1-1 『呪いの香りに包まれて』
「さあ、俺に力を寄こせ!」
大上大志は叫んでいた。
自分に隠された力は、いつか目覚める。
空は青く晴れ渡り、小鳥が朝を知らせていた。
「もうすぐ俺は力を手に入れる。そうすれば――」
「どうなるのかしら?」
背後から聞こえてきた声に驚き、飛び跳ねた。
ここは深遠の闇に囲まれ、外との繋がりは唯一の窓だけであるはず。
「なぜ入ってこれた?」
「扉から普通に入ったわよ。それにしても何なの、この暗幕は?」
長い髪を片側でまとめて結んだ少女が、そこにいた。
少女の名は中田詩真。かけがえのない友人の一人だ。
詩真は壁に貼られた暗幕をひらひらと揺らす。
「やめろっ! それは深遠の闇だ。少しでも気を緩めれば、飲み込まれるぞ!」
「深遠の……あー、なるほど。そういうことだったのね」
詩真は暗幕から手を離し、大志に歩み寄る。
深遠の闇は絶対に触れてはいけないものだ。触れれば魂を抜き取られる。運が良かったとしても、人格を吸いとられ、その者は植物人間となってしまうのだ。
大志は封魔の印が刻まれていたため、深遠の闇と相殺し、なんとか一命をとりとめた。だが、もう封魔の印は消えてしまっている。もう一度触れれば、どうなるかは明白だ。
「ほら、今日こそ学校に行くわよ」
詩真は大志の手を引き、深遠の闇の向こう側にある扉へと連れていこうとする。しかし、そんな命を投げ出すようなことは、まっぴらごめんだ。
詩真の手を払い、尻餅をつく。
「これ以上は、さすがに進級に響くわよ」
「そんな呑気なこと言ってられる場合かよ!深遠の闇に触れたら、死ぬかもしれないんだぞ!」
せっかくの命だ。簡単に失うつもりはない。
詩真は大志の横でしゃがみ、大志の手を取った。
「そういう設定なんでしょ?」
詩真は深遠の闇の恐怖をまったくわかっていない。深遠の闇は、呪いの中でも最強クラスのものだ。力を持たない大志では、なす術もない。
尻餅をついたまま動かないでいると、詩真はため息をつく。
「はぁ……私は大志の味方よ。だから、一人で苦しむのだけはやめてよね」
詩真はサイドテールを揺らし、深遠の闇をめくる。その隙間から出れるかもしれないが、もしも触れてしまったらと思うと、なかなか勇気が出ない。
そして詩真が出ていくのを、ただ見守った。
「さて、ここからどうやって出るか」
窓の外には、レンガでできた町並みが広がっていた。しかしその町を歩く者たちの腰には、日本刀らしきものが提げられている。そう、ここは日本……だったはずだ。
大志には、この窓からの景色しか外を確認できない。
昨夜の大志は、自分の部屋で寝たはずだ。しかし目覚めると、部屋は暗幕で覆われており、そして胸には六芒星と小さな文字が書かれていた。それが封魔の印であると瞬時に理解できたのは、今でも不思議である。好奇心から暗幕に触れ、封魔の印と引き換えに、深遠の闇についても理解できた。
窓から外を見ると、どうやらそこは5階のようだ。足場は見つからず、出ればそのまま地面へと真っ逆さまだろう。それは深遠の闇に触れるよりも愚かなことだ。
「……力が目覚めるのを待つか」
まだ力が目覚めていない。だが、大志にはわかる。自分には、隠された力があるということが。
それがどんな力で、いつ目覚めるかはわからない。だが、もうじきのはずだ。もうじき力が目覚め、この部屋から解放される。
「よぉ、相変わらず引きこもってるってんな!」
「相変わらず変な語尾だな」
窓の外に突然現れた男は、髪が重力に逆らっていた。そして白い歯を見せて笑っている。
もう一度確認するが、ここは5階だ。しかし窓の外に男の姿は確かにある。
それが、草露海太の能力なのだ。その力は空を飛ぶとかではなく、光に自分の姿を投影させる。また、光を通して物を見ることができるのだ。今も大志の姿が見えているのは、太陽の光を通して大志の部屋の中を見ているからである。
「詩真ちんが出てったみたいだってんな」
「ああ。詩真はまだ現状を受け止めきれてないみたいだ。その力で見張りを頼む」
「はぁ? 嫌に決まってるってんよ。この力で満喫してるってん」
ついでに様子を見るくらい、してくれてもいいだろうに。
今後、海太に何かを頼まれても絶対に断ろうと心に決める。だが今の大志には何もないので、大きな声では言えない。
「もしも詩真に何かあったら、どうするんだ?」
「それなら大丈夫だってん。詩真ちんは無事だってんよ」
海太は、にへぁと鼻の下を伸ばしながら言う。
ただでさえバカそうな顔をしているのに、さらに磨きがかかった。
「見てるなら、そう言えよ!」
「いやぁ、さすがにローアングルから覗き続けてると、罪悪感があるってんよ」
大志は呆れ半分、感心が半分。海太の力は自分が外に行かずとも、光さえあれば情報が手に入る。これほどまでに万能なのか。
しかし詩真の行こうとしている学校は、ない。海太から聞いただけだが、ここから少し離れた場所に大通りがあり、そこは人で溢れかえっているという。そしてその道の先に大きな建物があり、詩真はそこを目指しているらしい。町の外観は西洋風に変わっており、日本らしさの欠片もない。あるとすれば、町行く人の腰にある日本刀のようなものだけだ。髪は黒という者はおらず、赤や青などの色が多く目立つ。
「詩真を放っておくと危険だ。今すぐ説得してくれ」
「何が危険なんだってん?」
「詩真は深遠の闇に触れた。なのに、何もなかったんだ。きっと詩真の身に何かが起こってる」
大志の説得も虚しく、海太はふーんと呟くだけだった。
それもそのはず。海太は深遠の闇を知らない。この恐怖がわからないのだ。
ただでさえわけのわからない環境に投げ出されて混乱しているというのに、海太はあいかわらずのバカっぷりである。
「それはたいへんだね」
その声と共に、部屋の中に一筋の歪みが生じる。
そしてその歪みはくぱぁと開き、中から一人の少女が顔を覗かせた。
千頭理恩。髪は結ぶ必要のないほどの短さで、その顔にはわずかに笑みがある。
「それが理恩の力か。空間移動……それも、能力者のみか」
開いた穴に指を入れ、中をかき回す。ただ指を入れただけで、その力の本質を理解してしまったのだ。
「詩真は私が回収するね。それに、話したいこともあるし」
理恩は穴の中でひっそりと呟いた。
穴の中は暗く、もう少し奥に入ってしまえば、きっと顔すら見えなくなるだろう。
指を入れると、中は温かく、締めつけられるような感覚があった。きっと能力者ではない大志を追い出そうとしているのだ。このまま手を入れるとどうなるか気にはなったが、そんなことに時間を費やしているほど余裕はない。
「この状況について、何か知ってるのか?」
「それは無事に詩真を連れ帰ってから話すよ」
詩真と理恩は大の仲良しだ。そのため、理恩が一声かければ、詩真はホイホイついてきてしまう。
「行く決心がついたのかしら?」
部屋に入ってきた詩真の、開口一番。
あいかわらず詩真は大志を学校へと連れて行きたいらしい。しかし外の町を見て、いまだに学校があると思っていられるのは、周りが見えていない証拠だ。
「だから、それどころじゃないんだ」
詩真はまたしても深遠の闇に触れるが、何も起こらない。つい触れて確かめたくなるが、そうしてしまったら最期だ。
「詩真ちんは、ここが現実世界に見えるってんか?」
「ここが現実じゃなかったら、何なのよ。まさか夢の中だとでも? これが夢で、目が覚めたら大志が学校に行ってくれるようになるのかしら?」
その言いようでは、まるで大志が引きこもりだと言っているようだ。大志は引きこもりではなく、行かなくていいと判断したから行っていないだけである。
しかし、今ので詩真がしっかりとこの世界を現実と認識していると理解できた。
手招きし、窓の外を見させる。そこには、宙に浮かんでいる海太の姿があった。
「ほら、海太が浮かんでいる。おかしいだろ?」
「ほんとね……えっ……ええぇェエッ!? なんで浮いてるのよ?!」
身体を乗り出し、海太に触れようとする。
しかしここは5階で、しかも海太はただの映像だ。身を乗り出す詩真の身体に手を回し、部屋へと引き戻す。その時、詩真の豊満な胸に触れたが、それよりも気になることがあった。
「やっとわかったか。これが俺たちの現状なんだ」
詩真は何かを言いたそうな顔をするが、言葉が見つからないようだ。
しかし落ち着く暇すら与えない。理恩は、集めた情報をぺらぺらと語り始めた。わからないことだらけの大志にとっては、ありがたい限りである。
「まず、ここは私たちの住んでいた所とは違う場所。人の形は同じだけど、髪の色がおかしいよね。まさか全員が染めてるってこともないだろうし、きっとここではそれが普通なのかも。それと、見てのとおり外観が違う。町を歩く人たちの腰には日本刀があった」
理恩が嘘をつくはずがない。つまり、それが事実ということだ。
しかし、それが事実とわかったところで、新たに疑問が生まれる。
「ここは日本じゃないってことか?」
「……ここは別世界、っていうとしっくりくるね。ここの人たちは日本語を話し、ラエフという聞いたこともない神を崇めてる。さらにはギルドがあり、この町を囲む森に魔物が住みついてるみたい」
ギルドに魔物。本当に今までの世界とは別世界だ。日本語を話しているというのが唯一の救いである。言葉を勉強しなければ話せないなんて、さすがに嫌だからだ。
「それと、この力だよ。これが一番現実離れしてる」
理恩は空間の穴を開き、そこを出入りする。
大志も腕を入れてみるが、弾き出されてしまった。まるで反発しあう磁石のように。
「そうだってんな。いったいなんだってん?」
理恩は穴から出て、腕を組む。しかし、貧相な胸が強調されることはなかった。
「ここの人たちには、一つもしくは二つの特殊な力があるみたい」
特殊な力……つまり理恩の空間移動や、海太の投影のことだ。それが一つではなく、二つある者までいるというのだから、驚きである。
しかしそうなると、なぜ日本刀を持っているのかが疑問ではあるが、きっと何かしらに使っているのだろう。
「つまり、何をすればいいのかしら?」
「とりあえず、大志を部屋から出さないとってんな」
「ほら、言われてるわよ。こんな状況になったんだから、いいかげん引きこもりはやめなさいよ」
深遠の闇が邪魔をするせいで、窓から出るしかない。海太の力が飛行だったのなら可能性はあったが、窓の外にいる海太はただの映像だ。
窓の外を見回しても、空を飛んでいる人は見当たらない。助けを呼ぶこともできないのだ。
「ほら、さっさと出るわよ」
そうしてる間に、詩真は深遠の闇をめくって待っていた。
やはり詩真は深遠の闇に触れても何ともない。何か仕掛けがあるのか、それとも……
詩真の身体に触れる。そこには実体があり、柔らかさもあった。紛れもなく、詩真という人間はそこにいる。海太のような、映像ではない。
「急にどうしたのかしら?」
「呪いが詩真に効かない原因がわからないんだ」
すると、情報が流れてくる。詩真が持つ能力についての情報だ。それは、窓から落ちそうになった詩真を引き戻したときにも感じた異変である。
呪いを打ち消す力。触れたものの呪いを一時的に無くす力だ。その力により、深遠の闇は一時的に効力を失っている。
直感的にわかってしまった。自分の能力が、触ったものについての情報を得るというものだということに。
「……なるほどな」
つまり、大志が気づかなかっただけで、最初から能力はあったのだ。封魔の印に触れた時も、深遠の闇に触れた時も、理恩の穴に指を入れた時も、この能力のおかげで情報を得られていたのである。
「私の胸の感触はどうかしら?」
鼻息を荒げ、大志の手に自らの手を重ねる。そしてさらに深く押し当てるのだ。
「それはどうでもいい」
詩真の手を振りほどき、その手を顎にあてる。
一時的に呪いが消えているのなら、触れてしまっても大丈夫なはずだ。だが、部屋の出入りのたびに詩真を待たなければいけないのかと思うと、少し憂鬱になる。
「その暗幕、剥がせないか?」
「たぶん剥がせるわよ。でもいいの?」
いいかと聞かれても、それを張ったのは大志ではない。
誰が何のために張ったのかは知らないが、生活する上で邪魔になるので撤去させてもらう。
「いいから、剥がしてくれ」
詩真は大志の指示通り、暗幕を剥がし始めた。
深遠の闇はこの暗幕にかけられた呪いだ。深遠の闇は黒いものにしかかけられない呪いだということも、理解している。
そして暗幕が剥がれ、やっと壁が見えるようになった。
その壁には見知らぬパネルが取りつけられている。そんなパネルをつけた覚えはない。
「なんだ、そのパネルは」
剥がした暗幕を一箇所にまとめてもらい、パネルを調べる。
パネルには人物、能力、道具の三つの項目があった。試しに人物の項目を押してみると、リストのようなものがずらりと表示される。しかし上から順に『中田詩真』『千頭理恩』と書かれているだけで、それより下は横棒が引かれていた。
次は能力の項目を押す。すると『イズリの能力』『海太の能力』『理恩の能力』『詩真の能力』と書かれていた。
どうやらこのパネルは、大志の集めた情報が収集されているようだ。
人物の項目に海太の名がないのは、実体に触れていないからである。
「イズリ……それが深遠の闇の能力者か」
イズリ。その人物を探すことが、一番最初にやるべきことのようだ。