2-1 『大上愛奈』
ㅤ都心から離れた小さなのどかな町で、大上大志は産まれた。
ㅤ父、母、そして大志の三人家族の住まう一軒家は、裏山と畑に囲まれている。その環境で育てられ、大志はすくすくとのびのびと育てられた。
ㅤしかし、その環境が壊れたのはすぐである。
「これから、よろしくお願いします」
ㅤ大志の家に、とある家族がやってきた。
ㅤ大志の住む家は、かつて大志の祖父にあたる人が所持していたもので、それを譲り受けたのである。
ㅤしかし祖父の残した家というのは、大上家のような三人家族が暮らすには大きすぎた。そのため、一緒に暮らす家族を探したところ、一つの家族が立候補したのだ。
ㅤ大志の済む田舎に何故か存在する研究所。そこで研究員として働いている夫妻がやってくる。そして、その夫妻には大志と同い年の女の子がいたのだ。
「そんなに畏まらないでください。これからは一緒に暮らすのですから。私は、大上勇気。そして妻は愛奈。この子は、大志」
ㅤ大志の父は、家族としてやってきた男に自分の家族を紹介する。すると、対する男も妻と娘を紹介した。
「どうも、千頭幸助です。妻は理香。そして、今は眠っていますけど、娘の理恩です」
理香の腕の中では、小さな乳児がすやすやと眠っていた。
大志はというと、愛奈に抱かれて、眠る理恩を見ている。しかしこの時、大志も理恩もまだ一歳だった。
そして時は流れ、大志と理恩は六歳になった。
親が仕事で家を留守にしている場合は、近所に住んでいる大月という白髪のおじいさんが子守りをしてくれる。
子供の少なかった田舎なので、大月も大志と理恩を、これでもかというくらい甘やかしていた。
毎日のようにおもちゃを買い与え、二人のご機嫌をとっていたのである。
「いつも、ありがとうございます」
愛奈は大月へと頭を深々と下げた。
アルバイトとして働いている愛奈の帰りは、他の三人よりも遥かに早かったのである。
そして、こうやって大月にお礼を言うのが、毎日の恒例行事なのだ。
「ばいばい」
大志は大月に手を振る。すると、大月はニコッと笑って、やや大げさに手を振って、帰っていってしまった。
家の外に出て、大月を見送る。そして見えなくなると、愛奈は大志と理恩に笑顔を向けた。
「それじゃ、作り始めましょうか」
すると、大志と理恩の顔はぱぁっと明るくなり、愛奈を追い越して家の中へと入ってしまう。
遅れて愛奈も家へと入り、台所へと向かった。するとそこには、手を洗っている大志と理恩の姿がある。
「こぉら。手を洗う時は洗面所でって、言ったでしょ?」
大志と理恩は思い出したかのか、口を広げ、何も言えなかった。
愛奈は二人のそんな姿に微笑しながら、エプロンをつける。
「洗わなくちゃ、ダメ!」
大志はエプロンをつけた愛奈に、口を尖らせた。
「そうね。じゃあ、ママと一緒に手を洗いに行く人ー?」
愛奈は小さく手を上げる。すると、大志と理恩も大きく手を上げた。
それを見て、微笑んだ愛奈はエプロンを外す。
そして、我先にと走っていく大志と理恩の後を追った。
洗面所につくと、大志と理恩はすでに手を洗っている。
二人で並んで手を洗う姿は、まるで本当の兄妹のようだ。少し安心する。
そして愛奈も手を洗って、台所へと戻った。
「それじゃあ、今日はこれを作ります」
そう言って愛奈が取り出したものは、ひき肉、玉ねぎ、卵、パン粉、塩コショウ。
それを見て、大志と理恩は唸る。
「……オムレツ?」
理恩の言葉に、愛奈は手をクロスさせ、×印を作った。
そしてそれに続くように、大志は手を上げる。
「ハンバーグ!」
すると、愛奈は手で丸印を作った。
「今日はハンバーグを作ります」
愛奈は大志と理恩だけではなく、家族全員の晩御飯を作る役割なのである。
そのため、いつからか大志と理恩が手伝ってくれるようになったのだ。
「それでは、まず玉ねぎを切りまーす」
さすがに大志と理恩に包丁は持たせられない。愛奈は玉ねぎを洗って皮をむくと、包丁を手に取る。
すると、大志と理恩は一目散に逃げてしまった。
愛奈は大丈夫だが、大志と理恩に玉ねぎは、目が痛くなるものでしかないのである。
愛奈も最初は玉ねぎを切るたびに涙していた。それを思い出して、苦笑する。
大志と理恩がすぐに帰ってこれるように、玉ねぎをすばやく刻み、フライパンで熱し始めた。
「それ、やる!」
玉ねぎを炒め始めると、大志が台を持って走ってくる。そしてコンロの前に台を置き、それに上った。
「じゃあ、かきまぜてね」
ㅤフライ返しを大志に渡すが、大志は少し一生懸命になりすぎる。玉ねぎをかきまぜる手は止まらず、フライパンから玉ねぎが飛び出た。
ㅤしかしそれでも大志の手が止まらなかったので、愛奈は大志の手を握る。
「こぼれてるでしょ。大志の食べる分が少なくなるよ?」
「やだ!」
「なら、こぼさないようにかき混ぜて」
ㅤすると大志は静かになった。
ㅤ理恩も羨ましそうに見ていたので、大志と交代させる。理恩は大志と真逆で、優しすぎた。フライ返しが玉ねぎに届いていない。これでは、玉ねぎが焦げてしまう。
「ちゃんとまぜないと、焦げちゃうよ?」
ㅤ理恩はやっと玉ねぎをかきまぜ始めた。少し焦げてしまったが、気にならない程度だろう。愛奈は理恩に交代してもらい、フライ返しを握った。
ㅤそろそろ火が通り、あめ色になる。愛奈は皿に玉ねぎを移し、うちわで風を送った。
「やるー!ㅤやるぅ!」
ㅤ大志が飛び跳ねる。もちろんこれは大志にもできる仕事だ。しかし、快く任せられない。
「優しくね。ママと同じくらいにね」
ㅤ台を移動させ、そこに上った大志にうちわを持たせる。
ㅤ大志のことだ。また、乱暴にするかもしれない。そうなれば、ハンバーグから大量の玉ねぎが消失してしまう。
「わかった!」
ㅤ愛奈の予想は外れ、意外にも大志の風は弱かった。しかし、これでは玉ねぎの熱が飛ぶまで、時間がかかってしまう。
ㅤそこに理恩が、もうひとつ台を持ってきた。そして大志があおぐ横で、理恩は玉ねぎに息を吹きかける。
「ふぅうう!ㅤふうぅぅううっ!」
ㅤやがて大志は手が疲れたのか、うちわを理恩に渡した。すると今度は、理恩があおぎ、大志が吹きかける。
ㅤそのあとも、二人は交代しながら風を送った。そんな愛らしい姿に、愛奈の頬は緩んでしまう。
ㅤそして玉ねぎは冷え、ついに重要な部分にさしかかった。
ㅤ愛奈は、ひき肉と玉ねぎをボールに入れ、そこに卵とパン粉、塩コショウも加える。そして、もみまぜた。
「やりたい!ㅤやりたい!」
ㅤ大志と理恩は、愛奈の手からボールを取ろうとする。
「こらこら、そんな乱暴な子にはやらせてあげないよ」
すると大志と理恩は目を潤ませ、泣き出してしまいそうになった。
愛奈はこの目に弱い。甘やかしすぎるのはいけないけれど、厳しくして嫌われるのも、嫌である。
「じゃあ、一緒にね」
「できた!」
大志の手には、一握り程度の大きさの塊があった。それはハンバーグというより、肉団子である。
「おぉ、上手にできたね。じゃあ、もう一個作ってくれる?」
すると大志は、握った肉団子を皿に置いた。そして次の肉団子をつくるために、ボールに手を伸ばす。
理恩を見ると、理恩は星形をつくっていた。理恩には美的センスがあるのかもしれない。大志もそれを見たのか、星形を作ろうとする。けれど、うまくいかないようで、歪な星になってしまった。
「できないっ!」
「上手にできてるよ。ママなんて、丸を作るので精いっぱいだよ」
愛奈は自分の分のハンバーグを、大志に見せる。それは何の変哲もない楕円だった。
大志はそれを見て、鼻を高くする。
「パパの、つくる!」
大志が手を出すので、愛奈は勇気の分を大志に渡した。
すると大志は何か形を作ろうとするが、なかなかうまくいかない。
理恩は自分のを作って満足したのか、すでに手を洗っている。愛奈は幸助と理香の分を形にし、大志が完成するのを待った。
「できた!」
大志は愛奈に完成を見せる。それは、カタカナの『エ』のような、それでいて頭が少し尖がっていた。
「上手にできたね。じゃあ、これから焼くから、テレビでも見て待ってて」
「うんっ!」
大志はべたべたになった手をしっかりと洗い、リビングへいって床に寝そべる。
理恩はテレビの電源ボタンを押して、大志の横に座った。やはり理恩は、大志と比べて少し頭の出来がいいのかもしれない。
次の日、ハンバーグは残っていた。
それも勇気だけでなく、幸助、理香の分までも。三人とも、帰ってこなかったのである。
しかし、そんなことは初めてだ。勇気に何かがあったのかと、不安になってしまう。
眠っている大志と理恩を起こしていると、インターホンが鳴った。
大月なら、鳴らさずに入ってくるはずである。つまり、大月ではない。
「朝早くにすみませんね」
二人の男は青い服に身を包み、黒い帽子を被っていた。
「ど、どうしたんですか?」
「実は昨夜、こちらの旦那さんが勤める工場で、爆発事故が起こりまして」
男の言葉に、愛奈の心臓は飛び出そうになる。
勇気はまだ家に帰っていない。そして、工場での爆発。
「ゆ、勇気に何があったんですか?」
すると、二人の男は表情を暗くした。
それが何を意味するか、愛奈にはわかってしまう。
「昨夜、工場でお亡くなりになりました」
嘘だと言ってほしい。今まで幸せな家庭を築いてきた。大志も六歳になり、もうすぐ小学生になる。大志の成長を一番喜んでいたのは、勇気だ。それなのに、どうして勇気が死ななければならなかったのか。
愛奈は胸が苦しくなり、その場に崩れる。
「残念じゃが、仕方のないことじゃ」
大月は愛奈を宥めるように言うが、愛奈は自室の椅子に腰を掛け、動かない。
勇気が死んだなんて、信じられない。いつか、ひょっこりと姿を現すかもしれない。
「……今日のところは、わしが大志と理恩の面倒を見よう。じゃから、ゆっくり休むといい」
扉の向こうから、大志と理恩の声がする。けれど、顔を合わせることはできない。愛奈自身でさえ、自分がどんな顔をしているかわからないのだ。大志と理恩に、そんな顔は見せられない。
「勇気……」
愛奈と勇気は、同じ高校に通っていた。勇気は責任感の強い人で、他人のために全力になれる素敵な人だった。
そんな勇気に惚れ、愛奈は自分の思いを告げた。そのおかげで、今の愛奈がある。
何も悪いことなどしていない。それなのに、なぜこんなにもつらい思いをしなければならないのか。
もし代われるのなら、自分の代わりに勇気に生きてほしい。
「私、これからどうすればいいの……」
そして、また一夜が明けた。
またしても、昨日と同じ二人組がやってきている。
「何ですか……」
愛奈の目には、もう光が感じられない。
寝たのか寝てないのか、自分でもわからないほど衰弱しきっていた。
「昨夜は大きな爆発音が聞こえたかと思います」
昨夜。たしかに男は、そう言った。しかし、工場で爆発があったのは一昨日のはずである。
自分でも勇気の死を肯定してしまっていた。しかし、もう何も感じられない。
「聞こえてないです」
何も聞こえなかった。静かな自室にずっといたのだから、聞き逃すこともない。
すると、二人の男は奇妙なことをいう。
「おかしいですね。実は一昨日の工場に続いて、研究所で爆発が起こりました。それも、研究所が丸ごと消え去るくらいの」
研究所。それは理恩の両親が勤めている場所だ。
研究所までは1キロメートルほどである。そして、大きさもそこそこあったはずだ。それが消え去るほどの爆発があったのに、気づかないなんておかしい。
「話はそれだけじゃないんですよ。ここに度々訪れていた大月という老人がいましたね。そのかたが何者かに刺され、亡くなっているのが発見されました」
「え……」
「なんだか、妙だと思いませんか? 工場に研究所、そして大月さん。全員が、この家に関係してるんですよね」
そんなの、知らない。そもそも、昨日はずっと部屋に籠っていた。
愛奈は力が抜け、ぺたっと床に尻をつける。
「また、話を伺いに来ます」
二人組の男はそう言って、大上家を後にした。
すると、座り込む愛奈に、大志と理恩が駆け寄ってくる。
愛奈はできる限りの作り笑顔で、大志と理恩に顔を向けた。
「ママ、ごはんは?」
「りおんも、おなかすいた」
「ごめんね。すぐに作るから」
愛奈は立ち上がり、大志と理恩の背を押して、リビングに行く。そして大志と理恩を椅子に座らせると、台所から何かが匂ってきた。煙などではない。おいしそうな匂いである。
その匂いを辿ると、鍋にカレーが作られていた。大月が昨夜、大志と理恩に食べさせた残りだろう。
愛奈はそれを温め、朝食として出した。
大志と理恩は美味しそうに食べる。それだけで、愛奈の心は休まった。
冷蔵庫を確認すると、ほぼ食材がない。予定では昨日が、買い物に行く日だったのである。
買い物に行かなければ、大志と理恩の食べるものがない。だから、行かなければならない。
「今日は、大志と理恩の二人だけでお留守番できるかな?」
「うんっ、できる!」
大志が元気に返事する一方、理恩は小さく頷いた。
もう大月はいない。頼れる人が、もういない。
「じゃあ、ちょっと買い物に行ってくるね」
もしものことがないように、ガスの元栓を締め、窓の鍵もちゃんとかかっていることを確認し、最後に扉の鍵を外からかける。
そして愛奈は、隣町のスーパーまで急いだ。
だがこの日、大上愛奈は死んだ。
死因は、交通事故。家の近くにあるバス停に向かう途中で、ひき逃げにあったのである。
そして、目撃者はいなかった。




