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ハオサーク  作者: 桜前線
24/25

迷宮都市コーマ 8

 炎が掘立小屋を呑み込んでいく。熱を孕んだ風がゴミと人間が焼けるなんとも嫌な匂いを含んで肌を煽り、髪を巻き上げる。辺りは瓦礫の山となり、もうゴミ山と見分けがつかなかった。


 忽然と現れた三人の内、メトロファネスとミルティアディスはまず状況を確認する。

 廃材に突き刺された女の身体、下半身がなくなった男の身体、引き千切られた腕に瓦礫の山から突き出す足。辺りに散乱する死体に勢いを増す炎。遠目に銀灰色の光を放つ城壁が見える。ここは城壁の中だ。城壁の中で死体が散らばり炎が燃え、瓦礫が煙を上げている。


 ――彼らはこのことを言っていたのか。では、魔物は何処に?


 一方、那智はただ一点を見つめていた。

 炎が舐める瓦礫の山の上、そこに押し付けられる少年とその首に手をかけ締め上げる少女の姿を。

 素早く辺りを注視したメトロファネスとミルティアディスがなにか言うより早く、反応するより早く、那智は再び転移した。

 現れた先は少年と少女の間近だ。

 殺されかかっている者と殺そうとしている者。彼らが手を伸ばせば届くほどの距離に、気付けば那智は佇んでいた。

 真円に見開かれたヘーゼルの瞳がぐるりと回って那智を見つめる。


「ナチどの!?」

「ッあれは……!」


 ミルティアディスが叫び、メトロファネスが血塗れの少女を取り巻く奇妙な魔力のうねりに瞠目する。

 那智は少女の顔を覗き込んだ。屈んだ拍子に漆黒の髪がさらさらと零れて血がこびり付いた少女の頬をくすぐる。血生臭い息が那智の顔に吹きかかる。

 那智に走り寄ろうとしたメトロファネスとミルティアディスはぎょろりと回ったヘーゼルの瞳に射すくめられて動きを止めた。


「くッ……!」


 ミルティアディスは呻いた。

 少女の様子は異様だった。

 血糊で水浴びをしたような恰好、ずたずたに引き裂かれた服、この状況が一切見えていないような楽しそうな笑み。

 そしてなにより辺りに充満する奇妙な寒さ。氷水に浸されてじわじわと温度を奪われていくような感覚。


 ――魔物の合いの子特有の現象だ。


 あの少女は半血の魔物だ。

 厄介だ、とミルティアディスは歯を噛み締めた。ミルティアディスにとってこの半血の魔物は脅威でもなんでもない。魔力の集束は甘く、その制御は荒い。造作もなく屠ることが出来るだろう。だが、半血の魔物である少女と那智の距離は近過ぎる。自分とメトロファネスならば那智が害されるより速く少女の命を奪えるかもしれない。だが、そうではないかもしれない。賭けに出るにはチップが悪すぎる。ここで、自分達が護衛しているこの場所でみすみす那智を失う訳にはいかない。


 半血の魔物と吐息が触れあうほど近くに那智はいるのだ。少女――半血の魔物が少し気紛れを起こせばすぐにでも首を切り落とせるほど近くに。

 転移してくれれば、とミルティアディスは思う。那智は転移の能力を――それも相当高い水準の能力を――所持していることは、今こうして四の壁に運ばれたことでよくわかった。前触れもなく発動されるあの転移能力ならば、半血の魔物に感付かせることもなく逃れることが出来るだろう。


 しかし貴種達の思いとは裏腹に那智は動こうとしない。

 那智は炎が舐める瓦礫の上に座り込んでヘーゼルの瞳をまじまじと覗き込んでいた。

 下を見て、半血の魔物が首を絞めている少年を見つめる。手を伸ばし、無防備に半血の魔物の手に触れた。


「ナチどの、すぐにその場から離れてください……!」

「もう少しお待ちください」


 切迫したミルティアディスの警告に落ち着き払った口調で返し、那智は血に濡れた半血の魔物の手を少年の首から解かせる。那智の指先と半血の魔物の指先が絡み合って、那智の白い手袋が赤黒い血に染まっていく。

 半血の魔物は見開いた眼で那智を凝視したまま動かない。

 那智の手に包まれて、半血の魔物の手が少年の首からゆっくりと外された。


 支えのなくなった頭が音を立てて瓦礫に落ち、炎に炙られて髪を焦がす。けれどそれに少年は気付いていないようだった。忍び寄る炎の熱さにもなんの反応も見せない。細かく刻まれる身体の震えと浅い息がなければ死体だと勘違いした筈だ。首を締め上げる手から解放されたことにも気付いていないだろう。


 那智は少年を一瞥した。次の瞬間、瓦礫の上から少年の姿が消え去り、メトロファネスとミルティアディスの脇に現れる。


「ナチどの……!」


 転移を促すメトロファネスの声には答えず、那智はヘーゼルの瞳を覗き込んだ。漆黒の瞳が炎を映し出して煌々と輝く。朱金の華が黒曜石の中で瞬いていた。


 不意に半血の魔物が軋むような声で呻いた。

 血に塗れた手で赤黒く湿った頭を抱え、人の脳内をかき混ぜるような不安定な声を上げる。

 ぞろりと魔力が蠢いて、周囲の瓦礫が破裂するような音を立てて罅割れる。空気が震えて、炎が噴き上がった。


「ナチどの!」


 自分を呼ぶミルティアディスの声にも、目前で歯を剥き出しにする半血の魔物にも、肌のすぐ傍で轟々と燃え盛る炎も気に留めず、那智は周囲を見回した。

 弾け飛んだように散らばった死体。

 服に包まれた女の頭。

 瓦礫の下で奇妙な恰好で寝転んだ女の死体。

 炎が舐める瓦礫の中、そこかしこから聞こえてくる吐息の音。途切れ途切れのものもあれば、ひどく浅い息を忙しなく繰り返しているものもある。


「……」


 那智は掴んでいた半血の魔物の手を放した。

 半血の魔物は頭を掻きむしり、がちがちと歯を打ち鳴らす。なにかを引き裂くようにその手が空を掻き、そして不意に瓦礫の山を蹴立てて何処かへと走り出した。


 メトロファネスとミルティアディスは即座に目を交わし、メトロファネスは半血の魔物へ、ミルティアディスは那智へと向かう。

 その目前に唐突に転移してくる那智。同時に那智から光が噴き上がり、少年の周囲に、瓦礫の山のあちらこちらに同じ色合いの光が現れる。

 瑞々しい新緑のような、生命力に溢れた緑の光だ。

 瓦礫が跳ね上げられ崩れ落ち、その下から影から光に包まれた幾人もの人影が現れる。どの者も血に塗れ、苦痛に満ちた息を繰り返している。

 赤々とした炎の照り返しの中に、襤褸切れのようになった人間達が幾人も、幾十人も光に包まれて浮かんでいた。


 そして新緑の光が一際鮮やかさを増した次の瞬間、負傷者達は完全に無傷となっていた。まるで時間を巻き戻したように、なかったことにしたかのように、一人残らず健常な身体となっていた。


 ――治癒の能力。


 予想を超えたその光景に一瞬貴種達の思考が奪われ、黒い風のように疾走する半血の魔物が瓦礫に紛れて視界から消える。

 一瞬の驚愕から即座に立ち直りメトロファネスは地面を蹴った。炎の熱が遠ざかり、瓦礫の山を下に見下ろす。上空から見下ろしたメトロファネスは瓦礫の間を縫うようにして走る黒い影に向かって魔術を放った。


 メトロファネスの周囲に渦巻いた水流が百を超える極細の糸となって豪雨のように半血の魔物へと降り注ぐ。瓦礫は四散し、地面はバターのように切り裂かれた。弾け飛んだ水滴は弾丸となって標的を襲い、水流は生き物のように蠢いて檻を作る。

 展開速度が速い。魔術を練り上げてから放つまでのタイムラグが凄まじく短い。それこそ転移でも出来ない限りこの攻撃を避けきることは不可能だろう。半血の魔物は水流の中へと消えていく。

 だが、メトロファネスは違和感を覚えた。水流から生き物を切り裂く感触が伝わってこない。


 ――なんだ……?


 魔力の練り込みは充分だ。この未熟な半血の魔物がメトロファネスの魔術を妨害出来るとは考え辛いし、実際魔術に込めた魔力が解かれる感触もない。

 だが、当たらない。肉を抉る感触がない。

 なにかがおかしい。


「!」


 水飛沫で霞む檻の中から黒い影が飛び出す。四肢は健在、負傷した様子もない。瓦礫を蹴立てて前よりも増した速度で遠ざかって行く。四つん這いで疾走する半血の魔物に二度水球を放ってみたもののやはり手応えは感じられない。当たっている筈なのに肉を断つ感触がないのだ。

 水球の衝撃でゴミ山が崩れ落ち半血の魔物の姿を隠す。


 ――魔力と目測を誤ったか? 馬鹿な、経験の浅い子供でもあるまいし。


 剣で直接切り刻むべきか。

 だが今メトロファネスが最優先すべきは那智の身の安全だ。この違和感も気にはなるが――

 半血の魔物はゴミ山の向こうに隠れて既に見えない。

 もう一度飛べば何処にいるかわかるだろうが、メトロファネスはそうしなかった。半血の魔物がこの地区から出ないように結界を展開し、着地する。


「やったのか?」

「……いや、仕損じた」


 違和感を拭いきれないままミルティアディスに返答し、メトロファネスは炎の中から拾い上げられた人々を見やる。那智によって一箇所に集められた人々は混乱の極みにあるものの、かといって感情のまま騒ぐことも出来ずにマントを羽織った貴種達をおっかなびっくり眺めている。

 おそらく半血の魔物はこの辺りの出身だろう。


 半血の魔物はまず親しい者達を殺そうとする傾向が強い。

 おそらく今死体となっている者達、そしてこれから死体となる筈だった者達は半血の魔物が人間として過ごしていた頃親しかった者達である可能性が高い。

 親しかった者達を殺し尽くそうとしたところに、己らが転移してきたのだ。

 そして奇跡的に生き残った者達は今、完全に治癒されてここにいる。

 これだけ残っていればわざわざ半血の魔物の捜索をする必要もないだろう。


「……そうだ、母さん……」


 そのとき、怪我が癒えたにも関わらず、呆然と自失したままの少年がよろよろと何処かへ歩き出した。すぐに地面に散乱する瓦礫に足を取られて煙を上げる瓦礫の山に突っ込みそうになる。

 那智は少年の腕を掴んだ。力ない抵抗を無視して集めた人々に少年を預ける。


「ナチどの」


 そこにミルティアディスが険しい顔で歩み寄った。露草のような縹色のマントを翻す貴種は荒っぽく那智の腕を掴み、人々から離れ瓦礫の裏に連れて行く。人目の届かない場所まで来ると憤りを抑えきれない様子で那智に向き直った。


「あなたは今自分がどのような危険を冒していたのか、理解しているのか?」


 低く抑えた口調でミルティアディスが問い質す。冬の海に似た青灰色の瞳が怒気を孕んで剣呑な光を放っていた。


「我らは転移の能力を持っていないと言った筈だ。ああも離れられては割って入ることが出来るかどうか。今あなたの首が無事胴体についているのは運が良かったに過ぎないのだぞ」

「割って入る?」


 那智は不思議そうに首を傾げた。無色透明な仕草だった。怒りを露わにする貴種の男に対する恐怖も動揺もないし、同時に自分が仕出かしたことに対する反省も感じられない。周囲の惨状に対する揺らぎもない。恐ろしく自然体で、それがこの死臭漂う場所では不自然だった。外見が異様に美しい華奢な少女だからこそ、幻でも見ているような気分になってくる。

 水面に剣を突き入れているような感覚だ。そもそも状況を理解しているのかどうか。

 ミルティアディスは荒っぽく髪を掻き上げた。自分を落ち着かせるように呟く。


「……そうか、転移の能力は珍しくはないと言っていたな」

「護衛も皆転移の能力を持っていたのだろう」


 追いかけて来たメトロファネスが那智を見やる。

 何時の間にか燃え盛っていた炎は跡形もなく消えていた。ミルティアディスが那智を連れて行った後、メトロファネスがこれ以上燃え広がらないように打ち払ったのだ。

 メトロファネスは那智に怪我がないことを確認してやれやれと言いたげに肩を竦めた。


「ナチどの、我らを置いて一人で何処かに転移することはやめてくれ。ああも至近まで近付かれては我らも迂闊に動けない。尋常な手合いならともかく、相手が魔物では――」

「魔物?」


 那智はまたしても不思議そうに首を傾げる。そしてかすかに眉を下げた。


「私、勘違いをしていたようです」

「勘違い?」

「はい。魔物がいると言いましたが、どうやら間違いでした」


 申し訳ありません、とのたまう那智にメトロファネスとミルティアディスは困惑を浮かべて顔を見合わせた。


 ――この娘は目が見えていないのか? それともこれは彼女流の冗談なのか?


「ナチどの、ここは普段このような有様の地区ではありません」

「はい、メトロファネス様。まだ破壊の跡が新しいように見受けられます」

「……一度にこれほどの人数が殺害されることもない。これはナチどのが告げてくださったように異常な事態なのです」

「一刻も早く事態が収拾されることを願います」


 真面目な表情で頷く那智。だが、メトロファネスとミルティアディスは微妙な顔をして眉間に皺を寄せた。なんなのだろう、この虚しさは。

 ミルティアディスは膜を一枚隔てたようなその違和感を探ろうと思考を巡らせる。ふと思いついて尋ねてみた。


「ナチどのは半血の魔物というものを知っていますか?」

「こちらに来てからちらほらと耳にする言葉です。魔物との合いの子だとか」

「ナチどのの故国にはいないのか」

「はい。そのようなものは聞いたことがありません」


 メトロファネスとミルティアディスは目を見交わした。

 メトロファネスが口を開く。


「ナチどの、先程ナチどのが検分していたあの子供、あれが半血の魔物です」

「走り去った女児ですか?」

「はい。見かけこそ人と似ていますが、その内実は人とかけ離れています。混血児などと言われてはおりますが、実際には魔物に近い。いえ、魔物そのものと言っていいでしょう。――ナチどの、あれは危険なものです。幼子のように見えても油断してはいけません」


 那智は緩やかに首を巡らせて半血の魔物が逃げ去って行った方向を眺めやった。


「そう、あれが半血の魔物……」

「人の皮を被って人の間に入り込む性質の悪い魔物です。どうか惑わされませぬよう」

「はい、メトロファネス様。今後は気を付けます」


 死臭を孕んだ冷たい風が微笑む那智の黒髪を揺らしていった。










 異国の貴種の応対準備が終わったと思ったら今度は半血の魔物が現れたという。

 今日は珍しい客がよく来る日だ、と銀灰色の幾何学模様が浮かぶ漆黒の廊下を歩きながらコーマ支部のギルド員、アドニスは思った。


 地方都市に派遣でもされない限り、ギルド員というものは大抵多忙を極めているものだと決まっている。

 ひよっこのお守りに多種多様な事務仕事。定期的に行われる試験への準備。どうしても机仕事が多くなる中腕を鈍らせない為鍛えることも欠かせない。

 唐突にくだされる雲の上の上司――つまりは貴種――からの命に振り回されることもままあるし、非常事態が起こった際に真っ先に対応にあたるのもギルド員だ。


 アドニスもギルド員としての義務と役割、この仕事の重要さをよくよく心得てはいるものの、こんな日には暇で暇で仕方がないと噂の地方都市に派遣された同僚――といっても左遷ではない。地方都市に派遣された者は数年で迷宮都市に戻されるし、その時には昇進が約束されている――が羨ましくなってくる。


 今日は泊まり込みだな、とぼやきつつ、アドニスはエントランスホールに足を踏み入れた。アドニスの目が椅子とテーブルが置かれた一画を通り越し、壁際に向かう。

 目的の人物を見付けて、アドニスは大股で歩み寄った。


 アドニスが向かう先にいるのは長身痩躯の二十後半の年頃の男だ。分厚い筋肉を纏っている周囲の冒険者と比べると今一つ頼りないようにも見えるが、実のところその痩躯は平民出の冒険者の中でも指折りの力を秘めている。

 髪は鴉のような黒で瞳は淡い水色。通った鼻筋に薄い唇。いつも張りつめたような無表情を浮かべているからか、その瞳は氷のような印象を見る者に抱かせる。

 相変わらず損な奴だと思いつつ、アドニスは男に声をかける。


「よう、ジシス。お前にぴったりの仕事だぜ」

「……アドニス」


 抑揚のない声がアドニスを呼び、氷のような瞳が向けられる。見る者を委縮させるような冷え冷えとした面持ちだが、男にそんな意図はないことをアドニスは知っている。これは彼の平常運転なのである。

 男――ジシスはコーマ支部に所属する冒険者だ。階級はピルス・プリオル。


 アドニスとジシスの付き合いは長い。

 まだ、アドニスもジシスも駆け出しであるハスタティになったばかりだった頃のことである。

 アドニスは冒険者の父を持ち、同期よりは頭一つ飛び抜けているという自負があった為――今となっては当時は跳ねっ返りだったなとしみじみと思い出す若気の至りとなっているが――自然選ぶ目が厳しくなり、パーティーを組むに足ると思える相手が見つからなかった。

 単独で迷宮に潜ることは父からも指導係の冒険者からも厳しく止められていた為、見習いを脱してからは迷宮の探索に行くことも出来ず、ギルドでパーティーメンバー候補を探しては失望する日々を繰り返していた。


 そんなある日、自分と同じくいつも一人でギルドに来る者の姿に気付いた。それが自分より随分年下の十にも届かないような子供で、しかも弱そうな外見をしているのだ。腕も足も棒きれのようで背も低い。身なりもおなざりで、鴉のような黒髪は埃にくすんでぼさぼさで、何時から水浴びをしていないのか顔も手足も汚れて黒ずんでいた。

 ジシスの壊滅的な愛想の悪さはその頃から変わらなかったし、また当時のジシスはそれこそ吹けば飛びそうな葦の草のようなひ弱な外見をしていたから、見習いを卒業した後もパーティーを組む相手がなかなか見つからなかったのだ。


 自らに相応しい仲間を探すアドニスがそんな子供に目を留めたのは、彼が何日経っても消えることなく、同じようにギルドから一人で出発し、同じように一人で帰ってくるのに気付いたからだった。

 彼は手ぶらでギルドを出て行き、魔物の部位を山ほど背負い袋に入れて帰ってきた。

 迷宮に潜っているのだ。

 一人で、アドニスよりずっと年下の子供が。


 無謀だった。

 迷宮は魔界だ。魔物の巣窟だ。

 何時何処で襲われるかもわからず、一人では休むこともままならない。

 アドニスも最初はすぐに姿を見なくなるだろうと、そう思っていた。

 なのにそいつは何時まで経っても消えなかった。

 迷宮内で野垂れ死ぬこともなく、魔物が怖いと逃げ出すこともなく、時たま怪我をするものの休むことなく次の日には再び迷宮に一人で迷宮に向かう。


 こいつだ、とアドニスは思った。

 ようやく仲間に相応しい奴が見つかったのだ。

 そこでアドニスは一人で迷宮に潜ることにした。

 これと見込んだ仲間を得たいのなら、自分もそれに相応しい力を見せなければならない。

 父にその考えを告げて自分が死んだ後のことを頼んだところ、血相を変えて叱責されたがアドニスは考えを変えなかった。

 幾度叩きのめしても頑として意志を曲げない息子に父も最後には諦めたらしく、最期には苦りきった顔で「好きにしやがれ」とだけ言って、アドニスに薬を盛って大人しくさせようとする癒師の母を説得してくれた。


 アドニスとて死にたい訳ではない。けれど、命を惜しんで意地を曲げるつもりもなかった。

 自分は冒険者になったのだ。

 これで死んだら自分はそこまでの人間だったというだけだ。


 一人で迷宮に潜り始めて一月半ほど経った頃、アドニスに好機が巡ってきた。

 迷宮の中で偶然ジシスと出会ったのだ。

 アドニスは勇んでジシスに話しかけた。


『お前、ガキの癖に根性あるじゃねぇか。一人で潜ってんだろ? 俺と一緒だな。まあ知ってるだろうから今更名乗るってのも――』

『……誰だ、あんた?』


 ジシスは愛想が壊滅的に悪い。その上自分のことにも周りのことにもひどく無頓着だった。

 自分がジシスに目を留めたように、ジシスも自分のことを知っているだろうと思って意気揚々と話しかけたアドニスの自信はあっさりと打ち砕かれた。

 新人二人が揃って単独で迷宮に挑み、そしてそれなりの成果を挙げて無事帰還し続けているのだ。

 その頃ギルド内ではアドニスとジシスのことはちょっとした噂になっていた。

 満を持して話しかけたつもりだったのだ、アドニスとしては。


 色々と紆余曲折はあったものの、その後アドニスとジシスはパーティーを組んだ。

 正確にはムキになったアドニスがジシスにちょっかいをだし、そうこうしている内にジシスの無頓着さに毒気を抜かれ、その内我慢できなくなったアドニスがあれこれと世話を焼くようになって何時の間にか一緒に行動することが増えていた、という成り行きで、口に出してパーティーを組もうと申し込んだ訳でもないのだが。


 それから二人が四人になり、四人がまた二人になって、アドニスはギルド員に、ジシスは冒険者として一線で戦い続けている。

 仲間だった二人は魔物の腹の中だ。

 肉を抉られ、喰われながらも最期まで魔物と戦い抜いた、冒険者として相応しい最期だった。

 アドニスはその二人を懐かしく思い出すことはあっても悼むことはない。

 二人を喰った魔物共は首を落として心臓を潰し燃やし尽くして殺してやった。

 後はただ、剣を掲げて生きるだけだ。

 これまでそうしてきたように。彼らがそうしていたように。


 アドニスが忘れられないのは、その時のジシスだった。

 剣を振るいながら、ジシスはずっと喰われていく仲間達を見つめていた。

 ジシスは泣かなかった。いつものように張りつめた無表情を浮かべていた。なのに、アドニスには何故かそれが迷子になった子供のように見えた。


 仲間二人とジシスは仲が良かった。もしかすると、最初に仲間となったアドニスよりも仲が良かったかもしれない。

 アドニスとパーティーを組むようになってからも、ジシスの無頓着さは一向に改善されなかった。

 戦闘となると人が変わったように抜かりのない動きを見せるのに、日常生活では驚くほどなにも出来なかった。

 いや、正確にはなにもする気がなかった、というのが正しいかもしれない。

 ジシスは度々食事を忘れたし、魔物の血を被ったまま床に転がって眠ってしまうこともよくあった。

 いくら注意しても一向に改善されないので最初はアドニスもわざとやっているのかと思ったが、そうではないのだ。

 頼りない外見に似合わず次々と魔物を屠るくせに、ジシスには妙に危なっかしいところがあった。


 そんなジシスを放っておけなかったのだろう。

 最初は無愛想なジシスを遠巻きにしていた二人も、あれこれと世話を焼くようになった。

 二人はアドニスよりも更に年上だった為、ジシスとは十も離れていたのが幸いしたのだろう。

 酒場に連れて行っては酒の飲み方を教え、娼館に連れて行っては固まるジシスをからかい、流行の服装を世話してやり、年の離れた弟にするように、二人はジシスをよく構っていた。


 二人が死んでから、ジシスは少し変わった。

 アドニスが煩く言わずとも食事を忘れることは少なくなり、剣を握ったまま床に転がっていることも減った。

 娼館には行かなかったが、時折酒を飲むようになった。

 流行には興味がないようだったが、風呂に入って身だしなみをきちんと整えるようになった。

 その変化に本人が気付いているのかどうか、アドニスにはわからない。

 ジシスの無愛想はまるで変わらなかったし、自分のことも、他人のことも、ジシスはあまり語らなかったからだ。


 だが――


「ほら、詳しいことはこいつを読めよ」

「……」


 眼前に突き付けられた書類を、ジシスは無言で受け取った。

 文面に目を走らせ、そしてジシスの纏う空気が変わる。氷のような色の瞳が熱を帯び、焼けつくような眼差しが書類を凝視する。


 これだ、とアドニスは思った。

 ジシスは自分のことを語らないし、感情がないのではないかと噂されるほど物事に興味を示さない。

 アドニスが初めてジシスと会った時も、そして二人でパーティーを組むようになってからもそれは変わらなかった。

 けれどそのジシスにも例外というものが存在する。

 それを知ったのはジシスと組んで二年が過ぎた頃だった。


 その日は今にも雨が降り出しそうな曇り空だった。

 コーマで一番大きな広場には処刑台が設置されていた。

 そこには血と熱と鉄と、そして歓喜と熱狂があった。

 人々は歌い、踊り、酒を呑み、隣人達と、隣人でない者達と肩を組んで笑っていた。


 半血の魔物が捕らえられたのだ。

 人を裏切り魔物と通じた女から生まれた忌子。

 人の社会を内から蝕むおぞましい敵。

 その処刑が行われていたのだ。


 アドニスもまた、冒険者の一人として半血の魔物が駆除されることを祝っていた。

 魔物の合いの子がなにより恐ろしいのは普段は人と区別がつかないことだとアドニスは思う。

 行き付けの店の店員が、道ですれ違った子供が、偶然隣の席に座った少女が、次の瞬間襲い掛かってくるかもしれない。守るべき存在の中に、虎視眈々と自身を狙う敵が混ざっているかもしれない。無防備に向けた背中を刺されるかもしれない。

 自身の戦闘力を頼みに生きる冒険者だからこそ、見えない敵が恐ろしい。


 アドニスの思考は一般的な冒険者のものだったと思う。

 だが、ジシスはそうではなかったらしい。

 振る舞われた酒を機嫌よく呷りながら隣を見たアドニスは、一瞬にして酔いが吹き飛んでしまった。


 ジシスは処刑台を見つめていた。

 酒の入ったコップは足下に転がり、隣には杏のパイが無惨に潰れて落ちていた。

 ジシスは処刑台を一心に見つめていた。

 この世にそれしか存在しないように一心に見つめていた。


 我に返ったアドニスが声をかけると、ジシスは掠れた声で「あれはなんだ」と尋ねた。

 アドニスは「魔物だ」と答えた。


 処刑が終わってからも、ジシスは処刑台を見つめていた。

 周囲の者達の騒ぎなどまるで目に入らないように、ずっと処刑台を見つめていた。


 ジシスの家族が半血の魔物に殺されたことを知ったのは、その少し後のことだった。

 そして、ジシスがその半血の魔物を殺したことも。

 その魔物が実の姉だったことも。


 あの日、あの処刑台を見つめてジシスがなにを思ったのか、アドニスにはわからない。

 それからというもの、半血の魔物が出る度に、ジシスは真っ先に飛び出していくようになった。

 ジシスが殺した半血の魔物は必ず原型がわからないほどズタズタに引き裂かれていた。



 エントランスホールでアドニスはジシスに言う。


「カルツァ地区には今ミルティアディス様がいらっしゃる」

「ミルティアディス様が……?」


 凝視してくる薄水色の目にアドニスは頷く。


「上層部から突然半血の魔物が出たと通達があったんだ。目撃者からギルドに連絡があった訳じゃない」

「ミルティアディス様が居合わせたのか」

「多分な。カルツァ地区っつったらゴミ処理場に貧民街、なんだってそんな場所にいたかは知らないが……」


 ミルティアディスは貴賓室に居た筈だったのだが。


(まあ貴種だからな)


 不思議なことがあってもそれが貴種絡みだとなんとなく納得出来てしまう。それがハオサークの平民である。


「……」


 剣呑な空気を纏ったジシスが足早に外へ向かう。その背中に向かってアドニスは声をかけた。


「周りの連中も結構生き残ってるみたいだから、今回は待ち伏せしてりゃ向こうから来るかもな」


 ジシスの足が止まった。


「生き残り?」


 半血の魔物を前にしたジシスが他のことに関心を示すのは珍しい。

 意外に思いつつアドニスは答える。


「半血の魔物とよくつるんでた子供が一人残ってるらしい」

「……そうか」


 それ以上アドニスになにかを尋ねることもなく、ジシスは再び歩き出してエントランスホールを出て行った。


「……こういう時ギルド員ってのは不便だな」


 アドニスは口の中でぼやいて、持ち場に戻るべくエントランスホールを後にした。


 アドニスがギルド員になったのは、二人の仲間の死後しばらく経った頃のことだ。

 その頃、各地の迷宮に異変が起こり始めていた。

 コーマ支部もその影響から逃れることは出来ず、五年前から現在まで、二度異変が起こっている。

 カラトスの黒き乙女、コーマ。表向きは健在だが、その体力はじわじわと削られていた。戦士の数が減れば、異変をやり過ごした後も残された戦士の負担は重くなる。熟練者も次々に死んでいったが、目立って死亡率が増加したのは新人だった。

 指導係の不足で、見習い期間が短くなり、練度が不十分なまま冒険者として独り立ちしてしまう者が多くなったのだ。


 このままむざむざ指をくわえて魔物にいいようにやられているのを見るのは癪だった。

 けれど一人の力で出来ることには限界がある。ならば一人でも多く魔物を殺して生き延びることが出来る冒険者を育てようとアドニスは決めた。

 アドニスがギルド員になろうとしていることを告げた時、ジシスは「そうか」とだけ言った。

 仲間の二人が死んで以来、これといった相手も見付からず、アドニスとジシスは二人で組んでいた。

 アドニスがギルド員となれば、二人きりのパーティーを解散してしまうことになる。

 けれどジシスはなにも言わなかった。

 勝手な話だと詰ることもしなかったし、自分もギルド員となるとも言わなかった。


 その時既にアドニスもジシスもピルス・プリオルとなっていた。

 貴種ではない平民が望み得る最高の階級である。

 アドニスはギルド員となり、ジシスは今も一人で迷宮に潜っている。


 ジシスは強くなった。アドニスはそう思う。

 月日が流れ、あの日ギルドでアドニスが目を留めた、女のような頼りない顔をした痩せっぽちの子供はコーマでも名を知られた戦士となった。

 ジシスはおそらくピルス・プリオルの中でも群を抜いて強い。

 同じくピルス・プリオルの冒険者がパーティーを組んで挑むような階層に単独で潜り、魔物を殺して帰ってくる。


(今じゃあのひどい無愛想も一種の風格だって思われてんだから、まったくわからねえもんだ)


 血縁に冒険者がいる訳でもない、混じり気なしの農民出身だということも人々の注目を集める一因だろう。

 比較的、冒険者の子供は冒険者になれる素質を持って生まれることが多い。

 もっとも貴種のように完全に素質を継承することが出来る訳ではなく、冒険者になれない子供もまた多いのだが。

 農村から出て来た者がピルス・プリオルまで上り詰め、しかもその中でも抜きん出た存在になるのはひどく珍しい。


(あいつ、あの仏頂面でちゃんとやれてんのかねえ。話を聞く限りじゃ評判は悪くないようだが……)




「アドニス、ジシスさんに受け取ってもらえたか?」

「帰ってくるのが遅いぞ、アドニス。一人だけ抜け駆けして休憩してんなよ」

「ジシスさんどうでした?」


 部署に戻ると仕事の山に埋もれた同僚達が、いい気分転換を見付けたとでも言いたげな顔で声をかけてくる。

 それに適当に返しながらアドニスは自分の席についた。仕事に集中しているふりをしてかわそうとして、そしてすぐに目の前に積み上がる仕事の量にげんなりする。

 少しくらいならこいつらの息抜きに付き合ってやってもいいかもしれない。

 アドニスは椅子の向きを変えて机に背を向けた。


「どうって、いつも通りやる気満々で出てったぜ。あいつがこの仕事を断る訳ねえだろ」

「ジシスは人一倍半血の魔物に対する憎しみが強いからな。まったく、友人だ兄弟だってツラして紛れ込んでんだからな……ぞっとしねェぜ」


 頬に十字の傷跡のある同僚が低い声で呟く。


「ま、ジシスに任せときゃきっちりぶっ殺してくれるさ。それよりさっき貴賓室に連れてかれた村娘、依頼通り村へと送ってやることになったんだろ? そっちの処理はもう――」


 アドニスの言葉を遮って、興奮した声が上がった。ついさっきまで通信機を片手に何処ぞから連絡を受けていた同僚から発せられたものだ。彼は椅子から立ち上がって部屋中をぐるりと見回した。


「おい、コザーニ方面本部長が今からコーマに来るってよ!」




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