向へと進んでいる、と思いたい。
「それ、桃幸に全てを食べさせるわけじゃないんだろ? というか、桃幸はそんなに食べられないよな」
桃幸がゼリーを口から離すと、ゼリーと口を白い糸が張った。しかしそれはすぐに消え、なくなってしまう。
「そうです。残りは、おねーちゃんです」
「そうよ。だから、これで完食するのよ」
桃華は、桃幸の食べ残したゼリーを口に含んだ。しかし、やはり口が苦しそうである。少しずつ食べればいいのに、せっかちだ。
海太はそんな桃華の姿に、喉を鳴らす。やはりゼリーが食べたかったのだ。
ゼリーのためにも、海太の信用を回復させないとである。
「残念だが、そう落ち込むなよ」
「いや……これはこれで、いいかもしれないってん」
海太の喉が、また鳴った。
「はーい、ついに明日から休暇期間よー!」
小路は妙なテンションだ。
服にも乱れがあり、いつもような礼儀正しさがない。
「それが、どうかしたのか?」
「何言ってんのよー。休みなんだから、もっと喜びなさいよー」
その手には、ビンが持たれており、その中のものを時折口に含んでいる。
どうやら、ビンの中のものに原因はありそうだ。けれど、小路がどうだろうと、どうでもいい。
「休みになると、何があるんだ?」
「何もないのよー。あっ、ただ、ご飯は各自でつくってねー」
「各自でって、どうやって作るんだ?」
調理場など、見たことがない。ボタンを押せば、勝手に料理が運ばれてきていたからだ。
それに、作った覚えもない。理恩に頼ることもできないのである。
「厨房を解放するよー。あと、材料もあるものなら、好きに使っていいからねー」
そこまで言うと、小路は倒れて眠ってしまった。
睡眠不足だったのだろうか。それなら、起こすの気が引ける。
「今日の授業はどうするんだろうねー」
「困ったでござるな。起きるのを待つでござるか?」
しかしそれは、時間の無駄だ。
大志は腕を組んで、考える。小路がいなくても、できること。
理恩に目を向けると、控えめに笑って返してくれた。
「そうだ。あれをしよう」
空は快晴。ギラギラと太陽が、肌を焦がす。
砂浜は熱せられており、足の裏が焼けてしまいそうだ。
「いぃぃやっほぉおお!」
水着に着替え、海へと飛び込む。
そして大志に続いて、伊織、剛、桃幸、海太が海へと飛び込んだ。
「ここなら、小路がいなくても身体が鍛えられるな」
「本当にそんな理由だったのぉ?」
「ここなら、遊べるだろ!」
伊織に、水を飛ばす。すると、伊織も水を飛ばしてきた。
教室で待つよりか、ここで待っていたほうが楽しいに決まっている。
「本当に、よかったの?」
遅れてやってきた理恩が、膝を抱えて波打ち際に座った。
「大丈夫だろ。もとはと言えば、寝た小路が悪いんだし」
「……大志がそう言うなら、そうだね。うん、悪いのは小路だね」
桃幸は足の着く場所で肩まで浸かって、すいすいと動く。
海太はその近くで桃幸と会話をしていた。桃華に近づく前段階として、桃幸に近づいているのである。しかし桃幸は人を嫌うような性格ではない。きっと今の関係が最大だろう。
「こぉおおらぁあああッ! ゆーちゃんに何してるのよぉおおッ!」
どこからともなく表れた桃華が、海太を蹴り飛ばしていた。
海太はことごとく残念な男である。
「って、あれ……剛はどこにいったんだ?」
「ふふっ、僕はここだよ」
いつの間にか後ろにいた剛は、その手を大志の鍛えた身体に這わせた。
声が出るのを我慢し、肘打ちを食らわせる。
「うッ……」
「ボディタッチは程々にな」
そしてそこに、愛を連れた湊がやってきた。
あいかわらず、一緒にいるようである。
「女性の水着は、難しいでござる」
「何がだよ」
と言うと、大志の腹に激痛が走った。
「気にするなッ! ブタ!」
「だから、ブタじゃ……。ん、愛ってその手じゃ、水着が着れないよな……」
「うっさい! 変なこと考えるなッ!」
愛が今までにほど顔を赤くする。
湊の反応から察するに、愛の着替えを湊が手伝ったということだろうか。
小路があれでは、他に選択肢がないけれど、まさか湊に頼むとは。
「それにしても、そんな言うほど難しいのか? 紐を結ぶだけじゃないのか?」
「胸を盛るということを、するらしいでござる」
「胸を盛る?」
伊織の胸に目を向ける。水色の生地が、その控えめな胸を包んでいた。
すると伊織は頬を染め、胸を腕で隠す。
「な、なに……盛るほどないって?」
「いや、まあ、そうだ」
「ひどいっ! 私だって! わ、私……わたし、だって……」
自分の胸を触りながら、だんだんと声は小さくなった。
愛の胸を前にしたら、あると大声で言えないのだろう。しかしそんなことは、気にすることではない。
「小さいからって気にするな。伊織の魅力は他にもあるだろ」
「ち、小さいって言わないでよーっ!」
伊織は海に潜り、沖へと泳いでいってしまった。
「なんなんだ……」
「あんたのせいだっつーの!」
「乙女心は複雑でござるよ」
湊は愛を連れて、浜を歩き始めた。
愛の手では泳ぐこともままならない。もしものことを考え、浜で時間を潰そうとしているのだろう。
日陰に行くと、そこにはすでに翔と桑菜が座っていた。
二人を眺めていたら、大志の近くに危険人物が近寄ってきていた。
「こ、ここなら胸をさらしていいって、本当かしら?」
「誰からそんなこと聞いたんだ。というか、脱ぐな」
脱がなくても、詩真の圧倒的な胸は、ほぼ見えているようなものである。
しかし、詩真は胸を覆っていた布をずらし、下の布も少し下ろした。
「んふぅぅっ……見て」
「見えてんだよ! 隠せ!」
理恩がムスッとした顔で見てくる。
このままでは、ダメだ。大志はずらされた水着に手を伸ばす。
「触っていいのよ」
大志は手を掴まれ、胸に触れさせられた。
そして詩真は大志の手に自分の手を重ね、胸を揉む。そのせいで、大志の手が直接揉むことになった。
「や、やわらけぇ……」
「大志……」
理恩の声に、ハッと我に返る。
見れば、理恩がつまらなそうに頬を膨らませていた。
「違うんだ。揉もうとしたわけじゃない。わざとじゃないんだ!」
「……でも、手は離さないんだね」
大志は手を離し、両手を理恩に見せる。
しかし理恩はそっぽを向いてしまった。
「ほ、本当にわざとじゃないんだ。信じてくれ」
「うん。信じるよ。でも、揉んだよね。笑顔で」
自分でも気づかないうちに笑っていたのだろうか。顔ほど怖いものはない。
大志は理恩の隣に座るが、反対を向かれてしまった。
「少し、一人にして」
「はぁ……どうしたらいいんだ」
「どうしたんですか?」
波打ち際で膝を抱えていると、そこに桃幸がやってきた。そして桃幸は隣に腰をおろす。
桃華もその隣に座った。だが、桃華がいると会話に気を使ってしまう。
「桃華は、あいつと遊んでいてくれよ」
一人で悲しそうに浮かんでいる海太を、指差した。
「なんで、あんな男と。絶対に嫌よ」
「おねーちゃん、お願い」
すると、桃華は一瞬嫌な顔をしたが、すぐに笑顔になる。
「ゆーちゃんのお願いなら、仕方ない。今回だけよ」
桃華はため息を吐いて、立ち上がった。
そして重い足を動かして、海太のもとへと進む。
「それで、どうしたんですか?」
「ちょっとな、すごい落ち込んでるんだ。桃幸は、そんな時はどうする?」
「落ち込んだ時……おねーちゃんに抱きつきます」
桃幸は、桃華を見た。
桃華はなにやら海太と話をしている。海太はとても嬉しそうだ。
「桃華にか。桃華か……」
「大志さんには、別の人がいますよね。理恩さんとか」
「あぁ、ちょっと理恩のことで落ち込んでいてな。抱きつけそうもない」
すると桃幸は口をすぼめる。
「そうだったんですか。なら……」
「あー、やっと見つけた。どこに行ったのかと思ったよっ」
そこに、泳ぎ疲れたのか、伊織が戻ってきた。
伊織の髪は身体にはりつき、ついさっきまで水に浸かっていたのだと伺える。
「伊織さんとか」
「伊織か……」
しかし抱きつくといっても、ここでは理恩に見られてしまうかもしれない。詩真とあんなことがあったあとだ。できるだけ、理恩に見られない時間と場所で。
「え、私がどうかしたの?」
「ちょっとお願いがあってな」
「私にお願い? 叶えられるなら、何でも叶えてあげるよっ」
伊織の承諾を得たところで、大志は辺りを見回す。
こんな場所を見られてしまっては、ここでするのとなんら変わりないからだ。
そして理恩が近くにいないことを確認すると、大志は顔をあげる。そこには、期待に満ち溢れる伊織がいた。
「今晩、抱かせてくれ」