2-16 『ゆーちゃん』
自室に戻ってしばらくすると、扉をノックする音が聞こえた。
時計を見ると、すでに自由時間である。大志の部屋にくるといったら、真水しかいないだろう。理恩は大志の部屋の中にいるからだ。
部屋に散乱していた羽毛も綺麗に一か所へまとめられている。大志に覚えがないので、真水がしてくれたのだろう。
「どうしたってんよ?」
しかし扉を開けると、そこにいたのは意外な人物だった。
逆立った髪が特徴的すぎて、そこにしか目がいかない。
「草露か。わざわざどうした?」
「休んだから、調子を見に来ただけってんよ」
どうせだからと、部屋の中へと招き入れる。
草露は部屋の中にいる理恩を見つけると、鼻の下を伸ばした。
「理恩に妙な視線を送ってると、殴るぞ」
「……もう、殴ったあとだってん」
すでに大志の拳が、草露の身体を倒れさせたあとである。
「言う前から向けていたから、仕方ないな」
「言ってくれないと、わからないってんよ」
草露はあまり気にしない様子で立ち上がり、そしてまとめられた羽毛を見た。
そしてぐるりと部屋の中を見渡し、頷く。
「何かあったみたいだってんな」
そんなの、見れば誰でもわかることだ。
妙にじっくりと見ていたので、何か他のことに気づいたのかと思った。
「ちょっと自棄になっていただけだ。体調が悪いとかじゃない」
「それなら、明日からは休まないってんね?」
「ああ、そのつもりだ。どうかしたのか?」
すると草露は息を吐いて、床に座る。
真水や湊なら、来ることを想定していたが、草露は完全に想定外だ。
「今日はみんな、どこか上の空だったってん」
「それは俺たちが休んだからか?」
「わからないってん。だから、事情を知ってるか聞きにきたってん」
「さっき俺たちの調子を見に来たとか言ってたよな」
大志は草露の隣に座り、そして草露に目を向ける。
草露は大志と理恩を交互に見やり、それから口を開いた。
「二条以外は、全員が心配してるようだったってん。そんなに仲がいいってんか?」
「まあ、そこそこだ。草露だって、中田と仲がいいんだろ?」
すると、草露の眉間にしわがよる。
そして腕を組んで、何かを考え始めた。
ただ仲が良いか聞いただけなのに、考えなければわからないとは、頭が残念なようである。
「いや、仲がいいわけじゃないってん。向こうから、積極的に絡んでくるだけだってん」
「それもおかしいよな。中田って異性が苦手なんだろ?」
「そうらしいってんな。でも『目がやらしい』って言われたことがあるってんよ」
この部屋に入れた時に理恩へ向けていた視線を、そのまま中田にも向けたのだろう。
しかし中田はアレだ。そういう視線に興奮してしまうタイプの人間だ。だからだろう。
「なるほどな。正直な性格が、そのまま受け入れられたってことか」
「うっ、うるさいってん! おっぱい揉みたいとか思ってないってんよ!」
「そんなことは言ってない。理恩の前でそういうことを言うな」
理恩に視線を向けると、頬を染めて、自分の胸を揉んでいた。
中田と比べれば圧倒的に劣る大きさだが、それでも気にしているようである。理恩のそういう一面も可愛いが、中田のようになってしまっては困るのは大志だ。
「わかったってん。二人だけの時に言うってんよ」
「俺に言ってどうする。中田に直接言ってやれ。きっと喜ぶぞ」
「ばっ、ばばっ、いっ、言えるわけないってんよ!」
草露はきっと中田がおとなしい良い子だと思っているのだろう。
「なら、他人にも言うなよ。そういうの嫌いな人もいるだろ」
「そ、そうだってん。二条に嫌われたくないってん」
草露の頬が緩む。また、何かを考えているのだ。
それにしても、なぜここで二条の名が出たのか。二条の名は、かすりもしない話題だったはずだ。
「姉のほうか?」
「そうに決まってるってん!」
草露が叫ぶと、扉をノックする音が響く。
今度こそ真水だろうか。大志は扉に駆け寄り、開けた。
「話は聞いた」
そこにいたのは、二条姉だった。
しかし部屋の中の声が外へ漏れることはない。話を聞くなんて、不可能である。
「うえぇぇぇ! 二条さんってんか!?」
さっきまでは呼び捨てだったくせに、本人を前にしたら、さん付けになった。
草露が驚くぐらい、大志も驚いていた。
「ゆーちゃんは一緒じゃないのか?」
「そうよ。だから、急いで」
二条は大志の手を掴んで、引っ張る。しかし、大志もそのまま引っ張られるほど負けていない。
と思っていたのだが、予想に反して二条の力は強い。
「ちょ、そ、草露、理恩と待っていてくれ」
大志は転ばないように、二条についていった。
草露と理恩を二人にするのは不安だが、大志には今の二条を止められない。
「おおがみぃぃいい! ずるいぞおおおぉぉおお!」
草露の叫び声。しかし、代わってくれるのなら、代わってほしいところだ。
いつもゆーちゃんに付きっきりの二条に手を握られるなんて、めったにないだろう。だが、今は理恩と一緒にいたかった。
「お、おい、逃げないから離してくれよ」
「急いでいるの。こうしている間にも、ゆーちゃんは……」
二条はゆーちゃんをほったらかして、大志の部屋まできたということだ。二条にとって、大志はそれほど大事だったのだろうか。
ゆーちゃんは何とかしないととは思っていたが、まさか二条から呼び出されるとは想定外である。
「ゆーちゃんに何かあったのか?」
「そうよ。今のゆーちゃんには……」
そこで二条は悔しそうに下唇をかんだ。
ゆーちゃんに何があったのか。そんなの、聞くよりも確かめたほうが早い。
大志は床を蹴り、二条の前へと出る。そしてゆーちゃんの部屋へと走った。
「ゆーちゃん!」
ゆーちゃんの部屋の扉を叩くが、何も反応がない。
動けないほど衰弱しているのだろうか。それとも、二条にまた何かされたのか。
二条を確認すると、二条は自分の部屋の前で手招きしている。
大志が二条に跳び蹴りをすると、二条はそのまま床を転がった。
「ゆーちゃんが一大事なのに、なんで二条の部屋に行かなくちゃなんだよ!」
「……話も聞かずに蹴るとは、失礼ね。ゆーちゃんは私の部屋にいるの」
二条はのっそりと立ち上がり、ゆらりゆらりと歩いてくる。
そして、その目は据わっていた。
「わ、悪かった。一発だけなら殴っていいから」
そう言うと、二条は握りしめた拳を大志の顎へと上げる。
しかしその拳は、大志にあたることはなかった。直前で寸止めされたのである。
「殴れば、傷つくのは大上だけじゃないの!」
「そこまでやっておいて、よく言えるな」
それに傷つくのは大志だけではないというのが、妙だ。たしかに二条の手も多少は痛くなるかもしれないが、それだけである。
二条はカードキーで解錠し、ドアノブを回した。
「ゆーちゃん、連れてきたよ」
二条に胸倉を掴まれ、そのまま部屋の中に投げ入れられる。
そして二条も部屋へと入り、扉の前に立って大志が出られないようにした。
「いったい、何なんだ……」
立ち上がると、ゆーちゃんの姿が見える。しかし、驚くべきはその格好だ。
パイプ椅子に身体を固定され、手と足は何重にも紐のようなものが巻きついている。
そして下着が目隠しのように被せられていた。
「ゆーちゃんは、どうしてこんなことに?」
「ゆーちゃんのためよ。それより、早く解いてあげて」
言われるまでもない。大志はゆーちゃんを拘束する紐を解く。
固く縛られてはおらず、結び目さえ見つければ、解くのは容易だった。
「すぐに解いてやるからな。そしたら、何があったか話してくれよ」
ゆーちゃんに語り掛けると、ゆーちゃんは返事をせず、ただ頬を緩める。
そんなゆーちゃんを不思議に思いながら、大志は作業を進めた。
そして紐を全て解き、残るは下着だけとなった。
しかし誰のものなのか。見た感じだと女物のように思える。だから、ゆーちゃんのものとは考えられない。
大志は下着をはぎ取り、床へと投げ捨てた。
「大上さん……」
やっと、ゆーちゃんの声が聞けた。
大志は腰を落とし、ゆーちゃんと視線の高さを合わせる。
「何をされたんだ?」
しかしゆーちゃんから返ってくる言葉はなかった。
ゆーちゃんは大志をぼーっと見て、頬を染める。
ゆーちゃんは腕を伸ばし、大志の肩に手を回した。そのまま身体の重心を、大志に預ける。
「んんぅぅうううッ!?」
そして、キスをされた。
足を滑らせてなんかではない。ゆーちゃんは自らの意志で大志の唇に、自分の唇を重ねたのである。
ゆーちゃんは中性的な顔立ちで、女に見えないこともない。だが、男だ。
そんなゆーちゃんがなぜ大志を。考えるよりも早く、大志はゆーちゃんを身体から離していた。
「どうして、キスなんて……」
「だって大上さんは、僕に惚れた……でしょ?」
ゆーちゃんの妖艶な表情に息をのむ。
今までゆーちゃんは、二条に捕らえられどういった人物かがわかりづらかった。
しかし、なんとなくわかったような気がした。
「なんで、そう思ったんだ?」
「えっ……き、嫌い……?」
ゆーちゃんはありえないとでも言いたそうな顔で後退し、パイプ椅子に座る。
「ゆーちゃんを押さえてッ!」
二条の声が大志の耳を貫いた。
その直後、ゆーちゃんは自らの腕をひっかき始める。
何がどうなっているのか、大志には理解できない。けれど、ゆーちゃんに何かがあったのだけは理解できた。ゆーちゃんの腕を掴み、抱きしめる。
「何があったんだ?」
「自傷癖?」
「そうよ。ストレスを感じると、自分を傷つけるの」
ゆーちゃんには自傷癖があり、ストレスを感じると自傷行為に走るようだ。そしてゆーちゃんはストレスを感じやすい性格で、ほんの少しのことでもストレスを感じてしまう。
だから今まで二条はゆーちゃんを守るために、拘束していたようだ。そして全てを代わりにやってきたのである。
ゆーちゃんの傷ついた身体を見て、大人は最初、二条と遊んでいてつけてしまった些細なものだろうと判断した。しかし、ゆーちゃんの傷が増えるにつれ、二条が意図的に傷つけているという考えに変わった。
そしてゆーちゃんと二条は別々の場所で生活することになった。けれど、ゆーちゃんの傷は増えていくばかり。そこで大人はやっと、ゆーちゃんの自傷に気づいた。
「私がゆーちゃんと同じ場所で、暮らすようになった頃には、親はゆーちゃんに憐みの言葉を投げかける敵でしかなかった。親としては自傷をやめてほしかったんだろうけど、その言葉がさらにゆーちゃんにストレスを与えたのよ。それで私は、ゆーちゃんと一緒に親から逃げた。そしてここへと連れてこられたのよ」
「そんなことがあったのか。それで、今までゆーちゃんを守っていたのか」
二条の自分勝手でやっているものだと思っていたが、二条には二条なりの思いがあったのである。
少し、二条を尊敬してしまった。
当のゆーちゃんは、大志の膝の上で笑っている。
「ところで、どうして俺がつれてこられたんだ?」
「神無月から聞いたの。大上がゆーちゃんに惚れたってね。そしたら、ゆーちゃんが今までにないくらい喜んだの。もしかしたら、今のゆーちゃんに必要なのは、私よりも大上なのかもしれない」
そこで、二条はゆーちゃんの頭を撫でた。
しかし大志は混乱してしまう。ゆーちゃんに惚れたなんて、いつ言っただろうか。
「本当にそれは、俺なのか?」
「なに? 嘘だったなんて言わないでよ」
膝の上にいるゆーちゃんは、しょんぼりと肩を落とした。そしてゆっくりと手があがり、ゆーちゃんは自分の腕を掴む。
二条に睨まれるよりも早く、大志はゆーちゃんを抱きしめた。
「じょ、冗談だ。ゆーちゃんに惚れてるのは、本当だ」
「よかった……。僕も大上さんを……」
ゆーちゃんはそこで言葉を止め、大志の腕に触れる。
ゆーちゃんを傷つけでもしたら、二条に何をされるかわかったものではない。大志でも負けてしまうほどの力だ。ここは従うのが吉である。
「ああ、だから少し頑張ってみないか。明日、拘束せずに教室へ行ってみよう」
「ちょっと、大上!」
今にも襲いかかってきそうな二条を、ゆーちゃんは手で止める。
「大上さんは、こんな僕が嫌い?」
「いいや、そんなことない。だが、ゆーちゃんが他の人と笑って喋れるようになったら、もっと惚れる」
大志の言葉に、ゆーちゃんはわかりやすく反応した。
そしてもじもじと足を擦り合わせる。長い髪と相まって、その姿はまるで女だ。
「じゃ、じゃあ、頑張ってみる……」
「そうだ。その調子だ」
ゆーちゃんの髪を撫でる。
相手が理恩なら大志も喜びだが、ゆーちゃんだと何とも言えない気分だ。
「お疲れだね」
自室に戻ると、理恩と草露が待っていた。理恩の様子を見るに、何もされていないようである。
ゆーちゃんには、朝まで自傷を我慢できたらハグをすると言った。ゆーちゃんはやる気に満ち溢れていたので、多少は抑制になるだろう。しかし、絶対にしないという確証はない。その時は二条に頑張ってもらうしかない。
「二条と何をしたってんよ!」
「内緒だ」
「も、もしかして……」
理恩の表情が曇る。
咄嗟に大志は、理恩の隣に滑り込んだ。そして理恩の両肩に手を置く。
「内緒だけど、いやらしいことじゃない。信じてくれ」
「……うん。大志がそう言うなら、信じるよ」
「なら、帰るってんよ」
そう言って、草露が立ち上がった。
「お、もう帰るのか。早いな」
「話したいことは、理恩に話したってん。じゃ、明日はちゃんとこいってんよ」
草露はうしろ手を振って、出ていってしまう。
大志の部屋にきておいて、大志のいない間に用事を済ませるとは。
「海太って名前なのか」
「うん。そう言ってたよ。私と大志の名前も教えちゃったよ」
「それはべつに、教えても怒らないぞ」
理恩の話によると、海太はバカな出来事を起こしすぎて、ここにきたようだ。
やはり頭が悪かったようである。
「あ、俺からも一つ言っておきたいんだが……」
ゆーちゃんとイチャイチャするが、それは演技で、一番は理恩ということだ。
また勘違いされては困ってしまう。いや、困ってしまうなんて話ではない。
「わかった。これも大志のためだよね」
「やはり、こうなったか。二条が壁となってくれると思っていたが、どうやら薄い壁だったようだ」
大志の動向を監視していたものが一人。
部屋の中に散乱した紙から一枚を拾い、握り潰した。
「もう、誰にも止めることはできない。……『大上大志プロジェクト』が、動き出す」