4-15 『じつはすごい』
「あぁ……寝たいぜぇ……」
バンガゲイルはあくびをしながら、哺乳瓶の温度を確かめる。
大志のオムツを取り替えるバンガゲイルのうしろでは、ルミセンが寝息をたてていた。
あれからバンガゲイルは寝ておらず、ルミセンの代わりに大志の世話をしている。
「……まあ、おめえには無理させたくねえがなぁ」
大志から見ても、バンガゲイルが無理をしているとわかった。
そこまでしてルミセンのためにする理由は、察することさえもできない。
「それにしても、神霊か……。今も見ていてくれればいいが……」
バンガゲイルの初恋相手は、大木に宿っていた神霊のようだ。
どうすれば会えるかはわからないけれど、いつか会えると信じて、バンガゲイルは今日も想い続ける。シロへ抱いた気持ちを、忘れないためにも。
「そろそろ日が昇ってくる頃だなぁ。今日も忙しくなりそうだぜぇ」
「ほらっ、もっと早く進むの!」
疲労の取れていない身体を、ルミセンの足が痛めつける。
バンガゲイルは、今日も人力車を引いていた。ルミセンのわがままに付きあい、今にも身体を壊しそうである。
しかしルミセンは、そんなことも気にせず、バンガゲイルに蹴りという名の鞭を打つ。
「眠気覚ましには、ちょうどいいぜぇ」
文句を言うことは簡単だ。しかし、一度言ってしまえば、すべて吐き出すまでは止まらないだろう。そうなれば、何を言ってしまうかわからない。
何も言わずに従っていれば、ルミセンは悲しまない。だからバンガゲイルは、ただ笑って、人力車を引くのだ。
「それにしても、あの宿は寝心地が悪かったの!」
「そうなのかぁ? それにしては、よく寝てたじゃねえか」
寝言で名前を呼ばれた時は驚いたけれど、さすがに一日中一緒にいれば、それも仕方ない。
バンガゲイルが呼んでしまったら蹴り起こされそうなので、それだけは気をつけたい。
「うるさいのっ! おかげで変な夢まで見たのっ!」
腹いせなのか、またも蹴ってくる。理不尽な攻撃を受け止めながらも、バンガゲイルは足を進めた。止まりでもしたら、さらに激しく蹴られそうだ。
「どんな夢だったんだぁ? トイレを我慢できない夢じゃねえだろうなぁ?」
すると、今までよりもひときわ強い蹴りを食らわされ、ルミセンは口を閉じた。
振り返ってみると、そこには不機嫌そうに睨んでくるルミセンがいる。さらに聞き出そうとしたら、蹴りだけでは済みそうにない。
「ま、まあ、どうでもいいけどよぉ……」
***
「もっと幸せな世界になればなぁ」
バンガゲイルは、幼いながらにして、そんなことを思っていた。
親の名すら知らずに暮らしていたバンガゲイルは、貧困そのものである。手伝いをしていた露店のあまりものを食べて、飢えを凌ぐ毎日。生きる楽しみも見いだせず、緊縛に連れていかれる人を見送る毎日。
「なあ……助けてくれよ」
公園に立っている一本の大木を、見上げていた。
魔物との戦いが有名すぎて陰に隠れてしまっているけれど、この大木にも立派な伝説が残されている。
およそ2000年前、この地に危険が訪れて人々が混乱する中、一人の名もなき英雄が現れた。その英雄は危険を退けると、何も語らずに姿を消した。そして代わりに、この場所に木が立っていたのだ。人々は、この木が英雄の本当の姿だったのだと、崇め、守り続けている。
「英雄なら、困ってる人を助けてくれよ!」
幹を殴ると、手が痛かった。
今のバンガゲイルでは、この町の現状を変えることはできない。
バンガゲイルは土下座をして、地面に額をこすりつける。この町が変わるのなら、プライドなんて捨てたって構わない。もともとなかったようなものだ。捨てたところで、問題はない。
「――そんなに頭をさげられたら、こっちが困るの」
突然聞こえた声に顔をあげると、そこには白い女がいた。
白い髪に、白い肌。バンガゲイルよりもいくらか身長の高い女は、土下座をしていたバンガゲイルへと手を差し伸べる。
バンガゲイルは促されるままに、その手を握った。
「あっ、あんたは……」
「わからないの?」
いたずらっぽく笑った女に腕をひかれ、バンガゲイルは抱きしめられる。初めて感じた胸の感触に戸惑い、逃げようとするけれど、逃がしてはくれなかった。
バンガゲイルを抱きしめたまま、女は大きく深呼吸をする。
「……ずいぶんと、ここの景色も変わったの」
そしてやっと解放されたバンガゲイルは、尻もちをついた。
「だっ、誰なんだよ!」
しかし女から返答はなく、背を向けられた。
そして腰に手をあて、大木を見上げる。その姿は、呆気にとられているようだった。
「……私は、この木。呼びかたは、好きに決めればいいの」
「ふざけてるのか? それとも、頭がおかしいのか?」
すると女は、バンガゲイルに目も向けず、大木から離れていった。
その姿を追うけれど、見向きもされない。もしかしたら怒らせてしまったのではと、罪悪感に苛まれる。
「わ、悪かった……じゃあ、シロ! シロって名前は、どうだ?」
「どうして、シロなの?」
それでも振り返ってはくれなかった。
ただ、返事はもらえた。それが嬉しくて、飛び跳ねそうになる。
「髪も肌も白いだろ? だから、シロ!」
「……いい名なの。じゃあ、今日から私はシロ。よろしくね、バンガゲイル」
教えてもいない名を呼ばれ、心臓が飛び出そうになった。
そんなバンガゲイルへと妖艶な笑みを向けたシロは、頭を撫でる。
「ずっと見てきたの。それくらい、わかるの」
「ずっと……?」
「私は木。何年も前から、ここにいたの」
何もかもが信じられない。
自分を木だと言うけれど、大木はそこに悠々と立っている。
「ところで、どうして私を呼んだの? 何か用なの?」
そこで、本題を思い出した。
まだ完全に信用したわけではないけれど、賭けてみるしかない。かつてこの町を救ったというのなら、きっと今でも変わらないはずだ。
「この町を、救ってほしい。ここの人々は、生きるか死ぬかの瀬戸際で生きてるんだ。シロは、かつてこの町を救った英雄なんだろ? だったら、また救ってくれ。いや、救ってください。お願いします!」
するとシロは頬をかいて、視線を逸らした。
「んー、あの時は特殊だったっていうか、なんていうか……。それに、すごい能力があるわけでもないし、はっきり言って、期待には添えられないの」
「そんな! どうして、やる前から無理なんだよ!」
強く握りしめた拳を、シロの手が包む。
その表情は柔らかく、ただまっすぐにバンガゲイルを見ていた。至近距離で見つめられ、バンガゲイルは火がついたように熱くなる。
「無理なんて、言ってないの。期待には添えられないけど、できるだけ頑張ってみるの」
「あれは、無理なの」
仕事をさせてみたり、町の様子を教えると、シロは断言した。
戦闘ギルドは刀を持っているため、値段を安くしろと要求してくる。斬られるのは嫌なので、誰もその要求を拒むことができない。そのため、戦闘ギルド以外は、切羽詰まった生活を余儀なくされるのだ。
バンガゲイルが手伝いをしている露店は、良い人たちが多く来るため、他の人が値切った分、余計に払ってくれる人がいる。だから、バンガゲイルを置いてくれているのだ。
「どうにかできねえのか?」
「貧しいのなら、戦闘ギルドに入ればいいの。それで、解決なの」
「入れるもんなら、入ってるさ。戦闘ギルドは、強い能力を持ってなければ入れねえんだ。だから、戦闘ギルドに入れなかったら、こうやって細々と暮らすしかねえんだ」
あまりもののパンを二つにちぎると、片方をシロへと渡す。
そして手元に残ったパンを四つに分けると、駆け寄ってきた四人に一つずつ渡した。
「自分の分はどうするの?」
「一日ぐらい何も食べなくても大丈夫だ」
するとシロは自分のパンを二つに分けて、片方をバンガゲイルに渡す。
「ちゃんと食べるの。じゃないと、動けなくなるの!」
シロに圧倒されたバンガゲイルは、仕方なくパンを食べた。
働いて、食べて、寝る。それがバンガゲイルの、ひいては戦闘ギルドにも生産ギルドにも入れない者たちの、日常なのだ。
「新しい仕事をしてみたらどうなの?」
朝になったら、シロが急にそんなことを言い出した。
今の手伝いでも十分食べていけるというのに、わざわざ仕事を変える必要がない。そもそも引き受けてくれる場所が、他にないだろう。
「他に店がない。わかるだろ?」
「違う店に、ってことじゃないの。戦闘でも、生産でもない仕事をしたら、いいんじゃないの?」
しかしバンガゲイルには、シロが何を言おうとしているのか伝わってこない。
魔物や争いごとは戦闘ギルドに任せ、食べ物や日用道具は生産ギルドに任せておけばいい。その他に何ができるというのだ。
「物を運ぶの。町の内から外。外から内。町の中だけでの運びものだってあるはずなの。まずはためしに、近所の家を回って仕事を探すの」
シロはそういうものの、物を運ぶくらい、誰にだってできる。わざわざ金を払ってまで、何かを運んでもらおうとする人はいないはずだ。
しかしそんな考えも外れ、一軒目から仕事を手に入れてしまった。
病気にかかり、動けずにいた人に、食材などの買い物を頼まれたのだ。その報酬として、お釣りはバンガゲイルにあげるという。
バンガゲイルは自前の能力で即座に買い物を済ませると、次へ次へと仕事をこなしていった。
「意外に、困ってる人っているんだな……」
生産ギルドと違って運ぶだけなので、材料費などがかからない。一つ一つの報酬は少ないけれど、それでも一日にいくつもこなせば、それなりの額にはなる。
そして、便利な運び屋がいるという噂はたちまち広まり、バンガゲイルのやっていることがギルドとして認められたのだ。
バンガゲイルは、物流ギルドの生みの親であり、一人でギルドを作り上げたという偉業も達成したのである。
「これで、日の当たらなかったやつらにも、活躍する場ができたんだな」
貧しい暮らしをしていた仲間をギルドに引き入れ、大々的にギルドとしての活動を始めた。
最初は町の中での仕事ばかりだったけれど、外への仕事がきたのはすぐである。そうなるとギルドへの報酬は桁が増え、かつてほど貧しくはなくなった。
「これも、シロのおかげだ」
ギルド館の部屋で、シロの隣に座る。
「私はきっかけを与えただけなの。バンガゲイルの能力がなければ、成しえなかったの」
謙遜するシロだが、そのきっかけがなければ何も始まらなかった。
ありがたく思っているのも事実だが、それよりも、シロと生活する中でバンガゲイルの心に変化があったのも事実である。
「……シロは、いつまでここにいられるんだ?」
すると、シロは目を閉じて何かを考え始めた。
シロについては、わからないことばかりである。シロの伝説を調べても、シロが何者かの情報は一切書かれていないのだ。
「不思議なの。……解除されたわけでもないだろうし」
「ならっ! こ、これからも一緒に暮らさないか? シロには不自由させないからさ」
シロの手に自分の手を重ねると、身体が熱くなる。しかし、ここで目を背けていては、想いを伝えるなんて夢のまた夢だ。
まっすぐ、真剣に見つめると、シロは寂しそうに首を横に振る。
「一緒に暮らすのはいい。でも、特別な感情を持つのはダメ。私は木なの……」
触れれば温かく、柔らかく、愛しい。それなのに、シロは木だというのだ。木だから、シロを好きになってはいけないというのだ。
シロは身体にあっていない小さなスプーンで、夕飯のスープをすくう。バンガゲイルが幼い時に使っていたものを、シロに使わせているのだ。シロとあった頃は買う金もなく、今でもそれを使っている。
かつては一日一食がやっとだったのに、今では一日三食が当たり前だ。それほど裕福になったというのに、それでもシロを繋ぎとめることができない。
「そのスプーンも買い替えてさ……。ただ、隣にいてほしいんだ。シロがいなければ、今の俺はいない。シロがいなくなったら、空っぽになる……」
「そんなことないの。まだ子どもだからわからないだろうけど、生きてればいろんな人に会う。その中で喜んだり、悲しんだりして、好きな人ができるの。きっとバンガゲイルは、いくつも恋をする。カッコいいから、それは保証するの。……だから、私のことは忘れて、幸せになって」
何を言っても、シロには届かない。
しかし、そんな簡単に諦められるほど、薄っぺらい感情ではないのだ。シロが木というのは、きっとどうやっても覆せない事実なのだろう。
バンガゲイルは俯き、必死に涙をこらえる。
「一緒にいてほしい。……それさえも、ダメなのか。もう、どうしようもないほどに……俺はシロのことが――」
俯いた顔をあげた。
しかしその時にはすでに、シロはいなくなっている。飲みかけのスープと、シロが使っていたスプーンだけが、そこに残されていた。
「し……ろ……」
結局、何も言えなかった。
肝心な想いを、何一つ伝えられずに、シロはいなくなってしまったのである。
そしてそれから一度も、シロを目にすることはなかった。
***
「そんなことが、あったの……。というより、じつはすごい人だったことに驚きなの」
話し終えると、バンガゲイルはその場に座って眠ってしまった。
一晩中大志の世話を押しつけていたことを怒るかと思っていたけれど、やはり怒ってこない。蹴ってみても、怒ることはなかった。
「……ルミセン……」
呼ばれて確認するけれど、ぐっすりと眠っている。
バンガゲイルの寝顔を見て、ルミセンは力が抜けた。立っていても疲れるので、バンガゲイルの背に寄りかかって座る。
「寝言……いったい、どんな夢を見ているの……」
ルミセンは暗くなった空を見上げ、大志を撫でた。
想いを伝えられなかったバンガゲイルより、想いを伝えられた自分は幸せなんじゃないかと思いながら。