2-14 『暗い廊下』
「理恩ッ!」
大志は扉を叩く。それも、扉を壊してしまうそうなほど強くだ。
そこまで強く叩かれては、理恩も無視はできない。ゆっくりと開いた扉の隙間から、理恩が顔を覗かせる。
「もう…寝る時間だよ」
「そんなことより! 理恩に聞いてほしいんだ」
今度は無理やり入ろうとはしない。
理恩が入れてくれるまでは、部屋に入らないと決めていた。
「今日は無理。だから、帰って……」
「俺は何もしてないんだ。理恩が許してくれるなら、何だってするから」
すると理恩は首を横に振る。
そして隙間から腕を伸ばし、大志の頬をつねった。
「笑ってよ。笑ってくれれば、それでいいから」
理恩は頬をつねっていた手を離し、その頬を撫でる。
笑うなんて、できるはずがない。こんな近くにいるのに、大志の手は届かないのだ。
「笑えるかよ。理恩が、もう隣にいてくれないんだぞ!」
「……仕方ないよ。大志には、真水と中田がいるでしょ」
そう言って、扉は閉められた。
しかし大志は諦められない。こんなことでは、明日も今日と変わらない。
大志は、扉を叩く。何度も、何度も。名前だって叫んだ。声が枯れるまで。
けれど扉は開かなかった。胸が苦しい。苦しくて、自室に帰りたくない。この扉の前が、一番理恩の近くにいられる。この場所を離れたくなかった。
そして廊下を闇が包む。
消灯の時間だ。こうなれば、もう部屋には戻れない。けれど、それでいい。理恩のそばにいられれば、それだけでよかった。
「理恩……」
理恩の部屋の扉に背を預け、膝を抱える。
大志は理恩にそばにいてほしい。だが、理恩はどうなのだろうか。理恩にとって、大志は何なのだろうか。中田とのあんな場面を見て、どう思ったのだろうか。
それはわからない。けれど、確かめたくない。確かめるのが、怖い。
「あら、大上君じゃないの」
そこに、ランプを持った小路が通りかかった。
小路は消灯時間になると、見回りをする。そんなことは知っていた。だが、見つかったところで、怒られないだろう。
「でも、ダメよ。消灯後は部屋を出てはいけないの」
小路は三つ編みにした髪を、左肩にかけて前へと垂らしていた。
大人だというのに、身長は大志よりも小さい。そして白い服にピンクのカーディガン。スキニーデニムを穿いている。
小路は大志の鼻をつついた。
「小路だって出てるだろ」
「私は先生だもの。でも、今回だけは許してあげる。次からは気をつけるのよ」
そう言って小路は歩いて行ってしまう。
やはりダメなものはダメだった。禁止にするほどだ。そこにはきっと何か理由がある。
廊下は、大志の部屋をすぎるとすぐ行き止まりだ。
小路はそこで何かをして、折り返す。そして膝を抱える大志の前で立ち止まった。
その手には、さっきまで持っていなかった皿がある。しかし、壁には何もなかったはずだ。香ばしい匂いが大志の鼻孔をくすぐる。
「これは皆には内緒よ」
小路は人差し指を口の前で立たせ、ウィンクをした。
言うはずもない。興味などない。
小路は廊下を歩いていき、途中で誰かの部屋へと入る。
しかし、それも興味なかった。小路がどうだろうと、理恩がどうにかなるわけではない。
「理恩……」
瞼が重くなる。眠るのだろうか。こんなに苦しくても、しっかりと眠れるようだ。
バカバカしい。こんなに苦しくて、どうにもならないっていうのに、欲はしっかりとある。呆れて声も出ない。
「……寝てた、のか」
目を開けると、まだ廊下は暗かった。あれからどれほどの時間が流れたわからないが、まだ夜であることだけはわかる。しかし、大志の目には光が映りこんでいた。
そして光源であるランプの向こう側に、黒いワンピースを着た少女が見える。
山崎だ。伸ばした足を大きく広げて、大志と向かい合うように座っている。
しかし山崎のワンピースはとてもミニスカートだ。足を広げれば、その中のものまで見えてしまう。
「まだ夢でも見てるのか……?」
「目が覚めたばかりでしょ! 夢の中で夢を見るなんて、ありえないっつーの!」
山崎の声に、寝ぼけていた大志は目を見開いた。
静まり返った廊下のせいか、とても大声に聞こえてしまったのである。
「うるさい。それより、どうしてここにいるんだ? 消灯後は出ちゃダメだろ」
「大上だって出てるじゃないの!」
「俺は消灯前から出ていた。だから、大丈夫だ」
考えてみれば、そうだった。消灯後に部屋の外へ出てはいけないが、消灯前から出ていたら何も問題はないはずである。
大志は、自分の言葉に納得した。
「いったい何があったのよ。言いたいことがあるなら、言いなさいよ」
「いや、山崎には用がない。というか、このランプは山崎が持ってきたのか?」
ランプは軽い。片手で持てるほどの軽さだろう。
しかし、いくら軽くても山崎が持てるかどうかわからない。指をかければ、なんとか持ち上げられるかもしれないが、それはとても考えづらい。そもそも、山崎の部屋にあった道具は地図帳だ。ということは、このランプは山崎のものではない。
「これは小路が持ってきたのよ。大上がここにいるのも、小路から聞いたの」
「なんだ、大人のくせに口がゆるゆるじゃないか」
聞き出す側からすればラッキーだが、その情報が自分のものだとわかったら、なんともいえない気持ちになった。
つまり、山崎の外出は小路も確認しているということである。
禁止と言っておいて、自らその行為を勧めるとは、愚かというか何というか。
「あたいは、大上が落ち込んでるって聞いて、ここまできたの。そしたら寝てたし」
「睡魔には勝てなかった」
「それで、なんで落ち込んでたのよ。千頭のこと?」
大志は山崎に向けていた視線を落とし、スカートの中のものを見た。
黒と白の縞模様である。ワンピースも黒で、下着も黒とは、黒が好きなのだろうか。
「……もし、今までずっと一緒に暮らしてきた人が、急に別の人と親しくなったら、山崎はどう思う?」
「何よ、それ。そんなの何とも思わないでしょ。一緒に暮らしてきたって、家族ってことでしょ?」
家族。今まで理恩は家族のようなものだった。しかし、もしそうなら理恩のあの態度はおかしい。山崎の言ってることは正しい。山崎が嘘をつくはずがない。
「やっぱり千頭のことなのね。何があったのよ?」
「言いたくない。言っても、何の意味もない」
山崎の下着から視線をそらし、天井に目を向ける。
ランプの光のおかげで、天井はその部分だけ明るく照らされていた。
「意味がないかどうかは、言ってから決めなさいよ」
「言ってもどうせ意味がない。言うだけ無駄だ」
「そうよ。無駄じゃないことなんて、ないの。ある人にとっての無駄が、違う人にとっては無駄ではなかった。ただ、それだけのことなのよ」
山崎は立ち上がり、大志のすぐ目の前に立つ。
そして手を差し出してきた。
「大上にとって、あたいがここにきたのは無駄なこと。でも、あたいにとっては無駄じゃない。湊が言っていたの。大上が苦しんでいたら、手を差し伸べてほしいってね」
「頼まれたから、きたってわけか」
「たしかに、最初はそうだったのよ。でも、ここで眠る大上を見ながら考えていたの。あたいは湊の言葉に救われた。そして湊は、大上の言葉に救われた。それってつまり、あたいは大上に救われたってことなの。だから、あたいは大上を救いたい。苦しんでいるのなら、その苦しみをなくす手助けをしたいの」
山崎は何を言っているのか。大志が湊を勇気づけたのは事実だが、湊が山崎を勇気づけたのとは無関係だ。しかし山崎が言うなら、そうなのかもしれない。
「なら、俺を救ってくれよ」
「だから、早く言いなさいよ。大上の苦しみを、教えなさいよ」
それから、しばらく大志と山崎は会話をした。
互いの昔のこと。ここでの生活のこと。そして、理恩の誤解のこと。
「それで、その誤解のせいで千頭に嫌われたっていうの?」
「そうだろ。常識的に考えて」
「大上の昔の生活を聞いた限り、常識があるとは思えないわよ」
隣に座る山崎は、なんとも失礼なことをいう。しかし、怒ることはない。山崎も悪気があって言ったことではないはずだ。
大志は、山崎の太ももを叩き、さする。
「んにゃッ……にゃ、にゃにをするのォッ!」
山崎のチョップが、大志の腕を襲った。
それにしても、強気な山崎とは思えない言葉である。
「ちょっと足を触っただけだろ。叩くなんてひどいな」
「ひどいのは大上でしょ! 千頭とのことがあったのに、なんでそんなことができるのよ!」
「千頭とは関係ないだろ」
すると山崎は首を横に振る。
「そんなわけないでしょ。今の大上は現実から目を背けている。悪いとは言わないけど、それがさらに苦しめているんでしょ」
「現実から……? 違う。俺は、理恩と仲直りしたい。だから、理恩に……」
大志は握った拳で、床を叩いた。
理恩に隣にいてほしい。ただ、それだけなのに。苦しい。悲しい。
「大上は千頭に何をしたの? 千頭のために、何をしたのよ」
「誤解を解くために、俺は何度も……」
その言葉に、山崎はため息を吐く。
そして床を叩いた大志の手を、山崎の開いた手が叩いた。
「そんな弱気で、誤解を解けると思ってんの!?」
「よ、弱気? そんなこと……」
ない、と思いたい。理恩のために、何ができるか考えた。それなのに、弱気だなんてありえない。
大志は膝を抱え、弱々しく山崎の顔を見る。
山崎の顔も大志へと向いており、その顔は少し怒っていた。
「そんな態度で、そんな声で言われて、信じてもらえると思ってんの?」
「な、なんでだよ。俺は、本当に悔しくて」
「そんな風に言われたら、誰だって信じられないわよ。もっと勇気を出しなさいよ」
山崎の手が、大志の頬を叩く。そのせいで、大志の頭は扉に叩きつけられた。
痛みに大志が頭を押さえると、山崎はニヤッと笑う。
「笑うなよ!」
「なら、あたいの代わりに大上が笑いなさい。あんたまで気を落としてどうするのよ。千頭だって繕うような言葉がほしいわけじゃないの。あんたの思いを伝えなさいよ!」
「俺の思いを……?」
山崎は大志の胸に手を当て、大志の目を見て首を縦に動かす。
「中田と何もないのなら、胸を張りなさい。信じるのよ、自分を。そして、あんたを信じる千頭を信じなさい」
「胸を、張る……」
大志は手を、胸に置かれた山崎の手に重ねた。
山崎の細い手が、今は大志よりも大志の近くにある。
「そうよ。あんたは、あたいも湊も真水も元気づけた。そんなあんたが、こんな調子でどうすんのよ」
「俺は、そんなつもりは……」
山崎の手を胸から離れさせ、そしてランプの光を見た。
すると、山崎も続いてランプに目を向ける。
「なくてもいい。大上にその気がなかったとしても、あたいたちは苦しみから救われた。そして次は大上が苦しんでいる。千頭が苦しんでいる。でも……あたいたちは大上のようなことはできない」
「なんで、そこでできないって諦めるんだ。もっと努力しろよ。努力して、努力して、諦めるのはそのあとでも遅くはないだろ」
「……あたいたちは、努力をした。そしてその結果に絶望した。だから、ここにいるのよ」
山崎の過去は知っていた。努力していたことも知っている。しかし山崎の言葉で、大志は怒りが沸点を突破した。
山崎の脚を両膝で押さえつけ、胸倉を両手で掴む。
「何が絶望した、だ。生きてんだから、失敗したり後悔したりする。でもだからって、それが諦める理由になるわけねえだろ。自分から逃げてんじゃねえよ。いくら傷つくとしても、立ち止まるんじゃねえよ。立ち止まったら、また歩き出すのが辛くなるだけだぞっ!」
すると、こんな状況だというのに山崎は笑った。
「そうよ。あたいたちは傷つくのが嫌で、立ち止まった。他人と関わりたくなかった。でも、大上が手を引いてくれた。だから……あんたが立ち止まったら、あたいたちも前に進めないのよ」
「なんだよ、それ……俺が、諦めたってのか?」
「違う。あんたは諦めてなんかない。ただ、迷っている。踏み出すのを躊躇っている。だから、あたいたちはあんたの支えになりたいのよ」
そんなことはない。迷っている時間なんて、大志にはないのだ。理恩と早く元通りになりたい。理恩に隣で笑っていてほしい。だから、こうやって理恩の部屋の前にいる。
「俺は迷ってなんかない!」
「なら、なんでまだ苦しんでいるのよ。その口は何のためにあるのよ。あんた、言ったわよね。自分の気持ちを言えない口は、ないのと同じだって。千頭が嫌がったとしても、あんたの気持ちを伝えなさいよ。本当のことを伝えなさいよッ!」
山崎の気迫に、胸倉を掴んでいた手を離した。
そして思い返す。今までのことを、理恩にかけた言葉を。
「理恩への気持ちが……」
ない。誤解を解くことに必死で、隣にいてほしいという気持ちを伝えていない。
しかし、嫌われているのに、そんなことを言うのもおかしい。
歯を食いしばると、大志の腹に山崎の頭がめり込んだ。
「悩むんじゃないの! あんたの本音を、教えてあげなさい。もう嫌っていうくらい、何度も何度もね!」
大志は追撃を恐れて、山崎から離れる。
すると、山崎は立ち上がり、大志の顔を見た。
「もう大丈夫みたいね。じゃあ、あたいは帰るわ。あとはあんた次第よ」
「ああ、もう迷わない。隣にいてほしいのは、真水でも中田でもない。俺は、理恩に隣にいてほしい」
「うっわ……」
山崎は顔を引きつらせ、自室へと歩いていってしまう。
大志はその後ろ姿を見て、小さく呟いた。
「ありがとう」