2-15 『理恩と小金沢』
理恩の部屋の前で一夜を明かし、朝になった。
そして待っていると、大志の前で鎮座していた扉が動く。中から出てきたのは、待ち望んだ人だった。
「理恩ッ!」
「たっ、大志!?」
大志は感情が高ぶり、理恩を抱きしめる。
戸惑う理恩など気にもせず、ただ、その幸せを噛みしめた。
「こ、困るよ……こんなの……」
「あぁ、俺も困る。困るよ。涙が、出てきた」
大志の頬には涙が伝う。
しかしそんなの気にはしない。今は、理恩のことだけを感じていたかった。
「大志には、真水と中田が……」
「あんな二人、どうでもいい。俺には、理恩が必要なんだ。理恩が隣にいてくれないと、不安なんだ」
苦しかった胸は、幸せで満たされる。
しかし、それだけではダメだ。
「そんな、ズルいよ……」
「どう思われてもいい。だが、聞いてくれ。俺は今まで理恩と共に生きてきた。理恩と離れて胸が苦しくなったのは、そのせいだと思っていた。でも、違う。……まだこの気持ちはわからない。けど、理恩と一緒にいたいというのはわかる。だから、俺の隣で、俺と一緒に生きてくれッ!」
すると、大志の背を手が伝う。そして、その手は大志の背をしっかりと抱いた。
大志は安堵する。それとほぼ同時に、わずかに涙を流す声が聞こえてきた。
「悔しい……」
理恩の声である。
「苦しい……切ない……でも、嬉しい……」
大志は理恩の頭を撫でる。
この喜びにずっと浸っていたかった。しかし、もう朝である。あと数時間で、教室に行かなければならない。
そう思っていると、理恩の手が背をさすった。
そして、部屋の中へ引かれる。大志も抗うことなく、部屋の中へと入った。
「俺を、許してくれるのか」
「許すも何も……最初から怒ってないよ」
理恩を抱きしめたまま、会話をする。
こうすれば、理恩を一番近くで感じていられるからだ。
「でも、俺を避けていただろ?」
「それは……大志のために、離れようと思って。私が付きまとわなければ、大志は真水とも中田とも、もっと仲良くなれる」
「そうだったのか。……それも仕方ないか。だが、もう心配ないな」
大志は理恩を身体から離し、ベッドに座る。そして、その隣に理恩を座らせた。
「これから、一緒に寝てくれないか?」
「もう、朝だよ……」
「昨夜はあまり眠れなかったんだ。……だから、いいだろ?」
すると理恩は少し驚く。しかしそれも、ほんの少しの間だけ。頬を染め、小さく頷く。
そして承諾を得た大志は、理恩を抱いてベッドに横になった。
長い髪、小さな肩、くびれ、尻。理恩の女を、その時に改めて確認する。
今までそこまで気にならなかった。けれど、今はそれがとても艶めかしく感じられる。
「ねえ、一つ……聞いてもいい?」
顔を赤らめた理恩が遠慮がちに、大志の顔を覗きこんだ。
「答えられることなら、何でも答えるぞ」
「……あの時、中田と何してたの?」
理恩の目には、不安の色が見える。
正直に話そうとしても、言葉がなかなか思いつかない。あれは何をしていたのか。それは、中田のみ知ることだろう。
「中田に襲われた、というのが正しいな」
「お、襲われた……?」
「中田が本当は変態で、その標的にされたってわけだ」
しかし理恩の眉はハの字になった。
信じられない。それも仕方のないことだろう。大志だって、あれが嘘であったと思いたい。
「ほ、本当に……嘘じゃない……?」
「俺が今まで、理恩に嘘をついたことがあったか?」
大志は理恩に微笑んだ。しかし、理恩の眉に変化はない。ハの字のままである。
「あったよ、たくさん……」
「うっ、そこは『ない』って言うとこだろ」
「じゃあ、ない。大志が言うなら、それが正解だね」
理恩の笑顔に、思わず声が漏れそうになった。
なんとかそれを堪えると、次は理恩の手が大志の胸に触れる。
「こんな近くに大志がいる。もう、我慢しなくていい……」
「我慢って、何をだよ」
そう聞くと、理恩は目を閉じて息を吐いた。そして何かを決めたように目を開くと、顔を近づけてくる。
そのまま理恩を見つめていると、理恩の唇が大志の頬に触れた。
「うぅぅ……」
「自分でやっておいて、弱々しい声を出すなよ」
「だ、だってぇ……は、恥ずかしい」
しかし、そんな理恩も可愛い。もう離れるなんて、考えられない。
理恩がキスした頬とは反対の頬を、理恩の頬にこすりつける。
「そんなところも、可愛いよ」
「ひゃああぁぁぁ……」
なんとも情けない声を出す。
大志は頬を離し、理恩の頬を撫でた。
「さあ、寝よう。眠くて、もうダメだ」
「うん。寝ていいよ」
理恩に頭を撫でられる。
「ああ、幸せだ……」
「……おはよ」
理恩がいた。笑顔の理恩が、まだそこにいてくれた。
あれは夢なんかじゃない。
「り、理恩……」
「な、なんで泣くの!?」
泣いてしまったようである。
理恩は大志の涙を手で拭って、また笑顔を見せた。
「私はどこにもいかないよ」
「理恩はここにいてくれる。……わかっていても、不安なんだ。もしかしたら、夢だったんじゃないかって、不安で、怖くて、今だって目を開けるのが嫌で」
「そう……だったんだ。でも、そんな心配しなくても大丈夫だよ。たとえ近くにいなくても、私の心は大志と一緒にあるから」
ㅤ温かい。理恩と一緒にいると、心が温かくなる。
「これからは、ずっと一緒だ。ずっと、ずっと……」
「うん。じゃあ、そろそろご飯食べよ。お腹空いちゃったよ」
もう時計は十二時をすぎていた。
朝ごはんもまだ食べていない。空腹になるのは仕方ないだろう。
「大志は何を食べるの?」
「ソバかな。二条に勧められて、好きになったんだよな」
ソバのボタンを押すと、その手を理恩が掴む。
そして見開いた目が、大志を覗いた。
「二条……好き……」
「ああ、ソバが好きになったんだ。美味いぞ」
「ソバ……じゃあ、私もソバにするね」
理恩もソバのボタンを押す。
「あら、奇遇ね」
そこに、小金沢が姿を現した。
しかしすでに昼の休憩は終わっている。今頃、教室で授業を受けているはずだ。
「どうしてここにいるんだ?」
「休むように言われたわ。だから、こうやって昼食を食べに来ているの。そっちも同じ理由ね」
大志と理恩がソバの出来上がりを待っていると、ソバが三人分出てきた。
どうやら、小金沢も食べるようである。
「俺と理恩は、特に理由もなく休んだんだけどな。それにしても、ソバ好きなのか?」
「好きではないわ。悩む時間が無駄だから、同じものを選んだだけ」
大志が椅子に座ると、その隣に理恩、そのまた隣に小金沢が座った。
「そういえば、小金沢は殺人をして、ここにきたって言ってたよな?」
「そうね。今となっては、どうしてあんなことをしたんだか、不思議で仕方ないわ」
小金沢はソバをすする。
今の小金沢は、あの時のような殺気を帯びていない。
小金沢に目を向けると、その間にいる理恩が微笑みを見せた。つい、大志の頬も緩んでしまう。
「小金沢は、怒りやすいとかなのか?」
「どうかしらね。沸点が低いと言われたことはあるわ」
「それを怒りやすいって言うんだろ」
しかし、小金沢はかつてのことを後悔している。
怒っただけで、人殺しなんてことをやれるのだろうか。自制心もなくなるほどの怒りとは、余程のものである。それほどまでに、時間を無駄にしたくないという思いが強いのだろうか。
「それと、あの時持ってたナイフって、どこにあったんだ?」
「部屋に置いてあったわ。自分のした過ちを忘れないための戒めとして、常時持ち歩いていたのよ」
ということは、やはりあのナイフは小金沢の部屋の道具だ。
それに何の意味があるのかはわからないが、把握しておいて損はないだろう。
「なるほど。それにしても、いったい何があったら人を殺そうなんて気になるんだ……」
「説明する時間が無駄だわ」
小金沢は手を合わせる。その時にはソバの器は空になっていた。
そして器を片づけると、そのまま階段を上って行ってしまう。
「……どうすれば、心を開いてくれるのか……」
「大志は好かれたいの?」
理恩が眉をハの字にして、訊ねてきた。
大志はそんな理恩の肩を抱き、身体を寄せる。
「そんなんじゃない。ただ、笑いたいだけだ。せっかく一緒にいるのに、笑いあえないなんて悲しいだろ」
「なら、私とも笑いあいたい?」
「ああ、そうだな。理恩は笑っていたほうが可愛いからな」
そして昼食を食べ終わり、教室へと向かおうとする理恩を引き止めた。
ここで行っても、怒られるだろう。それに教えられることも、ギルチとの勉強でやった内容ばかりだ。それなら、今日はこのまま休みを決め込もうという考えである。
そして理恩とともに三階まで駆け上がった。
「な、何するの?」
理恩は少し困ったような顔をする。
ここでは時間を潰すようなものはない。あるとすれば、他人との会話だ。
しかし大志と理恩の間に、これといって話すこともない。
「小金沢のところに行ってみよう。今日は休みらしいし、部屋にいるだろ」
大志は理恩の了解も確認せず、小金沢の部屋まで走る。
小金沢の部屋は、中田と理恩の部屋の間だ。それはすでに確認済みである。
そして扉をノックすると、すぐに小金沢は姿を見せた。
すると小金沢は怪訝な表情で大志を見て、次に理恩、そして大志を見る。
「なに?」
「ちょっと話をしにきたんだ。どうせ部屋にいるだけなら、いいだろ?」
大志が親指を立てると、扉を開けたまま小金沢は奥へと行ってしまった。
大志は理恩と一度目を合わせ、そして扉の奥へと進む。
部屋の中は、大志の部屋と変わらない。どの部屋も、そこは同じようだ。
「私は勉強をしているの。だから、邪魔しないで」
小金沢は、授業で使っている本を広げ、読んでいた。
大志と理恩は机の中に保管している。それに、わざわざ持ち帰っている人も少ないはずだ。
「部屋でも勉強か。少しは頭を休めたらどうだ?」
「そんな時間は無意味だわ。せっかく時間があるのだから、勉強すべきよ」
小金沢は視線を本に向けたまま、返答する。
「あまり勉強ばっかりしてても、逆効果になるかもしれないがな」
大志はあくびをして、小金沢の隣に座った。そして理恩も座る。
ギルチと生活していた時は、昼食のあとに昼寝があった。そのせいか、少し眠いのである。
「勉強は、やればやるほど身につくと父様が言ってたわ」
「……それは、集中できていればの話だろ。集中してなければ、覚えられるものも覚えられないぞ」
そう言うと、小金沢の持っている本が大志の顔に叩きつけられた。
「いってぇ……」
「たっ、大志、大丈夫っ!? な、なんで叩いたの!」
「父様の言ってることが間違いだと言うからよ」
大志は小金沢の腕を掴んで、本を取り上げる。
そして本の中をパラパラと見てみると、重要な部分を強調させるなどの工夫が施されていた。
「間違いとは言ってない。それにしても、こんなに勉強してどうするんだ?」
「父様に言われたから、勉強をするだけ。それ以外に理由はないわ」
小金沢は大志の手から本を奪う。
ここでいくら勉強をしても、元の生活に戻れるとは限らない。
「言われたからするって、それでいいのかよ」
「言われたとおりにすれば、時間の無駄はない。時間を有意義に使うことができるわ」
「必要以上に勉強するのは、有意義でも何でもないだろ。ここでは勉強よりも大事なことがある」
大志が理恩に目を向けると、理恩は微笑んだ。
この学校は、勉強するためのものではない。過去を受け入れ、人間性を取り戻す。そのための場所だと、大志は思っている。
「そんなものはないわ。勉強こそが全てだと、父様が言っていたわ」
「小金沢の父様は、神か仏か? 小金沢も、もう大人になる頃だ。誰かの言いなりになるのは、もうやめたほうがいい」
「そんなの、時間を無駄にするだけだわ」
小金沢は強くは否定せず、ただ息を吐くように呟き、本に視線を落とした。
やはり小金沢には勉強しかないようである。
「無駄かどうかは、やってみてから言えよ。自分で考えて、自分で動く。それが生きるってことだ」
「私は考えて、父様の言いなりになると決めたわ」
「なら、人を殺したのも、父様に言われたのか?」
すると、小金沢の持つ本が曲がった。
「そんなわけないわ。父様は、そんな非人道的なことを言わない。やはり私は言いなりにしてるほうがいいんだわ。そうすれば、あんなことにはならなかった」
時間を無駄にしたくないという思いと、過去の出来事が、さらに小金沢を苦しめている。
大志は頭をかき、天井を見上げた。
「なるほどな。……でも、それも小金沢の意志ではなかったんだろ?」
それはわかっている。突発的な思いだったのだ。
大志もそれを責めるつもりはない。そもそも、悪いのは小金沢ではない。
「怒りは、人を狂わせるわ」
「そうだ。でも、小金沢は悪くない。悪いのは、従わなければいけないという使命感だ。それが心をしめつけている。本当は自由になりたいんだろ。自由になりたいけれど、従わなければいけない。そのせいで、心は荒んだ」
その末が、悲惨な出来事だ。
大志はまっすぐと目を向け、小金沢の手を握る。
「違うわ。私は従っていたい。それが楽なの!」
「甘えるなッ! 生きてれば、楽なことだけじゃないんだよ!」
小金沢を押し倒し、顔の横に手をついた。
「楽なことを望むのはいい。だが、楽なことだけじゃない。現実から目を背けるな」
「楽に生きて何がいけないの!」
「ここにいるのが、その結果だろ。いい加減大人になれよ。俺たちはいつまでも笑っていられる子供じゃないんだ」
大志も、今までギルチとの生活でずっと楽をしていた。だから、小金沢に何かを言えるような立場ではない。しかし、小金沢を放っておくこともできない。
「楽できないなら、大人になんてなりたくない!」
「あぁ、俺だって大人になんてなりたくない。だが、俺たちが大人にならなくちゃ、次の世代が困る。だから、一緒に大人になるんだ」
「い、一緒に……」
小金沢は不機嫌そうな顔をし、大志の腹を殴る。
「いっつぅ……なんだよ。いやらしい意味はないぞ」
「当たり前だわ。もしあったら、もう一発殴ったわよ」
小金沢は大志ごと身体を起こし、そして逆に大志を押し倒す。
隣で見ている理恩はあわあわと手を動かすが、何もできないようだ。
「あなたが私を恐れないのは、何故かしら? 凶器があるのを、忘れているわけじゃないわよね?」
「それだけで恐れるかよ。たしかに小金沢が怒ってしまえば、俺もどうなるかわからない。だが、俺は小金沢を信じている」
「いくら信じたって、結果は変わらないわ。……でも、何かが違う」
すると、再び大志の腹に激痛が走った。
特に理由もないであろう暴力が、大志を襲う。
「時間の無駄だけど、こうやって殴ると気分が晴れるわ」
「それは、無駄って言わないぞ。わかっただろ、無駄かどうかはやってみないと、わからないんだ」
そのあとも、容赦なく暴力が大志を襲った。
理恩が止めようとするけれど、それを大志がとめる。せっかく小金沢が変わろうとしているのだ。それを止めるのは、無粋である。
「はぁ、はぁ……これが、自由ね……」
「そっ、そうだ。だから、自分の生き方を探してみろよ」
大志にはよくわからないが、小金沢の抱えていたものはなくなったようだ。
これで小金沢は言いなりではなく、自分で考えるようになるだろう。しかし、それがわかるのは、もう少し先の話だ。




