2-8 『過去の涙』
「二条……それと、ゆーちゃん」
大志は、二条の隣に立つ。そして二人に顔を向けた。
ゆーちゃんはまた髪を縛られており、まるで二条の人形である。
「何か用なの?」
二条の表情は、意外にも優しかった。
負の感情を全く感じさせないそれは、ある意味で怖い。
「立ち話もあれだし、座ろうか。食べ物は俺が運ぶからさ」
二条はゆーちゃんを抱えている。食べ物を運ぶのは、しんどいはずだ。
「それで?」
二条はゆーちゃんに料理を食べさせてあげている。
ゆーちゃんの手と足は、また縛られていた。
「……二条は、どうしてゆーちゃんに、そんなことをするんだ?」
「私がゆーちゃんにできるのは、それだけだから」
二条は大志に言葉を返している間も、ゆーちゃんに料理を運ぶ手を止めない。
ゆーちゃんも、運ばれてくる料理を拒否しなかった。流れ作業のように、運ばれてきた料理を食べる。
「ゆーちゃんにやらせないのは、何故だ?」
直後、二条の持っていたナイフが、大志に向けられた。
「なんでゆーちゃんのことを、探ろうとするの? 目的は何なの?」
優しかった二条は、そこにいない。蔑むような二条の目に、大志は身体の底から震える。
そして今にも刺されそうな気迫に、大志は息をのんだ。
ゆーちゃんは大志を見て、涙を流す。
「俺はただ、二条とゆーちゃんのことを知りたいだけなんだ」
「なんで?」
「な、なんでって……」
言葉に詰まる。言えるわけがないからだ。
過去の辛さを一人で抱えるべきじゃない。しかし、それを知られたくないから今まで隠してきたのだ。それを言ったところで、教えてくれるはずもない。
大志の戸惑いに気づいたのか、二条はため息を漏らしつつ、優しい顔に戻る。
そして食事を続けるゆーちゃんの髪を撫でた。
「おいちいねぇ。ゆーちゃんは、おねーちゃんに甘えてれば、いいからねぇ」
まただ。また、二条のゆーちゃん甘やかしが始まった。
まるで、ゆーちゃんが子供のようである。それなら大志も疑問視しなかったのだが、ゆーちゃんは二条の弟。甘やかすような年齢ではない。
「ゆーちゃんはそれでいいのか?」
大志が訊ねると、ゆーちゃんは涙を流しながら首を横に振った。
ゆーちゃんは、二条の甘やかしを拒否したいということである。
「そんなことない。ゆーちゃんは甘えてればいいの。ぜぇんぶ、やってあげるからね」
「ゆーちゃんが嫌だって言ってるだろ」
しかし二条は、大志の言葉など無視し、ゆーちゃんに食事を与えた。
ゆーちゃんの意志を知った今、大志を戸惑わせるものはない。
二条の腕を掴み、ゆーちゃんから離れさせる。
「離してッ!」
二条の鋭い眼光が、大志を捉えた。しかし臆する大志ではない。
「二条の勝手に、ゆーちゃんを巻き込むなよ」
「私の勝手!? いつ誰が、そんなこと言ったのよッ! 私は、ゆーちゃんのためにやってるの!」
ゆーちゃんには絶対に向けないであろう、二条の怒声。しかし、怒声はゆーちゃんの耳にも入る。
怯えたゆーちゃんは、椅子から転げ落ち、床に後頭部をぶつけた。
「ゆーちゃんッ!」
二条はすぐさまゆーちゃんを抱き上げ、そして大志を一瞥する。
「……許さない」
二条はそう吐き捨て、ゆーちゃんをを抱えて、階段を上がっていった。
大志はそれをただ見ていることしかできない。二条を追いかけても、何も解決しないからである。それは、二条との会話でなんとなくわかった。
「ゆーちゃんを、二条から助けないとだ」
「ゆーちゃん、いるか?」
ゆーちゃんの部屋をノックしてみるが、反応はなかった。
頭をぶつけた衝撃で、意識を失っているのか。それとも、二条に何かをされているのか。
部屋の外からでは、何もわからないのが現実だ。
「二条は……」
二条の部屋もノックしてみるが、反応はない。
仕方なく、その日は諦めることにした。
自室へと歩いていると、神無月が姿を現す。
そして軽く手を上げるので、大志も軽く手を上げた。
「思ってたんだけど、この手を上げるのは何なんだ?」
「あいさつでござる。わざわざ声を発する必要がなくなるでござる」
神無月の顔は髪で隠れており、表情を伺うことできない。
「そうか。じゃあな」
大志が横を通り過ぎようとすると、神無月に腕を掴まれ、止められてしまう。
二条とゆーちゃんのことで頭がいっぱいだったが、神無月の気持ちを無視はできない。
「どうしたんだ?」
「大上は、拙者が気持ち悪くないでござるか?」
唐突の質問に、大志は首を傾げた。
そんなことを聞かれても、まだ知り合ったばかりだし、ろくに接点もない。
「そうだな。何かあったのか?」
「人は無情にも非情でござる。目の前に差し出された幸福に、手を出さぬことなどできない。何をしようとしているか知らぬが、他人を巻き込むことだけはするなでござる」
神無月はそう言うと、部屋の中へと入っていってしまう。
しかし大志には理解できない。神無月に何かをした覚えがないのだ。
「他人を……。それってまさか、二条たちのことか……?」
「どうしたんだい?」
そこに、どこからともなく下野が現れた。
授業のあとは自由時間で、自由に出歩ける。しかし、みんなだいたい部屋に閉じこもっているのだ。
「脅かすなよ。心臓が飛び出るかと思ったぞ」
「ははっ、ここで会ったのも運命だね。僕の部屋に、おいでよ」
下野は大志の手を引き、自室へと誘う。しかし、真水の部屋の前にくると、ちょうど真水が部屋から出てきた。
そして、大志と下野が手を握っているのを見ると、ムスッと頬を膨らませる。
「なんで、手なんて繋いでるの?」
「いや、繋いでいるわけじゃない。下野の部屋に誘われたんだ」
状況を説明すると、真水は下野とは反対の、大志の手を握った。
そしてその手を、自分の部屋へと引っ張る。
「大上は私の部屋にきてよ」
「そう言われてもな、もう下野に誘われたあとだし」
すると、下野は手を離し、微笑んだ。
「これも運命。僕は引き下がることにするよ」
「用があったんじゃないのか?」
しかし下野は何も言わず、自室へと入っていった。
煮え切らない気持ちだが、仕方ない。真水に引かれるまま、真水の部屋へと入る。
真水の部屋は、昨日と変わっていない。
「また勉強でもするのか?」
「違うよっ!」
なら、なぜわざわざ部屋へと呼んだのか。
用もなく連れてきたのなら、遠慮した下野がかわいそうだ。
手を握る真水の力が強くなる。
「大上といると、楽になるんだよ……。胸のもやもやが、少しだけ楽になる」
「食べすぎか?」
「違うよッ!」
真水の部屋に来たはいいが、やることがなかった。
ベッドを背もたれにして座ってみたが、何もすることがないのは変わらなかった。
「大上のおかげで、少し楽になれたんだよ。……だから、私も大上を楽にしたい」
隣に座った真水が見つめてくる。
辛い過去がないと言ったはずだが、信じてくれていないようだ。
「俺にはない。だから、真水が気にするようなことはないんだ」
「……どうして」
またしても、真水の手に力が入る。
「私じゃ、ダメ?」
「ダメとかじゃないんだ。本当に、俺にはないんだ」
しかし、真水からは何も返ってこなかった。
目を向けてみれば、その頬には静かに涙が流れている。
「……ごめん。大上を困らせるつもりじゃなかったの。ただ、私は大上のために……」
そこまで言って、真水は口を閉ざした。
こんなに歯がゆい気持ちは初めてだ。事実なのに、この環境のせいで、それが受け入れられない。
「本当なんだ。信じてくれ」
「なら、全部教えてよ。大上のことを……」
それを言うのは、簡単なことだ。しかし、それが信じられるかはわからない。
ただでさえ、信じてもらえない状況だ。
「わかった。だが、場所を変えよう」
「た―君……?」
理恩の部屋をノックした。
大志を見た理恩は表情を明るくしたが、その隣にいる真水に気づくと、困った顔になる。
「真水に俺たちの過去を教えるんだが、千頭も一緒のほうが説得力があると思ってな」
「……なんで、教えるの?」
なぜか理恩は警戒している。
「真水が知りたいっていうからな。ダメか?」
「……教えるのはいい。でも、一緒はヤダ」
そう言って、理恩は扉を閉めてしまった。
それでは、理恩に会いに来た意味がなくなってしまう。
理恩に拒否されたなんて、何年ぶりだろうか。
「仕方ない。俺の部屋にこい。中は真水の部屋と大差ない」
真水の手を引き、理恩の部屋の隣にある大志の部屋へ連れ込む。
部屋にいれると、真水は目を輝かせた。
「ここが、大上の部屋……」
真水はさっそく奥へと進み、冷蔵庫を開ける。
「ひゃうぅぅ。涼しいよぉ」
「冷蔵庫って、そういう道具なのか?」
大志も真水の隣に立って、冷気を浴びてみた。
たしかに涼しいが、わざわざ扉を開けなければいけない構造は理解ができない。
「違うよ。中に冷やしたいものをいれるんだよ」
「よくわからないな。真水は、使ったことあるのか?」
すると、真水の眉間にしわが寄る。
「使ったことないってほうが、珍しいよ」
どうやら大志は珍しいという部類なのかもしれない。
ギルチがたまに冷たいものを持ってきていたのは、冷蔵庫を使っていたのかと気づく。
「そうか。俺の過去は、真水からしたら特殊なのかもしれない」
「大上の、過去……」
そして大志は全てを話した。
田舎に生まれたこと。理恩と同居することになったこと。親が死んだこと。ギルチに育てられたこと。
「そ、それって……」
真水は絶句した。
言葉が出ないのだろう。何もない大志の過去に。
「俺は恵まれた環境で生きてきた。辛い過去なんて、ないんだ」
直後、大志の頬に強烈な痛みが襲った。
真水に叩かれたのである。しかし、なぜ叩かれたのか。大志には、それがわからない。
「なんで、そんな平然としていられるの? 親が、死んだんでしょ……」
「そうだな。でも、そんなに悲しむことでもないだろ。ギルチがいたし」
すると、大志の頬に再び痛みが走った。
痛みに頬を押さえると、涙を流す真水の顔が見えた。
「そのギルチって、誰なの……」
「は? ギルチは、ギルチだ。俺と理恩の親だ」
「違うよっ! たしかにギルチって人は、育ての親かもしれないよ。でも、大上の親が死んだことに、違いはないんだよッ!」
真水は、大上の胸倉を掴んで、見上げてくる。
大志の記憶には、本当の親の記憶がほぼ残っていない。なのに、真水の言葉に足の力は抜け、尻餅をついた。
「なんで、大上はそうなの。何が大上をそうさせるの……」
真水は尻餅をついた大志の上にまたがり、優しく抱きしめる。
温かく、柔らかい真水に、大志の中で何かが崩れた。
「悲しいんでしょ? 辛いんでしょ? なら、泣いていいんだよ」
「そ、そんなこと……」
目頭が熱くなり、胸の奥から何かが溢れてくる。
だが、ダメだ。真水の前で、それを流すことはできない。
「我慢は辛いよね。私も一緒に泣いてあげる。だから、楽になろうよ」
真水に頭を撫でられ、大志の堪えていたものは一気に放出した。
親を失った悲しみ。最初は感じていたのかもしれない。しかし、理恩の前で泣くことはできなかった。変なプライドが、今まで大志を泣かせなかった。
真水は一緒に泣きながら、大志の涙を受け止めてくれる。
だから、大志は泣いた。涙が枯れるその時まで。
「真水……こんなに濡らして」
「大上も私をこんなにして、責任とってよね」
大志は真水を強く抱きしめる。
真水と一緒にいると、心が温かくなった。
「責任って、何すればいいんだ?」
「冗談だよ。さ、一緒にシャワー浴びようよ」
真水に手を引かれ、一緒に脱衣所へと入る。
そして真水は服を脱ぎ、それを乾燥機に入れた。
脱衣所には洗濯機と乾燥機が設置されているが、使い方がわからず大志は使っていない。
真水に簡単な説明を受け、涙で濡れた服を乾燥させる。
「その間に、早くシャワー浴びちゃおうよ」
「……恥ずかしく、ないのか?」
「うん! 背中よりも見られたくない場所なんて、ないよ」
真水は下着を脱ぎ、大志に手を差し出した。
ここで大志が引き下がるわけにはいかない。大志も下着を脱ぎ、真水の手を握る。
「うわぁぁ……」
「なんだよ?」
すると、真水は頬を染めて視線をそらした。
「ちょっと、驚いた……だけ」
手を差し出しておいて、握られて驚くとは不思議な話だ。
しかし、誰かと一緒にシャワーなんてのは久しぶりである。
「よし、乾いたか。早く着ないと、消灯の時間になる」
「そうだね!」
乾燥機から服を取り出して着ると、時間は九時をすぎていた。
「って、すぎてる!」
「あちゃー……じゃあ、どうする?」
「どうするもないだろ」
ドアノブを回してみる。すると、動いた。そして扉も開く。
外を見れば、電気は消えており、暗い空間が続いていた。しかし、多少なら見える。
「帰れるぞ。消灯後は出るなって禁止事項にあるけど、少しぐらいなら大丈夫だよな?」
「そうだね。少しなら、きっと大丈夫」
真水一人で暗い中を歩かせるのは嫌だったので、一緒に部屋を出た。
壁を伝って、真水の部屋を探す。
「二人だけの秘密だね」
「そうだな。誰にも言うなよ」
そして、真水の部屋を見つけた。
真水は鍵であるカードを差し込む。だが、扉は解錠しなかった。
「なっ、なんで?」
「まさか、消灯したから解錠システムも止まってるのか?」
「ど、どうするの!?」
もしも解錠できなくなっているのだとしたら、大志の部屋に戻ったところで同じである。
真水の手を握りしめて不安を紛らわすが、現実は変わらない。
その時、廊下の先で光が揺れた。
しかし今は消灯後。光があるはずがない。
ゆらゆらと光は宙を動き、近づいてきている。
「なっ、なに?」
「大丈夫だ。真水は、俺が守るからな」
真水を背に隠し、光を待ち構えた。
しかし、大志の後ろからも光が差し込む。
「こっちです」
振り返ると、誰かの部屋の扉が開いていた。
誰の部屋でもいい。部屋にいれさせてもらうしかない。
真水を抱え、部屋へと飛び込む。
そして大志と真水が入ると、扉は閉じられた。
「で、出ては、だ、だだっ、ダメッ、です」
「……ここの部屋って」