迷宮都市コーマ 6
太陽は中天よりやや西に傾き、降り注ぐ日差しが冷たい空気をわずかばかり温めている。
ラビスとデジーは一旦家に帰って急いで遅めの昼食を詰め込み、再びゴミ山に戻って来ていた。
魔導車や手押し車から廃棄されるゴミに群がっていた人の群れは消え、ゴミ山は閑散としていた。幾人かやる気なさそうにゴミをつついている以外人の姿はない。
ゴミを捨てに来る時間は大体決まっている。新しく廃棄されるゴミを真っ先に拾いに行かなければ金目の物は拾えない。今はもう、あらかた拾い尽くされた残りが山となって積み上げられているだけだ。次にゴミ捨てに来るまで、ひと時の休憩時間である。
「よーし。そんじゃあまた後でな!」
「うん!」
他のゴミ山の住人達がのんびりと休憩を決め込むのを余所に、二手に別れたラビスとデジーは再びゴミ山を漁る。
手には棒。ずだ袋は持っていない。
二人は一つ一つのゴミを慎重に掻き分けて検分していく。
目的は金目の物を集めることではない。
もう少し経つと預言者聖誕祭がやってくる。
預言者聖誕祭――遥か昔のその日、デア・アマデウスが神の声を聞き自らの使命を知ったのだと云われている。
サルヴァトル教会の祭日だ。
サルヴァトル教徒はその日、家族や親しい者達と共にパンを食べワインを飲み、世界を創った偉大なる神に祈りを捧げて過ごすのだ。
「……靴下。あ、駄目だこりゃ。デカい穴が開いてらぁ」
その日は特別な日だ。
いがみ合っていた者達も争いを止め世界に感謝し、隣人や家族を慈しむ日。
ラビスとデジーは聖誕祭の贈り物を探しているのだ。
(これも駄目だな。きれいでほつれたりもしてないけど、デジーはこういうの喜ばないからなぁ)
桃色のひらひらした服を持ち上げて、ラビスはちらりとデジーを見やった。
ふわふわした髪は飾り気のない紐で雑に一本にくくられ、ぶかぶかのズボンの裾が足に合わない無骨な革靴から飛び出して黒く汚れている。ズボンが落ちないように腰でぎゅうぎゅうと引き絞っていて、ずだ袋を穿いているようにも見える。
デジーの父がデジーに怒る理由としてよく口に出すのがこの『女の子らしくない』格好だ。
もうデジーは九才。デジーの父はそろそろデジーがスカートを穿くべきだと思っているのだ。
(でもなぁ。他のとこはどうか知らないけど、ここじゃ女も男もやる仕事って言ったら大して変わんないしな。連れ合いに先立たれた奴も多いからあんまし気にしてる訳にもいかねぇし)
ラビスは桃色の服を見て、デジーを見た。首を捻ってひらひらした布の塊を放り投げる。ゴミ山にパサリと落ちた桃色の服がかすかに埃を舞い上げた。
(デジーは別にきれいなもんが嫌いって訳じゃねぇんだよな。ただこういう服は動きにくいから嫌いってだけで。首飾りとか耳飾りとかならおじさんも安心するだろうし、デジーも喜ぶかな)
ラビスは目的を決め、ゴミ山に目を凝らす。
次にゴミ捨てが来るまでが勝負だ。
棒でゴミを避け、口の開きかけた箱をこじ開け、ラビスはふと先程放り投げた桃色の服に目を留めた。
なにかきらきらしたものが見えたような気がしたのだ。
(なんだ?)
ラビスは服を持ち上げひっくり返して目を見開いた。
金色の細い鎖が服に絡まるようにしてあった。服の内側に入り込んでいたから気付かなかったのだ。
引っ張り出してみると花を模した飾りが鎖の先に付いている。
透明な橙色の花。
デジーが押し花にしてとってある花とよく似ている。
鎖の長さから見て首飾りだろう。
金具が壊れてしまっているが、これくらいならラビスでもなんとか治せそうだ。
ポケットから取り出した布を広げて首飾りを上に乗せる。慎重に布を折って首飾りを包み込み、少し迷ってからそれをポケットに丁寧に入れる。
そろりと足を動かして中の贈り物が壊れないのを確認し、ラビスはデジーを探した。
(見られてねぇよな?)
デジーは少し離れた場所でしゃがみ込んでいた。
真剣になにかを見つめている。なにがあるのかはラビスの場所からは見えない。
俯いたままのデジーの口元が緩む。ごそごそとなにかをしようとして、ふと視線を上げた。
くりくりとした目が自分を見ているラビスを発見して見開かれる。
慌ててなにかを背中に隠してラビスを威嚇した。
「ずるいラビス! 見てたの!?」
丸い目を精一杯尖らせるデジー。ラビスはにやりと笑った。
「へぇ、なにを見てたって?」
「なにって……言わないんだからね! ラビス、あっち行ってて!」
「はいはい」
どうやら特大の収穫があったらしい。
あまりにわかり易い反応にからかってやろうかという気持ちがむくむくと頭をもたげてきたものの、聖誕祭の贈り物をからかいの種にするのは趣味が悪い。
ラビスは大人しく背中を向けてデジーから遠ざかる。元は豪華だったのだろう古ぼけた赤い一人掛けの椅子がゴミに埋もれていたので、それを発掘してデジーを待つことにした。
ひっくり返っていた椅子を起こし、パタパタと叩いてゴミや埃を落としていく。
べったりとへたっていた生地が少し精彩を取り戻し、思ったより柔らかかったことに気付いた頃、軽い足音と共にデジーが駆け寄ってきた。
ラビスと同じように何処かに収穫を仕舞い込んだのか、手には棒しか持っていない。
「ラビス、それ椅子?」
「おう。汚れちゃいるが、まだ座れる」
デジーは椅子をじっと眺めてきらきらと目を輝かせた。
「王様の椅子みたい!」
「遊ぶのは後にしろよ。もう少ししたらまたゴミ捨てが来る。一回家に帰らなきゃいけないだろ?」
「わかってるよ。ねえ、後で座っていい?」
「いいぞ」
ゴミ拾いは荒々しい仕事だ。
金目の物をたくさん拾うにはゴミを捨てていく魔導車の近くに陣取り、捨てられるゴミをいち早く調べなくてはならない。当然皆少しでもいい位置を得ようとするので、魔導車の近くに行けば行くほど殺気立ち揉み合いになる。
ラビスやデジーと同年代の子供達は魔導車から少し離れた場所でゴミ拾いをするのが普通だった。
大の大人が揉み合う場所に子供が割って入ることは難しい。
だが、ラビスはここ二、三年ずっと大人に交じって魔導車の近くで作業していた。
父がいなくなって稼ぎ手が減り、そうせざるを得なかったのだ。
幸いラビスは身体能力に恵まれていた。
小さな頃からすばしっこく、近頃ではそれに加えて力もついてきた。
今では母と二人で十分に暮らしていけるだけの金を稼ぐことが出来ている。
デジーもまた大人の男達相手に一歩も退かずにやり合って、自分の収穫を確保していた。
デジーは足が速く身軽で、最近は大人達に押し負けないだけの勢いも身についてきた。
頼りになる相棒だった。
もっとも、それがまたデジーの父に顰めっ面をさせる原因となるのだが。
ラビスとデジーの仕事場は大人達が揉み合う場所だ。押されたり蹴り飛ばされたりすることもあるし、時には前を塞ぐ大人の身体によじ登ることもある。
壊されないようにポケットの収穫を安全な場所に置いてこなければならないので、ラビスとデジーはそれぞれの家へと向かってゴミ山の上を歩き始めた。
「ねえ、ラビス」
「んー?」
「聖誕祭でさ、あのね、教会に行くのもそうなんだけどね……」
もじもじと言うデジー。
「あのね、どこも綺麗な飾りでね……」
「……教会から帰る時、ちょっと遠回りしてくか」
「!」
デジーの顔が明るくなる。鳥の巣のような頭がぶんぶんと上下する。
ラビスはちょっと笑って足下のゴミを飛び越えた。
聖誕祭の日、街中が浮かれた雰囲気に包まれる。
ラビスが以前教会の神父に聞いたところによると、冒険者達にとってもその日は特別な日らしい。
大昔にあったとても大きな国の皇帝が冒険者ギルドを創った日。それが聖誕祭と同じ日付なのだという話だ。
だからその日は迷宮都市全体がお祭りのような雰囲気に包まれる。
街路樹はピカピカ光る小さな剣や飾り玉、リボンなどで飾り立てられ、水路の水は不思議な輝きを纏う。大通りには綺麗にめかし込んだ人々が溢れ、ガラスの向こうにはふわふわのケーキが飾られ、甘い匂いを店の外に漂わせる。
肉やチーズを挟んだパンに砂糖で煮詰めた果物、塩と香辛料でピリっと焼き上げた肉の塊に甘いクリームがたっぷり乗った杏のパイ。広場にはたくさんの屋台が並び、人々はきらきらと光る噴水を囲んでベンチに座る。
「服、洗わなくちゃ!」
「髪も梳けよ。顔の汚れも落とさないとな」
笑顔だったデジーがふと自分の服を引っ張って鼻を近付ける。
「……匂うかな?」
「ちゃんと洗えば大丈夫だ。それにどっかの屋根に上ればそんなこと気にする必要もねぇよ」
サルヴァトル教徒の聖誕祭は基本的に静かに過ごす。教会に行き祈りを捧げ、家族や親しい者達と共にささやかなご馳走を食べるのだ。聖誕祭の趣旨からして、騒いだりお祭り騒ぎをしたりするような性質のものではない。
聖誕祭の日、サルヴァトル教徒の多くいる貧民街は静まり返り、大通りや中流階級の多くいる地区では華やかなお祭り騒ぎが行われる。
「あと何年かしたら、おれもあっちに行くんだ」
ラビスは顔を上げた。その視線の先には聳え立つ城壁があった。
漆黒の壁面を銀灰色の光が波打ちながら流れていく。
コーマの何処からでも見ることの出来る巨大な城壁。
洒落た服を着た者達が歩く大通りからでも、剣を持つ者達が集まる酒場からでも、ラビス達のいるゴミ山からでも。
コーマが人間の世界を守り続けている証だ。
「……冒険者になるの?」
「ああ」
教会の神父は、ラビスならば後何年もしない内に冒険者になれるだけの力をつけることが出来るだろうと太鼓判を押してくれた。今は年が幼過ぎるので許可は出せないが、このまま大きくなればまず間違いないと。
冒険者になったら、もうここに簡単に帰って来ることは出来ないだろう。
しばらくは戦い方を教わるのに精一杯。その後は借金を返しつつ命懸けで自分の食い扶持を稼がなければならない。
「……ふうん」
ぶっきらぼうに相槌を打ちデジーは足早にラビスを追い越した。そのまま家に帰ってしまうのかと思いきや、ぴたりと立ち止まる。
ふわふわの頭が揺れた。
「……ラビスなら、きっと一番強い冒険者になれるよ!」
言い放ったデジーはくるりと振り向く。欠けた歯を見せて、にっと笑った。
◇
「これ、洗っといてくれ」
「はいはい。あら可愛らしい服。デジーにかい?」
「……何時までもそんなみっともない恰好させてる訳にもいかんだろう。近所でなんて言われてるか……」
むっすりと黙り込んだ夫にデジーの母は小さく眉を下げた。背中に背負った幼子を揺すり上げ、苦笑を浮かべて言う。
「楽しみの少ない場所だからねぇ」
「……今日もあいつはラビスと一緒に大の男を押し退けていた」
「デジーはお兄ちゃんっ子だから」
床に放り投げられた服をはたいて纏めている妻をじろりと一瞥して、デジーの父は口を引き結んだ。
なにか言いかけようとして、ふと部屋の隅でなにかを磨いている娘の姿が目に留まる。娘の手元でなにかが鋭い光を放った気がして、デジーの父は疑わしげに眉を寄せた。
「デジー? なにをやってる?」
デジーはびくりと肩を揺らして、手に持っていた物に布を被せた。
「な、なんでもない!」
焦った様子で手元を隠す娘にデジーの父の表情が一層険しくなる。
「なんでもない訳がないだろう。疚しいことがないならなんで隠すんだ」
デジーの父の声が不審を含んで尖る。びくりと肩を揺らして小さくなった娘にデジーの父は大股で近付いた。刺すような眼差しで娘を見下ろす。
「今おれからなにを隠した?」
「なにも……」
蚊の鳴くように返された言葉に、娘を見下ろす父の頬が神経質にひくりと引き攣る。引き結ばれた口端が歯軋りするように震えた。
「なにも、だと? お前は今嘘を吐いたな? 親に嘘を!」
「ちが、うそじゃ――」
「嘘じゃないなら見せて見ろ! ええ!? 見せて見ろって言ってんだ!!」
激昂した父が真っ赤な顔で娘の腕を掴み上げる。抵抗するデジーと引き合いになり、デジーの父は驚愕に目を剥いた。
――娘の力を押し切れないだと!?
「このッ、なんだこの、やっぱりこいつは――」
デジーの父は急に腕の力を抜いた。体勢を崩したデジーが壁に頭をぶつける。そのままデジーの父は何度もデジーを壁に叩きつけた。粗末な造りの掘立小屋が軋みを上げ、近所から抗議の罵声が浴びせられる。
廃材から突き出した棘や突起に削られて、デジーはあちこちから血を流していた。涙は流れているが悲鳴は上げない。懐には布で包んだなにかをぎゅっと抱えている。
「ね、ねえあんた。そろそろ許してやってく――」
おろおろと娘と夫を見比べたデジーの母が取り成す。
すると、デジーの父はふと黙り込んでまじまじと妻を見つめた。怯んだように口を噤む妻を凝視して、急に興味を失くしたようにデジーを放り投げた。床に叩きつけられたデジーがくぐもった悲鳴を呑み込む。
「……なあ、お前」
「な、なんだい」
「おれは……おれと会う前のお前のことは知らねぇ」
奇妙に抑揚のない口調で、デジーの父は言う。その目は妻に焦点を合わせようとしない。
「お前が真面目にやってたってこたぁ人から聞いてたし、そうだろうと思ってた……」
「な、なんだい。なにが言いたいんだい」
デジーの母が畳んだ服を膝から下ろして立ち上がった。前掛けを握りしめて夫に近付く。
「なんだか知らないけどね、妙なことをお言いでないよ。あたしは、デジーだってね、あたしは――」
「おれは真面目にやってきた。教会にだってちゃんと行ってるし、余裕がある時に寄付だってしてる……。こんな暮らしだが、お前達を養う為にずっと働いてきたんだ……」
言い募る妻の言葉を遮って、デジーの父が言う。
「酒だって悪い飲み方はしねぇし、賭け事だってやらねぇ。子供らに手がかかる時はお前が働かなくてもなにも言わなかった。と、隣の家が酒を飲んでる時でも水で我慢した。稼ぎを好き勝手に使うこともなかったし、家のことをお前がちゃんとしない時だって飯を食わせてやった……」
「家のことって、そりゃ子供が小さければ――」
「おれは!」
デジーの父が声を大きくする。
「いいか、おれはな――こんなによくしてやってるのに、口応えをしてくるような女が――働いてもお前達が食っちまうからちっとも生活がよくならねえし――娘は近所の笑い者で――」
「あんた、デジーは家族の為に働いてくれてるんだよ! 稼ぎだって最近じゃ大人に負けないくらい――」
「負けない!?」
デジーの父の顔が赤くなって神経質そうな頬がひくひくと痙攣する。
「誰に負けないんだ!? ええ!? む、娘が負けないって誰にだ!? いいか、娘ってのはな、親にちゃんと――親に逆らって恥を掻かせるような――お前みたいな女から産まれて来たから――」
「なんだって!?」
デジーの母の頬にさっと怒りが上る。口元を震わせた彼女は、精一杯馬鹿にするようにフンと鼻を鳴らした。
「だいたい、悔しいならあんたがもっと稼いでくればいいんじゃないか! あたし達に当たり散らしてないでさ!」
妻の言葉に図星を突かれたデジーの父はぶるぶると震えた。怒髪天を衝いていることは明らかだった。
ぎらぎらと光る目で妻を睨みつけ、なにも言い返せなかったのか怒りの形相を浮かべて猪のように部屋を見回す。その目がデジーのところで止まった。デジーは部屋の隅でぎゅっと手足を縮めている。
鼻の穴を膨らませて父は娘に近付いた。公平な裁判官のふりをしようとして失敗したような顔だ。
「デジー! お前はなにかを隠してたな……?」
デジーの父は尊大に命じる。
「出すんだ、デジー!」
デジーは従わなかった。手足を縮めてより一層小さくなる。
デジーの父の顔が膨張したように見えた。勝ち誇ったように判決を告げる。
「親に隠れてなにかをやろうとは何事だ! デジー、この出来損ないめ! お前はどれだけおれに苦労をかけてるか知らねえんだ!」
憎々しげに吠えるなり娘に掴みかかる。
「見せろ! 見せるんだ!!」
罅の入った小物入れが宙を飛び、木製の塩入れが壁に叩きつけられる。仕舞っておいた服が革靴に踏みにじられ、床に落ちた水差しから冷たい水が流れ出る。狭いながらもきちんと整理されていた部屋があっという間にぐちゃぐちゃだ。
デジーは身体を守るように縮こまったまま動かず、父はますます猛り狂って娘を殴打する。とうとう耐えきれなくなったデジーの母が金切声を上げて夫に掴みかかった。
「な、なにしやがる! お前もか、お前もおれを馬鹿にしやがって――!」
「いい加減にしな! 根性の歪んじまった奴らの言うことにいちいち振り回されてんじゃないよ!! 情けない!!」
揉み合いになり、必死の表情を浮かべた妻に夫が抑え込まれる。最初は侮っていた様子だった男もなかなか妻の手を振り払えないことを悟るにつれてに驚愕と憤り、そして堪え切れない怒りに染まり始める。
「この――女が――」
男が振り回した拳が妻の顔に当たる。彼女は驚愕の悲鳴を上げて後ずさった。顔面を押さえて手についた血に呆然とした顔をする。直後、凄まじい目で夫を睨みつけた。
「あんた――」
普段は大人しい妻の形相に男は怯んだように後ずさった。怒りと怯みが混じり合った顔で言い立てる。
「なんだその顔は! な、殴られて当たり前のことをしておいて――」
「なんて情けない男だ!!」
吐き捨てた妻に男は酸欠になったような顔でぱくぱくと口を動かした。紅潮した顔の中で見開かれた目が落ち着きなく動く。
そのときカタリと小さな音がした。
デジーだ。蹲っていたデジーが身じろぎをした音だ。
はっとした後、夫の顔に再び勝ち誇ったような表情が浮かぶ。
「デジー!」
夫は叫んだ。
「デジー! お前だ! お前が親に逆らってばかりいるからこんなことになったんだ!」
「またあんたは!」
妻がますます目を吊り上げて憤然と睨みつけるのを無視して、男は娘の服を引っ張った。
「ほら、おれが持ってきてやった服を着るんだ! 隠してるものを出せ!」
「今はあたしと話してるんだろ!?」
怒りに燃え上がった女が床に転がった水差しを拾う。その中には少しだけ水が残っていた。頑丈な陶器で出来た水差しは幸い割れていなかった。もっともこれから割れるかもしれないが。
水差しを握りしめ、娘を引き摺り上げている夫を見据え、彼女は決意に満ちた足取りで歩み寄る。
背中では二歳になる息子が異様な空気を感じ取って泣き喚いていた。
女にとって夫とは、誠心から支えよく従うべき相手だった。
これが初めての大きな反抗である。
自分がなにか出来るとはこれっぽっちも思っていない夫の、無防備に向けられた背中に女は思い切り水差しを振り下ろした。
「ギャッ!! ――!?」
と言っても、まだ躊躇いがあったのだろう。水差しは中途半端に夫の背中を打っただけで力なく落ちる。陶器の表面には罅も入らなかった。
だが、夫の行動を止めるには十分だった。
思いもよらない反抗に、夫の身体が一時硬直する。
そのとき、カランと音が響いた。
金属質のその音は騒然とした部屋の中で異質な響きとなって注目を集める。
鈍い銀色が光を弾いた。
ナイフが床に落ちていた。
デジーの腕くらいの刃渡りで、暗いえんじ色の柄を持ったナイフだ。
先端が刃こぼれしているがそれ以外は目立った不具合もなく、立派な造りをしている。
それがデジーの持っていた布から零れ落ちていた。
ナイフを見て、娘を見て、なにを思ったのか男の神経質そうな顔に強張った恐怖が浮かぶ。目にはちらちらと疑念がちらついていた。
「デ、デジー、お前、まさか……!」
震える声で呟いて、まるで猛獣に忍び寄る様な足取りで娘ににじり寄る。そばかすの浮かんだ娘の顔を凝視したままナイフにそろそろと手を伸ばした。はっとしたデジーが咄嗟にナイフを自分の元に引き寄せようと動く。その瞬間、男の手が唸って勢いよく横っ面を張り飛ばした。
「そうはいかないぞ! この性悪め――」
男は急いでナイフを回収し勝ち誇った叫びを上げる。その夫の姿を呆然と眺めていた女が、我に返ったように汗で滑る水差しを握りなおした。けれど体勢を整えて興奮した夫に一撃を喰らわせてやる前に、鼻先にナイフを突きつけられる。
「お前はまた旦那に逆らって――そうか、わかったぞ! 二人しておれを騙して――そうだったんだな――だからなにもかも――今までの恩を忘れて――」
泡を飛ばして怒鳴る夫が激情に任せてナイフを振り回す。ゴミ山で暮らしていれば普通幾つかの喧嘩くらいはこなしているものだが、不幸にも女はこれまで相手を打ちのめそうと立ち回ったことがなかった。
身体の前に構えた水差しで防御しようとするものの、腰の引けた構えで動きものろく、またでたらめに振り回されるナイフの軌道はまるで読めない。
水差しに弾かれたナイフがすぐに戻ってきて女の腕を捉える。大して力も入っていない斬撃は服を切り裂いて僅かに皮膚に血を滲ませるに留まった。しかし夫に切り付けられたという衝撃と刃物で切られたという混乱で女は水差しを取り落としてしまう。
「いいか、二度とそんな口を利いちゃいけないってことを――」
やってやった、という顔をした男は気付かなかった。
蹲っていた娘がそれをずっと眺めていたことを。
怯えて動けなかった筈の娘が自分が手に持ったナイフを凝視していたことを。
娘の周りでなにかがぞろりと蠢いたことを。
服を引かれる感触に、たたらを踏んだ男は苛立ちと訝しさが入り混じった顔で振り返った。無視してもよかったが、その力がやたらと強かったのだ。まるで魔導車に引っ張られているような感覚だった。
「なんだってんだ、デ――」
やや怒りが削がれた様子で問いかけた男の言葉に返事はなかった。
俯いていた鳥の巣のような頭がゆっくりと持ち上がる。
直後、男の眼前をなにかが覆った。
「え――」
口だ。
頬が裂ける程吊り上った口がぽっかりと虚のように空いているのだ。
ああ、デジーの歯が欠けている。そうだ、食べやすいように柔らかいパンを作るよう、言わなければ――
それが男がこの世で考えた、最後のことになった。




