1-17 『女神ラエフとの対面』
絶望と後悔が、大志を呑み込む。
光を失った大志は、目前に広がる闇の中を漂った。
ふわふわと宙を舞うような感覚に翻弄されながらも、大志は気持ちよさを感じている。
「じゅるるうぅぅ……っ」
水音混じりの声が聞こえる。
大志はその時、妙な感覚を覚えた。
何かが絡みつき、締め上げられるような……。そして何より、温かい。太陽の温かさとはまた違った温もりが、大志を包んでいる。
「んっ、うっ……じゅぼっ……んふぅっ!」
くすぐったさを感じ、上体を起こす。するとそこには、銀髪の女がいた。
顔が上下に動くたびに、腰まで伸びた髪が揺れる。そして揺れるたびに、快楽が押し寄せてきた。
「なっ……!」
漏れた大志の声に、女は顔を上げる。
「……へっへー、やっと起きたねー!」
白いネグリジェのような服を着た長い銀髪の女は、そう言った。
つんとしたツリ目に、整った輪郭。透き通る青い目に、わずかに荒い息遣い。うっすらと汗を滲ませた女は、無邪気な表情を見せている。
ヤバそうな相手であることは、すぐわかった。
それにしても、ここはどこなのか。さっきまで理恩と戦っていたはずなのに、ここには大志と女の二人だけしかいない。見渡しても、そこには何もない空間が広がっているだけである。
理恩に切られた腕を確認すると、左腕はしっかりとなくなっていた。けれど痛みはない。それに、腕がなくなっているというのに、違和感がない。
「ここはどこだ? それに、お前は誰だ?」
「せっかちだなー」
真っ黒い空間の中であるが、しっかりと女の姿は見えている。つまり、光はあるということだ。
しかし大志の横になっていたベッドのようなものも、黒くその姿を捉えられない。床も壁も黒く、あるのかすらわからない。
「早く教えろ」
「はいはい。私はラエフ。ちなみに……まだ未経験だよっ!」
ウィンクしたラエフは、横向きにしたピースの間から大志を見る。初対面の相手にする話でないことは明らかだ。
それに、ラエフという名は、どこか聞き覚えがある。しかしどこで聞いたのかは覚えていない。
「あー、わかってると思うけど、さっきまでいた世界と君の世界は違うものなんだよね。で、二つの世界の狭間にあるのが、ここ」
「俺は死んだのか?」
「いやいや、君が死なないように、ここへと引きずりこんだの!」
ラエフは汚れた口を、細い指で拭う。そして、その細い指を広げ、粘液を見せつけてきた。
行儀のなっていない娘である。胸はしっかり発育してるのに、頭は残念だ。
「理恩はどうなったんだ?」
「んー、どうだろうね。わかんない」
ラエフは左目を閉じると、大志の首に手を回して引き寄せた。
甘い吐息が大志の顔へと吹きかかる。
このままその唇に吸いつきそうになる欲を抑え、ラエフの右目を覗きこんだ。しかし、逆に覗きこまれているような、寒気に似た感覚が襲う。
「悪く思わないでね」
ラエフはそう言うと、大志と唇を重ねる。
すると綺麗なラエフの顔が見えなくなった。だが見えなくなっただけで、大志の身体には、ラエフの柔らかさがまだ押し当てられている。いなくなったわけではないのだ。
大志の口を無理やり押し広げて、何かが侵入してくる。
「んぅ、うっ、ん……」
ラエフの甘い声が聞こえると、大志の視界に光が入る。
そして映しだされたのは、酒場のような場所で楽しそうに笑っている理恩の姿だ。その隣には若い坊主頭の男が座っている。見たこともない男だ。げっそりと細く痩せた男は、理恩に満面の笑みを向けている。
「大志は、私が幸せにしてあげるからね」
理恩の声が聞こえてくる。痩せた男へ向けた、軽やかな声だ。
「っぱぁ……」
その時、ぷつんと理恩の姿が見えなくなる。そして気づいた時には、ラエフの顔が見えるようになっていた。
「どうだった?」
「どうだったも何も……」
「へっへー、素直じゃないなー。その胸のもやもやを言ってみなよー」
ラエフは大志の胸をつつく。大志は代わりに、ラエフの胸をつついた。ぽよぽよと柔らかく、指が埋まる。
驚きと興奮で、大志はそのたわわに実った果実を掴んだ。
「ふぉおおおおっ!」
「なんでそんなことで喜んでるの?」
「……普通、喜ぶだろ」
ラエフは、やれやれと息を吐き、大志の手を叩いた。
そして冷めた視線を大志へと向ける。
「いつまで、狂人でいるつもり? ……今の君は、本当の君じゃない。それがわからないほど、君は愚かじゃないよね?」
きっぱりとラエフは言いきる。
会ってからまだ数分しか一緒にいないのに、そんなラエフに何がわかるのか。
「戦艦島殺人事件」
ラエフの言葉に大志は動きを止めた。
それは大志たちを苦しめた惨劇につけられた名である。
大志のわずかな表情の変化に気づいたのか、ラエフは腰を下ろす。何もなかったはずの空間に、見えないけれど椅子があるようだ。
「なぜ、それを知ってるんだ……?」
「んー、じゃあ一つだけ質問に答えてあげるよ。それを踏まえた上で、何が聞きたい?」
一つだけという条件に、大志は口を閉じた。
あの事件については、知りたいことが複数ある。だが、ラエフがその中の何かを知っているという確証はないし、そのせいで質問のチャンスを失うわけにもいかない。
「あの事件に、お前が関わっているのか?」
ここは世界の狭間で、そこで暮らしているラエフが関与する隙はないはずだ。
「ううん、関係ないよ。私が知ってるのは、調べたからだよ」
「調べた……?」
「こらこら、もう答えてあげないよ」
ラエフの指が、大志の口を閉じさせる。
「だから、ここからは独り言ね」
大きな深呼吸をしたラエフは、その前で立ち惚ける大志に目を向けた。
ラエフが何を語るのかという期待と、ラエフから有益なことを聞き出せなかった悔しさでどうにかなってしまいそうだ。
ラエフは大志の口から指を離し、頬杖をつく。
「ある男の子がね、正義から悪へと堕ちる話。男の子は正しくあり、誰もがその男の子を慕っていた。そのせいで男の子は、さらに正しくあろうとしたの」
「つまらなそうな人生を送ってそうだな」
「……やっぱりやめた。これで独り言は終わり!」
ラエフは頬を膨らませて、そっぽを向いてしまう。
「何か気に障ったか? それなら謝る」
しかし聞こえていないのか、ラエフは微動だにしない。
なので顔の前で手を振ってみるが、それでもラエフに反応は見られなかった。
「どうした、絶頂で気でも失ったか?」
胸を掴もうとする手を、ラエフは鋭い目をして弾いた。
そして大志の鳩尾へと、強く握りしめた拳が捻りこまれる。
「おぅえっ! ……いきなりは、ちょっと……」
「やっぱり、私が間違ってたみたい。君の中に、あの人はいない」
「そ、それって、どういう……」
拳を離したラエフの表情には、怒り、憎悪、嫌悪、そして悲しみが互いに入り混じっていた。
大志にはラエフの気持ちがわからない。それに、『君の中に、あの人はいない』というのが妙に耳に残る。大志は今まで一度も、他人と身体を重ねたことはない。つまり、大志の中には大志しかいないのだ。
「わからないなら、その手で調べれば?」
「いや、でも……」
その手、というのはきっと大志の能力のことを言っているのだろう。なぜラエフが大志の能力を知っているのかという疑問はあるが、きっと聞いても答えてくれないはずだ。
ラエフに触れるのを躊躇う。知ってはいけないことのような気がするのだ。
過去にあった出来事に関係しているのかもしれない。しかし、ラエフは関係ないと言っている。なら、何が大志をこんなにも躊躇わせるのか。
「ほら、早く触ってよ!」
大志も男だ。そう言われて触らないのは、男が廃る。頬に手を滑らせると、ラエフはビクッと身体を反応させた。触れといったくせに、妙なやつである。
ラエフの中に眠る情報はとても膨大で、そこから何を引き出せばいいか一瞬では判断できない。
身体中のすべての神経を研ぎ澄ませ、情報収集に集中する。
「んぅ、おっ、おく、にぃィィ……あひぃぃっ……奥に、くるぅぅ!」
なんともわざとらしい喘ぎを無視し、情報を探る。
この能力を得てから様々なものに触れてきたが、ここまで膨大な情報は今までなかった。この情報だけで、図書館が一つ建つのではないかというくらいである。
「おっ、んっ、くぅ……うっ、あっ、あんっ……」
「集中できないから、黙ってくれ」
「だぁ、だってぇ……んはぁ、はっ、んぅぅ……広げられっ、るっ、んんぅぅぅッ!」
ラエフの情報の海には、様々なものがあった。
人と魔物の長き闘い、そして六人に刻まれた封魔の印、失われたディルドルーシー、人体実験、オーラル教……。数えればキリがないが、そのようなものを断片的に流し見ながら、目的の情報を探す。
「あ……ああ、あああっ!」
「もう少しボリューム下げてくれ」
もうちょっとなのだ。もう少しで、あの事件についての情報に辿りつく。何かが隠されている、あの事件に。
戦艦島……孤立した十二人……生存者四人……。けれど知りたいのは、そんなことではない。
「見つかりそうもないから、もういい。それに、ラエフが苦しそうだ」
「へー、諦めちゃうんだ。ちなみにさっきのは嘘だよっ!」
「そうか。苦しくなかったのなら、なによりだ」
そう答えると、ラエフはぱちぱちと手を叩いた。
しかし大志は何も褒められるようなことはしていない。ラエフが手を叩く意味が不明である。
「本当の君は、あの時に捕らえられているのかもね。あの事件から、君は随分と変わっちゃったもんね」
ラエフが腕を組むと、そのたわわな胸が腕に乗った。しかし、そんなものには目もくれず、大志は頭を抱える。
たしかに、あの事件から変わった。あの事件から、周りの視線が気になるようになった。周りの意見に合わせるようになった。意味もなく周りに笑顔を振りまくようになった。苦痛だったけど、それで許されるなら仕方ないと思ったからだ。
「でもそのままだと、いつか自分を失うよ。君はただでさえ、本当の自分を失いかけてる。今の状態が続けば、きっと君は戻れない」
ラエフは悲しそうに目を伏せた。
「戻れないって、どういうことだ?」
「元に戻ってほしくて、この世界へと送った。けど、君はさらに不安定になってしまった……。遅れたけど、謝るね。君を、いや君たちを転移させたのは私だよ」
しかし、はいそうですかと頷けるわけがない。
ラエフの頭をぽんぽんと撫でる。するとラエフは、ほんのりと頬を赤く染めた。
「ラエフ」
「はっ、はひぃ!」
今までのラエフとはまるで別人なように、緊張した声を上げるラエフ。
さっきまではただの変態かと思っていたが、こうして見てみると、ただの女の子だ。
「百歩譲って転移させたのがラエフということは認めるとして、何が目的だったんだ?」
「え、えっと、元に戻ってほしかったんだよ。あの世界にいたら、君はきっと壊れてしまうから」
それで異世界転移か。おかげで大志は深遠の闇に呑まれるところだった。いい迷惑である。
大志はそれをぐっと堪えた。そしてラエフは、そわそわと落ち着かない様子で大志の言葉を待っている。
「ラエフの望む俺って、どんなのだ?」
「それは……わからない。言葉にするのが、難しい」
それでは大志も応えようがない。
ラエフが何を求めているのかわからなければ、大志も変わりようがない。
「頭弱いと大変だな」
「そういうところ、君っぽくないよね!」
ラエフはむすっとジト目を向ける。
率直な意見を言ったまでなのに、ひどい反応だ。
「ま、とりあえず昔の俺に戻ればいいんだな」
「言うのは簡単だけど、もう忘れてるんだよね?」
「そうだ」
大志はきっぱりと言う。忘れてるものを憶えていると言っても、得がない。
するとラエフは、手で鼻と口を隠すようにして何かを考え始めた。
「鼻でもほじるのか?」
「美少女は、鼻なんてほじらないの!」
ラエフは全身を使って、怒りを表す。
「美少女なんてどこにいるんだ?」
「ここっ!」
ラエフはドンッと自らの胸を叩く。
しかし大志は首を曲げた。大志の目には、美少女なんて映ってないのである。
「もういいよっ! それより、君はこれからどうするの?」
「俺は理恩を助ける。ただ、それだけだ」
だが、それは簡単なことではない。腕を失っても届かない場所に、理恩はいる。大志一人では、届かないほど遠くに。
「そう……頑張ってね。邪気は吸い取ってあげたから、だから、きっと、もう大丈夫……。この世界には、君を責める人なんて、いないんだよ」
ラエフが大志の身体を軽く押すと、ゆっくりと大志の身体は意識ごと宙へと浮かぶ。
そして遠のいていく意識の中、ラエフの言葉が大志を貫いた。
「君に、女神の祝福を」
「――っはぁ! あれ……」
そこはアイスーンが捕らえられていた地下牢だった場所。そして大志を囲むように、海太、イズリ、レーメルの姿があった。ラエフの姿はもうなくなっている。
海太にラエフがどこに行ったか聞いても『誰だってんよ?』と返ってくる。
「ラエフ様の夢を見るとは、いいですね」
「イズリは知ってるのか?」
「知ってるも何も、我らが母である女神ラエフ様を知らないほうがおかしいですよ」
大志は寝起きの頭をフル回転させ、ラエフを思い出す。
ラエフは、イズリに母と呼ばれるほど年上には見えなかった。
「海太さんも、ラエフ様を知らないなんて罰当たりですよ」
「どんな人ってん?」
海太も知っている人物だろうか。
もしそうなら、イズリと海太に遠い繋がりがあるということである。
「人ではなく神です。我らを生み出した偉大なる神です」
大志は、ラエフが最後に言った言葉を思い出した。
「女神の、祝福を……」
ラエフはたしかにそう言っていた。
女神ラエフ。それは、この世界の民が崇めている神のことである。
つまり、大志は女神に助けられ、そして女神は大志に何かを求めているのだ。
「どうしました?」
「いや、何でもない」
大志は悲鳴をあげる身体を、無理やり立たせる。
動かすたびに痛みが全身を支配するが、それでもつらくはなかった。
「起き上がっちゃダメだってん!」
身体を支えようとする海太を制し、自力で立ち上がる。左腕とともに失ったバランスをどうにか補い、レーメルを見下ろした。
レーメルは服を着ている。足下にはどこから持ってきたのか服が散乱していた。
「レーメルにばかり、無理をさせてすまない」
「大志は、こんな私でも、必要としてくれる人はいると言ったみゃん。だから、私は必要としてくれる人のために力を使うみゃん」
「そうか。それなら、助けてくれてありがとうだな」
唯一の腕で、その頭を撫でる。
左腕の切断面はすでに塞がれていた。しかしここに治療系の能力者はいない。これがラエフの言っていた女神の祝福というやつだろう。
「イズリも無理をさせてすまなかった」
「いえ、私は大丈夫です」
「海太も、俺に力がないばかりに、危険な目にあわせたな」
「腕のないやつに言われても困るってんよ」
腕を失ったのは、大志の判断の結果だ。左腕を失ったのは遺憾だったが、海太やイズリ、レーメルの命と比べれば安いものである。
「俺には力がない。だから守られてばかりだ」
海太、イズリ、そしてレーメルへと目を向けた。その目に、揺るぎない信念を込めて。
「何を今さら言ってるってん?」
「でも、そんな俺でも守りたいやつがいるんだ。……だから、俺に力を貸してくれ!」
理恩。いつも大志の側にいて、大志を支えていた存在だ。それを失って、黙っていられる大志ではない。
すると、海太は噴き出した。
「そんなの、当たり前だってん」
「そうです。大志さんがそれを望むなら、私も全力で手伝いますよ」
「大志が必要とするなら、喜んで力を貸すみゃん」
大志には戦闘で使える能力がない。けれど、大志にはこんなにも頼りになる仲間がいる。
「次こそ、理恩を救ってみせる」