2-7 『ブレた一日』
「さて、今日は身体を動かすよ!」
担任兼教師の小路は、満天の太陽の下でそう言った。
しかしそんなことは承知である。でなければ、わざわざ外に集合させた意味がわからない。
大志たちは、座っている席と同じ順で並ばせられた。
「何をやるか、早く教えろってんよ」
「そうよ。ゆーちゃんが倒れたら、どうしてくれるの?」
二条は今日もゆーちゃんを甘やかしている。
ゆーちゃんがそれを肯定しているわけではないけれど、二条のその甘やかしのせいでゆーちゃんが弱っているのは事実だ。
人形じゃないのだから、歩かせるくらいするべきである。それをゆーちゃんも望んでいるようだし。
「今日は体力測定をするよ。あと少しで水泳があるからね。基礎体力を調べたいの」
水泳。聞いたことはあるが、やったことはない。
水に入って何かをするということだけしか、大志は知らない。
「体力測定とは、何をするでござるか?」
「持久力や柔軟さ、瞬発力などを記録するよ。それで突然なんだけど、みんなには着替えてもらいたいの」
そう言って小路は、白い半袖ランニングシャツと赤いジャージの半ズボンを取り出した。
大志の着ている服と、大差ない。理恩も似ている服装である。
「ちょっと露出が多すぎなんだけど。ありえない」
山崎は黒い長袖ワンピースを着ているが、下半身の露出でいえば半ズボンよりも多い。
「これも運命。仕方ないね」
下野は着ているシャツのボタンをはずし、鍛えあげられた上体を晒した。
そして大志に身体を向ける。まるで、その身体を見せつけるように。
「なんだよ、早く着替えろよ」
「君が僕に見とれていたからね。これも運命だね」
何が運命なのかわからない。下野といると、ゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。
小路は上下一式ずつ服を配る。そして早く着替えろと言うのだ。
「こっ、ここ、こっ、ここで着替え、え、えるんですかっ?」
中田は服を抱きしめ、顔を真っ赤にする。
さすがに大勢の前で着替えるのは、羞恥心が拒否するようだ。理恩にもこのくらいの羞恥心がほしいところである。
理恩が上半身の服をめくりあげていたのを、大志は戻した。
視線が集中して、それが気に食わなかった。
「こんなところで脱ぐな」
「何を言ってるのよ。早く着替えなさい」
小路は手を叩き、催促する。
しかしここに隠れるような場所はない。ここで着替えるということは、それすなわち、その身を晒すということだ。それは過去を晒すほどではないが、屈辱だろう。
「ブタの前で脱ぐなんて、ありえないっ!」
山崎はそう言って、校舎の中へと消えた。
そしてざわつく中、涙を流すゆーちゃんの服を二条が脱がし始める。
「はぁい、おねーちゃんがぜぇんぶ、やってあげるからね」
今まで服に隠されていたゆーちゃんの肌には、包帯が巻かれていた。
それはとても異質。二条がゆーちゃんを甘やかす理由は、もしかしたらそれなのかもしれない。
聞こうとしたが、二条に目を向けられた大志は動けなくなる。全く感情の読めない目は、大志に恐怖を与えた。
「理恩も真水も、一度部屋に戻ろう。こんなところで着替えなんて、できるかっ!」
腕を引き、真水の部屋へと走る。
小路は先に走っていった山崎を追って、すでにいなくなっていた。
「いつも……ありがと……」
廊下を走っていると、声が聞こえてくる。
他の人は外にいるはずだ。大志よりも先に入ったのは、山崎と小路。そしてこの声は、小路ではない。
大志は山崎の部屋の前で、聞き耳を立てる。
「いいのよ。山崎さんの手じゃ、着替えられないでしょ?」
「……めいわく、だよね……」
山崎の声は弱い。罵倒していた時とはまるで別人だ。
すると、真水に手を引かれる。見ると、真水は静かに首を横に振った。
山崎の普段見せない姿。それはすなわち、隠していたいことなのだろう。
大志は音をたてないように、その場を去った。
「早く着替えて、外に戻ろっか」
真水の部屋に入ると、さっそく真水は服を脱ぎ始める。
理恩も小さく頷いて、服を脱いだ。
真水の背は、何度見ても、目をそらしたくなる。
過去を知ったからこそ、その事実を知った今だからこそ、その傷の惨たらしさを直視できなかった。
「この傷、やっぱり……醜いよね」
下着姿の真水は、自らの背に残る痕を指でなぞる。
悲しそうな真水の目は、目をそらした大志に罪悪感を与えた。
「あぁ、醜い。目をそらしたくなるほどな」
「……そう、だよね」
真水は胸の前で両手を握りしめる。
消えるかもわからない傷は、お世辞にも綺麗とは言えない。今の大志にできるのは、真水の内面にできた傷を、さらに深くえぐらないようにすることだけだ。
大志は真水の背にできた傷跡に触れる。
「この傷を綺麗だと言ったところで、真水の心は癒えない。だから、この傷は醜い。真水を苦しめるこの傷は、醜いよ。……でも、真水は綺麗だ。優しい心を持っている」
真水の手に、大志は手を重ねた。
大志に真水の心はわからない。だからこそ、こうやって言葉をかけるしかできない。
「ごめん……」
真水は大志の手を振り払って、着替えを続ける。
何か気に障ることをしてしまったのかもしれない。大志は不安で、何もできなかった。
「大上は、やっぱり特殊だよ」
着替えが終わり、外へと戻ると、すでに全員が着替え終わっている。
「まさか、ここで着替えたのか?」
「そう言われたのだから、ここで着替えるのは当然よ」
小金沢だけじゃない。中田も、二条も着替え終わっていた。
神無月が軽く手を上げるので、大志も同じくする。
「いい景色でござった」
「何が見えたんだ?」
すると神無月は、中田を指差した。
そして顔を隠していた髪をめくり、半分だけ顔を覗かせる。
「白き肌を包むは、純白の布。豊満な胸はさらけ出され、淫らでござった」
「つまり、何があったんだ?」
しかし神無月は再び髪で顔を隠した。
それ以上は何も言おうとしない。中田に何かがあったことしか、わからない。
「ブタのくせに詮索するんじゃないわよっ!」
山崎に睨まれ、大志はそそくさと並びなおす。
やはり山崎は山崎だった。あの時の声は、聞き間違いだったのだろうか。
「それでは男女でペアになってね」
小路の言葉に、全員が動き出す。
二条はゆーちゃんと組むのは当たり前として、異性が苦手な中田は真っ先に草露の手を握った。
「じゃあ、大上」
真水が振り向いた時には、すでに理恩が大志の手を握っている。
しかし、理恩とは少し距離を取ろうという話をしていた。これは絶好の機会かもしれない。
「千頭は下野と組んでくれ。俺は真水と組む」
「なんで私とじゃないの?」
不安そうな理恩の手を握り返す。
これは大志と理恩のため。ここに馴染むためには、一旦二人の距離を遠ざけなければならない。それは理恩にも話したはずだ。
そして、理恩を下野に渡す。
「それは、千頭よりも真水のほうがいいと思ったからだ」
理恩から離れた手で、真水の手を握った。
ほんの少し離れるだけ。ただそれだけなのに、胸が痛くなる。
「これも運命。仕方ないね」
そして残るは小金沢と山崎、榊と神無月。
榊とは嫌だったのか、山崎は即座に振り返り、神無月に顔を向けた。
「あたいがペアになってあげる。ブーブー泣いて感謝しなさい」
山崎の表情から察したのか、神無月は否定もしない。
そして残った小金沢は榊とペアを組むことになる。
「じゃあ、まず縄跳びね」
そう言って、小路は縄跳び用の縄を配る。
縄跳びなら大志も知っていた。
「ゆーちゃん、ちゃんと一人でできる? おねーちゃん心配だよ」
二条はゆーちゃんに縄を持たせて、立たせる。しかし、不安な様子だ。
本当に心配しているだけなのか、それとも弟離れができていないのか。ゆーちゃんの身体に巻かれていた包帯を思い出す。
「本当に大丈夫か?」
つい、言葉に出してしまった。
そんな大志の言葉に、真水は首を傾げる。
「何の心配してるの?」
「ゆーちゃんだよ。包帯を巻いてたのが、気になってな」
ゆーちゃんが二条に怯えているのも、何か関係があるのかもしれない。
まさか、あの二条がゆーちゃんを痛めつけているとも思えない。しかし、あそこまでゆーちゃんを鉄壁の防御で守っておいて、誰がゆーちゃんを傷つけられるのか。
「……それより、大上は縄跳び得意?」
「苦手ではないけど、得意でもないって感じだな。真水はどうなんだ?」
「んぅー、大上と同じかな。苦手じゃないよ」
真水は二重跳びやハヤブサを見せつける。
その程度なら大志でもできるが、真水が得意げな顔をするので、褒めた。
「真水はすごいな」
「そ、そうかな……?」
理恩が横から口を挟んできそうなので、何も言わないようジェスチャーで伝える。
すると理恩は頬を膨らませた。せっかく真水が喜んでいるのだ。水を差すようなことは言いたくないし、言われたくない。
そして、真水を褒めていると、小路がストップウォッチを配り始めた。
どうやら、何分間跳んでいられるかを記録するようである。
「どれくらい跳べるかな?」
真水に聞かれるが、知るはずもない。
「10分くらいなら、いけるだろ」
「が、頑張ってみるね」
「そう落ち込むな。千頭だって、悪気があったわけじゃないんだから」
女子が先に跳ぶことになり、時間を計っていた。
山崎はめんどくさかったのか、一秒で終わり、二条も数秒でゆーちゃんに抱きついていた。
中田と小金沢は健闘していたが、見計らったかのように同時に終わりを迎えた。
そして真水と理恩が跳んでいたのだが、運悪く縄が接触し、その場で二人とも終了。
10分までもう少しだったからだろうか、真水はとても悔しそうである。
「真水はよく頑張ったよ。だから、元気出せ」
肩をぽんと叩いてみたが、真水はそれでも落ち込んだままだ。
仕方ないので、耳に息を吹きかけてみる。すると、『うひゃぁっ』と可愛らしい声を出した。
「次頑張ればいいだろ。だから、そんな顔するな」
そして体力測定はつつがなく行われ、終わりを迎える。
山崎が手を抜いていたり、二条姉弟があれでは、しっかりとした記録はつけられなかったはずだ。しかし、だいたいの平均がわかったので大丈夫だと小路は言う。
「大上……」
食堂で夜ご飯を食べていると、そこに榊が現れた。
いつもくっついていた理恩は自室に戻り、今は大志一人だけである。
「榊か。ちょうど聞きたいことがあったんだ」
手招きすると、榊は大志の隣に座った。
初めて会った時は怖いって印象だったが、今はミステリアスな印象である。
榊の食事は、牛丼。卵をかけ、無言で食べ始めた。
しかし食べていても、無表情。やはり怖いかもしれない。
「それ、美味しいか?」
けれど、榊の反応はない。まさか隣にいるのに、聞こえていないことはないだろう。階段で会話した時はしっかりと聞こえていたようだし。
気まずくなり、水を汲みに行こうとすると、榊の手が止まった。
「聞きたいことは、そんなことか?」
榊は、大志に目を向けていた。それも、睨むような鋭い目で。
「違う。この学校について、榊なら知ってると思ったんだ」
「……察しがいいな」
榊に親指を立て、水を汲みに行く。
あんなに、知ってるぞオーラを漂わせておいて、『察しがいいな』はないだろと大志は笑った。
「榊は何を知っているんだ?」
「大上から話せ。無駄な情報で、混乱させたくはない」
大志が戻る頃には、榊の牛丼はなくなっていた。
身体を動かしたあとだ。きっとお腹も空いていたのだろう。
「ここに希望も未来もない。それって、ここにいる人たちが、互いに過去を隠しているのと関係があるのか?」
「……半分あってる。だが、それが全てではない」
そこで榊は口を閉ざした。
ただでさえ、意味の分からない状況だ。どんな情報でも、ほしい。
「もったいぶらずに教えてくれよ。どんなことでもいいから」
「……大上大志。父の名は勇気。母の名は愛奈。一歳になると、千頭家との同居が始まった。そして五年後、大上、千頭の両親が死亡。その後、二人は消息不明となり、今に至る」
それは、大志と理恩の過去。しかし、まだ誰にも教えていないことだ。
「なんで、知ってるんだ?」
「それは教えられない」
唐突に、榊への恐怖が跳ね上がる。
情報量の差が、ここまで恐怖を生むとは、今まで知る由もなかった。
「何者……なんだ?」
「ただの榊だ。榊以外の、何者でもない」
榊は食器を持って立ち上がる。
そして階段のほうへ目を向けるので、大志もそれに続いた。すると、誰かが降りてくる。
「大上。正しさでは、塗り替えられない現実がある。だから、よく考えろ」
榊はそう言い残し、大志の前を去った。
正しさでは塗り替えられない現実。それはきっと、心に深く刻まれた過去のことだ。
真水が抱えているような過去を、他の人も持っている。ゆーちゃんも、中田も、山崎も何かしらを抱えているんだ。その過去を、大志がどうにかすることはできない。けれど、何かしてあげられるはずだ。
「ゆーちゃんは、何が食べたい?」
そこに、二条の声が聞こえた。
階段を降りてきたのは、二条だったのである。その腕には、ほっそりと華奢な身体のゆーちゃんが抱えられていた。
大志には、何もできないのかもしれない。さらに傷つけるだけかもしれない。
しかし、だからといって、ただ見ているなんて、できない。