2-3 『移り変わる非日常』
「理恩……」
目覚めると、理恩の布は身体を隠すという役目を放棄していた。
今までこの生活を続けてきて、それを意識したのは初めてである。
理恩のそんな姿に、喉が鳴った。胸もなんだか、もやもやとする。
「た、た―君?」
目を開けた理恩は、すっと布で身体を隠した。
大志は恥ずかしくなって、視線をそらす。
「お、起きたか。もう朝だぞ」
「そうだね……?」
いつもと様子が違う大志に戸惑いながら、理恩は立ち上がった。そして便器に座り、出たら出し、出なかったら出さない。それが理恩の一日の始まりである。
理恩も大志もその頃には、パンツを穿くようになっていた。ギルチが持ってきてくれたのである。
扉の前で待っていると、少し遅れて理恩も来た。
そしてギルチはそれを確認し、小さな扉を開けて朝食を出す。
その日の朝食は白ご飯と、焼き魚、味噌汁、そして牛乳だった。牛乳は毎日出る。それは固定みたいだ。
大志は未だに魚の骨を上手に取れない。なので、骨ごとかみ砕く。
「あぁっ、またそんなことして! 骨が刺さったら、どうするの?」
「大丈夫。俺の歯は頑丈なんだ」
その直後、喉の奥に何かがつっかえたような感覚がした。
口の中のものを飲み込んでも、それはなくならない。
「骨が刺さるのは、歯じゃないんだよ」
大志はご飯をかまずに飲み込む。すると、喉にあった違和感はすぐになくなった。
大志が一安心する横で、理恩も安堵の息を吐く。
「めんどうだったら、私に頼んでよ」
「次からはそうする!」
それなのに、大志はがつがつと魚とごはんを口に入れ、味噌汁で流し込んだ。
そして自分の牛乳を、理恩の前へと移動させる。
かつて理恩は牛乳を嫌っていた。それが、今はごくごくと飲み干せるほどになったのである。
理恩はきっと牛乳を好きになったのだ。だから他に汁物がある場合は、お裾分けしている。
「た―君も飲まないと、大きくなれないよ?」
「小さくない!」
「そ、そうだね。た―君は大きいから、いいんだよねっ」
理恩は慌てた様子で牛乳を飲みほした。
そして朝食が終わると、水の入った桶が現れる。
それが現れれば、することは一つだ。
理恩は布を脱いで、その身を隠していたもう一つの布も脱ぐ。
その姿に大志は恥ずかしさを感じながら、裸体を晒した。
「これ、どうにかならないのか?」
覗き窓から見えるギルチに訊ねる。
男女で身体のつくりが違うのは勉強で習っていたのだが、それがこうも恥ずかしいものなのかと大志は感じた。
「どうにか、とは何だ? いつもと同じだろ」
「そ、それはそうだが」
大志と違って、理恩に恥じらいがあるように見えない。
いつもと同じことなのだが、理恩の身体を直視できない。
「た―君の、なんだか大きくなったね」
理恩は水で身体を流しながら、言う。
成長するとともに身体が大きくなるとは習ったが、目で見てわかるほどではないはずだ。しかし、部屋の片隅に置いてある、かつて着ていた服を見れば、大きくなったのだと実感できる。
「そうか? 自分ではわからないな」
「えーっと、そっち」
理恩は大志の目よりも、はるか下を指差す。
そして理恩が何を言っているのか気づくと、大志は背を向けた。
「な、何言ってるんだよ!」
「どうしたの? いつも見せつけてたくせに」
「み、見るなっ!」
大志は水で流すことなく、パンツを穿く。
理恩はそれを不思議そうに眺め、自らの身体をタオルで拭いた。
「そろそろ目覚める頃か。なら、服も用意するべきか」
扉の向こうでギルチが呟く。
しかし、大志には何を言っているかわからない。
そして、その日も勉強の時間が訪れた。
子供のつくり方や、男と女の役割とか、そういった類の勉強を午前中はする。
「まさか、実際にやれとか言わないよな?」
「そんなことするか。知識として教えてるだけだ」
ギルチの言葉に、大志は安堵の息を漏らした。
それもそのはず。勉強の最後に実際にやってみるということは、今までに何度かあったのだ。
紙コップの上に乗ってみたり、静電気で髪の毛を引っ張ったりというやつである。
「私たちも、こうやって産まれたの?」
「そうだ。誰だって、産まれたから生きているんだ。みんな生きているということを、忘れるな」
その言葉で勉強の時間は終わった。
みんな生きている。たしかにそうだ。大志も理恩も生きている。そしてギルチも。
「なら、他の人はどこにいるんだ……?」
けれど、すでにギルチはいなくなっていた。
「これは?」
昼食と一緒に、ギルチは大志と理恩の服を持ってきた。
今まで来ていた布とは違い、しっかりと服と呼べるものである。
「今日からはそれを着ろ。それが、本来着るべき服だ」
「今まで着てたのは、何だったんだ?」
すると、ギルチは口を閉ざした。
しかし大志も疑っているわけではない。ギルチがいい人だということは、この六年で十分知っている。
ギルチが持ってきた服は、身体を締めつけて痛い。
「ギルチ、これ痛い!」
「我慢しろ。今までの服と違うから、痛いんだ。慣れれば、大丈夫だ」
ギルチの言葉を信じ、大志は痛みを我慢した。
対して理恩はというと、袖のない胸を包むほどの大きさしかない服を持って、立ち呆けている。
「た―君には、こんなのなかったよね?」
「あぁ、なかったな。理恩だけずるいぞ」
ギルチに目を向けると、ギルチは声を出して笑った。
「それはスポブラというやつだ。女が着るものらしい」
「俺が着るのは、ダメなのか?」
「ダメ……ではない。だが、それは理恩のものだ」
すると大志は『ちぇー』と口をとがらせる。
理恩はスポブラを着て、大志に見えるようにくるんと一回転して見せた。
「なんだか、今までと違うね」
理恩はスポブラの上から、自分の胸を触る。
今までパンツはしていたが、ブラはしていなかった。違和感を覚えるのも仕方のないことだろう。
「ふんっ、早く食べて運動に行くからな!」
大志は、昼食のソバをあっという間に平らげた。
慌てて理恩も食べ始めるが、いかんせんすぐには食べ終わらない。
すると小さな扉が開き、そこから球体のペンダントが現れる。
その球体は、怖いくらいに赤かった。赤の中に、黒が渦巻いている。
見ていると吸い込まれてしまいそうだ。
「それをやる。だから、恨みっこなしだ」
「くれるのか?」
大志はそれを持って、喜びに感情を高ぶらせる。
ギルチから貰えるものは、なんでも嬉しい。さっそく大志はそれを、首にかけた。
「今日は持久走をやる」
いつも運動は、芝生の広場でやっている。
今日もそこへとやってきていた。
「昨日は、なわとびって言ってたぞ!」
「今日は新しい服を着た。だから、ちゃんと動けるかの確認だ」
大志は軽く身体を動かしてみる。すると、まだ少し痛かった。
ギルチの走る後ろを、大志と理恩は走る。しかし走るだけではつまらなかった。
「ギルチは、なんでいつも白い覆面を被ってるんだ?」
「今は教えられない。いずれ、教える時がくるかもしれない」
ギルチは振り返りもせず、そう言った。
大志と理恩は六年もギルチと一緒にいて、未だにその覆面の下を見たことがないのである。
走るのが疲れ、だらだらと走りながら理恩の顔を確認すると、理恩も大志へと顔を向けていた。
そして大志と目があうと、理恩は前を向く。
「何だよ」
「た―君こそ」
「理恩が疲れたんじゃないかと、見ただけだ」
もちろん、嘘だ。辛くなって、理恩に助けを求めたのである。
しかし理恩は、まだ余裕そうな顔だった。
「たっ、た―君が疲れただけでしょ」
「お、なんだ。もう疲れたのか」
理恩の声に、ギルチの足は止まる。
そしてくるりと大志と理恩に身体を向け、腰を下ろした。
それに続くように、大志と理恩も芝生に倒れる。
「どうだ、痛くなくなってきたか?」
「ちょっとだけな。というか、なんでこんな服を着せたんだよ」
「成長とともに新たなものを与えるのは、当たり前のことだ」
今までそんなことはなかった。つまり、ギルチは初めて大志たちの成長を認めたのである。
大志は着ているシャツに書かれた『婚活少年』という字に目を向けた。
意味はわからないが、きっと成長したみたいな賞賛の言葉なのだろうと大志は思いこむ。
「なら、次はどうやれば成長できるんだ?」
「成長は日々の積み重ねだ。できる、できない、する、しない、という話ではない」
ギルチは少し休憩すると、再び走り始めた。
大志と理恩もそれを追って走る。
「今日は別々にシャワーを浴びるか」
シャワーは一つしかない。今まで二人で一緒に使っていたが、今日からは一人ずつということになった。
そして理恩がシャワーを浴びていると、少し離れた場所でギルチが大志に声をかける。
「大志は、理恩が好きなのか?」
「そっ、そんなわけないだろ!」
即座に否定すると、ギルチは軽く笑った。けれど、目は笑っていない。
「なら、もし好きだと思ったら、それを貫け。中途半端な愛は、その身を滅ぼすだけだからな」
「……何かあったのか?」
それは、初めてギルチの心が言葉になったようだった。
大志はギルチの次の言葉を、ただ待つ。しかしギルチの口は開かないまま、大志と理恩は交代となった。
「愛……滅ぼす……」
大志は布団に入り、ギルチの言っていたことを思い出していた。
すると、同じ布団に眠る理恩が、閉じていた目を開ける。
大志と理恩は身体がくっつきそうなほど身を寄せていた。だから、聞こえていないわけがない。
「うるさかったか?」
「ううん、大丈夫だよ。それより、どうしたの?」
理恩にあの時のギルチが言っていたことを話す。
すると、理恩はわずかに頬を染めた。
「た、た―君……私が好きなの?」
「ちゃんと話を聞いてくれ。違っているし、論点はそこじゃない」
大志は息を吐き、天井を見上げる。
すでに電気は消されており、扉から漏れている光が唯一だ。
「ま、いいか。いずれ、ギルチと同じくらい成長したら、きっと教えてくれる」
「成長?」
「だから、もう寝よう。そうすれば、またギルチに会える」
その次の日も、その次の日も、ギルチと一緒に勉強して、運動をする。
その日々は楽しく、平和であった。
そして十五歳となったある日、ギルチは部屋に来なかった。
いくら待っても、ギルチは来ない。
扉の外に、複数の足音が響く。そして足音が止まると、扉を叩く音が聞こえた、それも一度ではなく、何度も、何度も。
やがて扉は耐えられなくなったのか、その身を地面に倒した。
そして迷彩柄の服を着た複数の男が部屋の中へと入ってくる。そして男たちは大志と理恩を囲った。
「君は……」
ギルチではない声。
恐怖のあまり、大志は声すら出せずにいた。
「大上大志と、千頭理恩だな?」
「は、はい……」
やっと出た大志の声は震え、理恩は大志の腕の中で小さくなっている。
すると目の前に立つ男が、頬を緩めた。
「私たちは助けにきたんだ。さあ、一緒に逃げよう」
しかし大志も理恩も、男の言う言葉に頷こうとはしない。
そしてにらめっこを続けていると、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「たいしぃいいッ!」
ギルチの声だ。大志と理恩の表情がパッと明るくなる。
すると目の前の男は舌打ちをし、大志に背を向けた。直後、大志と理恩を囲んでいた男が、二人を抱える。そして先に進んだ男を追って走った。
扉を出れば、長い廊下を走ってきているギルチが見える。
ギルチは大志と理恩の名を叫んだ。それに呼応するように、大志と理恩もギルチの名を叫ぶ。
しかしその声もむなしく、ギルチとの距離は広がっていく一方だ。
そして大志と理恩の視界から、ギルチという光は消える。
「君たちは、かつて誘拐されたのだ」
男は、大志と理恩を黒塗りの部屋にいれると、そう告げた。
大志と理恩も、両親が死んだということは知っている。そして、ギルチが育ててくれていた。
「嘘だッ!」
「嘘ではない。やつは追跡を恐れ、君たちの戸籍を消し、姿をくらましたのだ」
ギルチと過ごしていた場所は、外との繋がりをなくしていた。
不思議には思っていたが、それは大志たちの安全のためだと勝手に思い込んでいた。
しかし、それが大志たちのためではなく、ギルチのためだと考えれば、男の言ってることも頷ける。
「それでも、ギルチは俺と理恩の親だ」
「……残念だが、君の両親を殺したのはギルチなんだ」
その言葉に、大志は耳を疑った。
ギルチは、不幸の事故だったと言っていた。それが、実はギルチの仕組んだことだった。
「う、嘘だ……」
「信じるか信じないかは、君次第さ」
その時、部屋が大きく揺れる。
大志と理恩は、慣れていない揺れに、身体を倒した。
「今日はよく揺れるようだ」
男が壁を触ると、そこに映像が映し出される。
しかし大志にそれは理解できなかった。揺れる水の中に、黒い大きな影があった。
「なんだ、それは」
「海を見るのは初めてのようだね」
海。ギルチとの勉強で言葉自体は知っているが、実物を見るのは初めてである。
しかし、こうも揺れるものだとは習っていない。もっと穏やかなものを想像していた。
「そしてここにある大きな影。晴れていれば、よく見えるんだが。ここは、君たちがこれから通う学校だ」
「学校?」
「君たちは多くの時間を無駄にした。だから、少しでも青春を送れればと思ってね。もちろん、戸籍は戻してある」
学校。それは、集団で勉強を行う場所だ。大志と理恩だけではなく、もっと多くの人が一緒に。
それに意味を感じられなかったが、少し楽しそうと思った。
「あれが全部、学校なのか?」
「いや、外部からの攻撃から学生を守るために、大砲が島のいたるとこに設置してある」
すると大志と理恩は、難しい顔になる。
それは、今まで思っていた学校とは違っていたからだ。
「そんな顔しなくても大丈夫さ。これから君たちは、青春を謳歌する。この『戦艦島』でね」