盗賊と村 2
一分もかからずに森を抜け、高速で走る際巻き起こる暴風に周囲を巻き込まぬよう、村に入る前に一旦勢いを殺す。
ぐるりと村を囲む木の柵―――二メートルを超えるそれを一飛びで越え、村の内部へと降り立った。
不安そうに物影に身を寄せ合っている村人達を、立ち並ぶ果樹を、点在する民家を飛び越えてナチは現場へと直進した。
悲鳴と哀願する声、恫喝する怒声と品性の欠片もない嘲笑が絶えず聞こえてくる。
ナチの進行方向には村人達を気紛れに追いかけ、怒声を上げ、怯えきった村人達が必死に逃げ出す姿を笑って眺める男達。彼らは手当たり次第に村人達に襲い掛かっている。
辺りには点々と血が零れ、なにかを引き摺ったような血の跡が地面の草をべっとりと汚していた。
中途半端に切られ、刺され、血を流したまま地面を這って逃げ出そうとする村人達。道の上には切り伏せられた女と刺された男が倒れ、その男女の子供らしき幼女が彼らに縋り付いている。幼女の腕は奇妙な方向に曲がり、顔は血に塗れていた。近くの家のドアは叩き壊されている。道にはへし折られた木製の食器類と衣類を入れる箱が転がり、地面に古ぼけた服が散らばる。
紛れもなく、村は襲撃を受けていた。
村人達に反抗の意志は見られなかった。
人々は皆蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。後には男達に痛めつけられて動けない者、男達に目を付けられて逃げ出せない者が残される。
曲がりなりにも対抗しようと試みている村人はたった一人。鉈を持った男の前で棍棒を構えている白髪混じりの薄茶色の髪をした村人だ。
村人の身体にはあちこち布が巻かれ、右目には青痣、口元には乾いた血がこびりついている。既に男達の襲撃の前に負傷していたようだった。棍棒も、構えているというよりは身体の支えにしているというのが正しい。
―――まずは一人。
ナチはナイフの男の蟀谷を平手で軽く叩く。男の意識が薄れるのを確認して、鉈の男へと向かった。
村人の持つ太い棍棒の間をすり抜けるようにして鉈の男の眼前に迫る。薄茶色の髪の男の横を通る時に草のツンとした匂いがした。正面からナチが繰り出した掌底に反応することすら出来ず、鉈の男はまともに喰らう。
続けてナチは仲間が二人、仕留められたのを未だに気付かない残りの男二人の蟀谷を平手で叩く。
無防備に突っ立って村人達に野次を浴びせていた男と、服を切り裂かれた村人の少女に乗り上げて足を掴んでいた男は、薄ら笑いを貼り付けたまま気付かぬ内に意識を刈り取られる。
ナチが動きを止めた後、ようやく最初に仕留めたナイフの男が倒れる音が響いた。ほぼ同時に残りの三人も崩れ落ちる。
「―――な、なんだ!?」
「なにが―――一体―――」
村人達はなにが起こったのかわからずに、突然倒れたように見える男達にどよめいた。逃げていた足を止めて振り返る。
「気絶しているだけです。しばらく目覚めることはないでしょうが、拘束するまであまり刺激を加えないのが上策と存じます」
混乱していた村人達が一斉にナチに視線を向ける。
ナチを見た途端ぎしり、と空気が軋むような緊張が彼らの間に走る。
彼らの表情に、襲撃者が倒されたという安堵の色はない。そこに浮かんでいるのは動揺と、驚愕と、色濃い恐怖。
誰もなにも言わない。動こうともしない。
張りつめた沈黙の中、ややあって薄茶色の髪の村人が強張った顔で口を開く。
「この、こいつらは―――こいつらは、あなたが、その、やって……?」
「はい。わたしが攻撃いたしました」
脂汗の浮かんだ顔を一層白くして、村人は棍棒を握りしめた。からからに渇いた掠れ声で尋ねる。
「それは、―――魔術で、ということでしょうか……?」
「いえ、体術です」
村人達から小さな悲鳴が上がる。男達に襲われていた時と同じくらい、いや、その時よりも更に怯えた様子で後ずさる。
「は、半血の魔物………!」
異様に張りつめた空気の中、ナチは怯える村人達を一瞥しただけで視線を逸らし、最初に切られた男女のところへ足を向ける。何処からか押し殺した悲鳴が上がった。
「ダ、ダーサ達が殺されちまう……! どう、どうすれば……!」
「に、逃げねえと、ダーサ達はもう助からねえ……! ダーサ達に気を取られてる隙に―――」
「動けばこっちに来るんじゃねぇのか……!? 最初に動いた奴が……!」
村人達から緊迫した囁きが漏れる。ナチが一歩進むごとにその囁きは切羽詰まった色を帯びるが、特に邪魔されることもなかったのでナチはそのまま足を進める。
「な、なにをしようと、―――か、彼らはまだ、彼女のお腹には、子供が―――わ、私が、代わりに私が―――」
唯一動いた村人がぎこちない動きでナチの進路に立った。
薄茶色の髪に柔和な顔をした、怪我だらけの村人だった。年の頃は三十代後半。農作業で鍛えられた、がっちりとした体形をしている。
そこでようやくナチは足を止めた。村人の幸の薄そうな顔を見つめ、彼の質問に答える。
「治療をさせていただこうかと」
「……え?」
「彼ら二人は致命傷ではありませんが、出血が多い。捨て置けば遠からず死ぬことになるでしょう。もし、あなた方のやり方があるのならば差し出がましいことではありますが………」
呆気に取られた顔で立ち尽くした村人がそれ以上制止してこないのを見て取って、ナチは男女の元へと足を進めた。
胸から右腕にかけてざっくりと切り裂かれた女は、ほとんど意識が朦朧としているようだった。血を流し過ぎたのだろう。武器の質が悪かったらしく傷口は無惨に引き攣れている。右胸がぱっくりと割れて血に濡れた脂肪が覗いていた。
「あ……、あ、ぁ………」
女のスカートの股の部分は血が滲んで赤く染まっていた。
焦点の合わない目で女が伸ばす、血と脂汗に濡れた手をナチは軽く握って地面に置かせた。
「大丈夫です。あなたも、あなたのお子も」
状態の調査を開始する。ナチが手をかざすと、横たわる女を中心に新緑のような瑞々しい色合いの光が走り、陣を描いた。
身体を構成する成分から子宮の中まで精査していく。
幸いなことに、横たわる女はナチの知る”人間”とほとんど変わらない生き物のようだった。
腹の中の赤ん坊も、鼓動が止まってからそう時間は経っておらず、魂も彼岸に渡り切ってはいない。これなら肉体を回復すれば息を吹き返す。
ナチは陣に力を織り込み発動した。
陣が輝きを増して、より明るさを増した新緑の光が女を包み込む。束の間の後、光が消えるとそこには無傷となった女がいた。
「ほ、本当に治ってるぞ」
「半血じゃない……? よかった……」
「待て、半血じゃないってことは―――」
息を殺してナチの挙動を注視していた村人達から安堵の声が漏れ出るが、それはすぐに違う不安の声にとって代わられる。先程の息をするのも恐ろしいというような張りつめた空気は和らいでいたが、その代わりに不安と猜疑が彼らが交わす囁きの中に充満していた。
動こうとしない村人達の中、薄茶色の髪の村人が独り、縄を持ってきて気絶している男達を縛り始める。怪我で上手く動けないのだろう。傷が痛むのか、時折呻きを噛み殺すように息を詰めながら布で固定した腕が震えて幾度も失敗する。
「おい……、村長が……」
「放っておけ……!」
「おれ達がやったと思われたらどうするんだ」
「こいつらが来たのだってソロンが失敗したから―――」
「しかしソロンだって必死に―――」
手古摺る村人に、しかし他の村人達は手を貸そうとはしなかった。それどころか、聞えよがしに批判する者すらいる。
ソロンと呼ばれた村人は反論しようとしなかった。聞こえていない訳がないだろうに、黙々と男達を縛り上げる作業を続ける。
男達を拘束するソロンに、遠巻きにする村人達。その奇妙な空気に割り込んだのは、明朗な調子の男の声だった。
「ソロン……! 凄いじゃないか! こいつら倒しちまうなんて、やっぱりお前は強いなぁ!」
やや不安定な走りで近寄ってきたのはもっさりとした灰色の髪の、隻腕の男だった。ソロンと同じくらいの年齢に見える。
隻腕の村人は倒れ伏した男達とソロンを見比べて興奮したようにまくし立てる。
「何人だ? 四人か! 一人でやっちまったのか? 腕、もう使えるようになったのか! この調子で行けば―――」
「違うんだ、ヤニ」
ソロンは首を振ってナチの方を見やる。
怪我をした者達の中で最も急を要していた二人を治療し終えたナチは、遠巻きにする村人達の自分に対する怯えたような様子に、他の怪我人を治療していいものかどうか量りかねて手持無沙汰に周囲の様子を観察していた。
話が自分に向けられたのを見て取って、ナチはヤニとソロンに向かって歩み寄る。
「え、お、おん―――」
「ヤニ!」
なにかを言いかけたヤニをソロンが一喝する。
「こいつらを倒して、ダーサとネストルを治してくださった方だ……! 失礼のないようにしてくれ!」
緊迫した顔付きで言ったソロン。ヤニは血に染まった衣服を身に着けた男女を見やって、汗の浮かんだ顔に困惑した表情を浮かべる。
彼らの足元の地面には大量の血が染み込んでいる。なのにその中心に立つ彼らの血色は良好で、動きにおかしなところもない。痛みを堪えている様子もない。まったくの健常そのものだった。
ナチはぎこちなく立ち上がろうとするソロンを制して彼の側にしゃがんだ。
「あなたもお怪我をされているとお見受けしました。治しても?」
「あ、いや、私は―――」
「ご自分で治癒することが可能でしょうか。でしたら差し出がましいことを―――」
ソロンは何故か、泡を食ったようにナチの言葉に目を剥いた。隣でヤニもぎょっとしたようにナチを見る。遠巻きにしている村人達がざわめいた。
「いえ! 俺が治療なんてとんでもない! 誤解です!」
弾かれたように立ち上がって、必死に否定するソロン。
真新しい血の匂いがする。傷口が開いたのか。ソロンの顔が苦痛に歪んで身を強張らせるも、彼はナチに弁解するのを止めようとしない。
「そんなつもりじゃなくて―――そもそもできないんです、本当に―――俺は治すことなんて―――」
そう、弁解だ。ソロンは弁解していた。
蒼褪めたソロンの様子は、まるで冤罪で死刑判決を告げられた囚人のようだった。
「どうか落ち着いてください。あなたはご自分の怪我を治癒することが出来ないと、そういうことですね? わかりました。―――良かったらお手伝いさせてください。縄がほどけてしまっていて……」
しゃがんだまま、ソロンの手の中にある縄とソロンを見比べると、ソロンはぱくぱくと口を動かして、量りかねたようにナチを見る。
「あ、あの、―――あ、いえ私も……」
おずおずと再びしゃがんで縄を握るソロン。その位置はナチから微妙に離れている。ナチが差し出した手に、戸惑ったように縄を渡した。
なるべくソロンに負担をかけないようにして、ナチは厳重に男を縛り上げていく。ソロンとヤニは、そんなナチの様子をちらちらと窺いつつ黙々と手を動かす。その顔には隠し切れない困惑が浮かんでいた。
「―――お父さん!」
一人目を縛り上げ、二人目に取り掛かったところで、安堵したような声と共に一人の少女が駆け寄って来た。
焦げ茶色の髪をした利発そうな面差しの十代半ば程の少女である。手には縄を持っている。見覚えのある少女だった。ナチがここに着いた時、男に服を切り裂かれて乗られていた少女だ。
「何処行っちゃったかと思って、家にいないから何処かであいつらにやられたのかと―――」
「やられやしねぇよ、シーマ!」
鼻を鳴らしたヤニに、シーマは微笑んで頷く。それからナチの方へとおずおずと近付いて、地面に縄を置く。
「ありがとうございます」
「あっ、い、いえこのくらい、大したことじゃないです!」
慌てた様に頬を染めてシーマは言った。ナチからそろそろと離れて、気を取り直すように周囲を見回す。そしてシーマは遠巻きにソロン達を囲む村人達に気付いて眉を吊り上げた。
「それで、あなた達はなにしてるの? 怪我してるソロンさんがこいつら縛って、どうしてあなた達はなにもしないの?」
「そ、そりゃあ―――」
「そいつが蒔いた種だろうが! なんだってこいつらがここに来たと思ってやがる! そいつがやるのが当たり前だ!」
一人の村人が憤然とシーマに言い返す。気まずそうに顔を伏せる村人も、ひそひそと囁きを交わす村人も動こうとはしない。
ソロンを庇うように毅然と立ち塞がるシーマを、村人の一団が反感を込めて睨みつける。
「お優しいことだ!」
「あんた達は意気地なしよ!!」
「なんだと!?」
「―――ああ、それともお前にとっちゃこれは幸運だったのか? そうだよなぁ、ソロンのヘマのおかげでお前の父親のやったことが目立たなくなったもんな!」
「なっ―――」
吐き捨てられた言葉に、シーマは打たれたように一歩下がった。
「おい、言い過ぎじゃ―――」
「なにが言い過ぎだ、ああ!?」
「あ、あたしは、―――あたしのことは、今は関係ないでしょう!? あんた達がそんなんだから―――」
一瞬怯んだことを恥じるように声を荒げるシーマ。彼女を制止したのはソロンだった。
「シーマ、良いんだ」
「で、でもおじさん……」
「ありがとう、シーマ」
シーマに歩み寄ったソロンは肩を叩いてシーマを自分の後ろへと下がらせた。村人達を見回して、なにも言わずに踵を返す。
男達を縛り終わったナチは、立ち上がってソロンに近付いた。
村長と呼ばれているソロンがこの集落の代表者だと当たりを付けたのだ。尤も村人達に代表者として認められているかどうかは定かではないが、そんなことは些細なことだった。この中でまともに話せそうな人物はソロンしかいない。
「お手数ですが、少しお時間よろしいでしょうか?」
「は、申し訳ありません、見苦しいところをお見せしてしまって……。もちろんです」
顔付きはしっかりしている。話すのに支障はなさそうだが、今もソロンの色を失った顔には痛みを堪えるように汗が浮いている。彼から漂う血の匂いも先程よりも濃い。
「ですがその前に、差支えなければお怪我の治療をさせていただけませんか? あなたのお怪我は歩き回れる程軽傷には思えない。他の皆さんも、よろしければご一緒に」
「あ、ありがたいことですが、私共にはあなた様に差し出せる物は……」
「あなたは安静にしているべきだと、そう思います。しかしわたしはあなたからお話を伺いたい。つまりわたしの都合です。お気になさらず」
幸いにもこの襲撃で死んだ者はおらず、突如現れた異分子にどう接したものか戸惑っていた村人達も、治療が終わる頃にはナチの質問に照れくさそうにしながらも答えてくれるようになっていた。
邪魔になるようだったら捨ててくれて構わないから、と小さな壺に入った蜂蜜をくれたのはソロンを睨みつけていた一団の一人だった。ソロンに聞けば、蜂蜜とは彼らにとってなかなか買えない贅沢な嗜好品らしい。これは彼のとっておきですね、と言ったソロンが浮かべる微笑みは寂しげだった。
「汚い場所で申し訳ありませんが……」
「いえ、こちらこそ無理を言ってしまって」
話の場としてナチが案内されたのはソロンの家だった。
村の中に家屋の中では一際大きな家である。とはいえ他の家と造りが違う訳でもない。粘土の壁と藁葺きの屋根、四角く切り取られた窓にガラスはなく木戸で閉じるようになっている。大きいといっても、部屋の数は二つしかない。他の家がどれも一室しかないから相対的に大きく見えるだけだ。
通された部屋の中央には木製のテーブルがあり、それを挟んでやはり木製の長椅子に座ってソロンとナチは話していた。テーブルも椅子もくすんでいて、あちこちに傷がある。地面が剥き出しになった床には炉が掘られており、どこもかしこも煤で汚れた、調度の少ないがらんとした部屋だった。
縛り上げられた男達はこの部屋の隅に転がされている。
「では、彼らは法に背く集団なのですね? 彼らの行いは罪であると」
「当然です! あんな奴らが許される訳が、許されていい筈がない―――!」
ソロンの話によると、男達は盗賊の一味なのだそうだ。彼らが現れたのは三か月程前のこと。人数が多く、気付いた時には村から出る唯一の道が封じられていたらしい。幾度か迂回して脱出し外に助けを求めようとするも、ことごとく捕えられ、痛めつけられ、ある者は戻らなかった。盗賊達に殺されたのか、森の獣に食われたのかはわからない。
「村から出ることは出来ないのですね」
「……いえ、奴らの監視付きならば。私達が外に漏らさないように見張っているんだ」
「外に出ることを許すのですか?」
「この村はオリーブを育てて、油を作って売ることで暮らしています。人が真面目に働いて得た物を奪って自分の腹を満たすような連中に、商売なんぞ出来る筈がない。私達に稼がせて、それを通行料やら護衛料やらばかばかしい言いがかりをつけて持ってくんだ……! 油だけじゃ生きられない。食い物を手に入れなきゃ飢えて死んじまうから、私達はそれでも外に行くしかない……!」
窓の外にはオリーブ畑が広がっている。その合間を縫うようにして、僅かに野菜や雑穀の畑、葡萄の木がある。村の中には鶏やヤギの姿もあったが数が少なく、村人全員の食事を賄えるようにはとても見えなかった。
村人達は全体的に背が低い。ナチが見た中では今目の前にいるソロンが一番大きく、それでも百七十センチ程しかない。太っている者はおらず、危険な程痩せ細った者がちらほらといる。
老人の姿もない。一人もいないのだ。少なくとも六十を超えているように見える者は誰もいない。
村人達が身に着けているのはつぎはぎだらけの色褪せた服。皆似たような服装をしている。村を吹き渡る風は冷たく、気温は陽が照っている現在でも十℃に届かない。なのに彼らは麻布の服を何枚か重ねただけで、毛皮なりなんなりの暖かそうな格好をしている者は少ない。寒風に身を縮めて腕を擦ったりしていたので、寒くない訳ではないのだろう。
自分達が生きていくのがやっと。この村をざっと見たところナチはそんな印象を受けた。
ここからなにか奪おうとすることは、干からびた雑巾を絞るようなものだ。
家の周りに集まってナチとソロンの様子を窺っていた村人達の間から呻くような声が上がる。
「それだけじゃねぇだろ、村長……!」
「あいつら、俺の妹を浚いやがったんだ!」
「俺の親父だって殺された! 売る度にあいつらに持って行かれちゃ俺達に食わせられねぇって、森を抜けようとして!」
「村長、この冬、全員で越えることは、もう出来ねぇ……! この先あいつらになにも奪われなくても、だ!」
村人達からソロンへと、再び責めるような視線が向けられる。
ナチが目で尋ねると、ソロンは悄然と肩を落として話し始めた。
「私が愚かだったのです。このままでは村が滅びてしまう。だから狩小屋から立ち退けとは言わないが、しばらくは通行料など取らないで欲しいと。彼らは私に約束しました。言われただけの物を持ってこれたらこの村から立ち去ると。連れ去った娘達も返してくれると………ッ確かにあいつらはそう言ったんだ! あいつらだって、俺達がくたばっちまえば元も子もない! ―――だから俺は、村中からかき集めて、あいつらがいなくなれば伝手を頼ってなんとか冬を越せるだけの物を融通して貰って、村を立て直せると、立て直せると……」
言っている内に感情が昂ぶってきたらしく、ソロンは大きく息を吐いて俯いた。顔を覆った手の平の向こうで震える呼気が空気を揺らす。
「村長……」
「最初からあいつらは交渉するつもりなんかなかったんだ。あいつらが話の通じるような相手だと、思った俺が馬鹿だった……! そんなことはちょっと考えりゃわかることだったのに……」
「そんなに自分を責めないでよ、おじさん……。仕方ないじゃない、だって、エフィが……」
そう言ったのはシーマだった。堪りかねたように家の中に入ってきて、ソロンの肩を抱いて擦る。ソロンはこみ上げてくるものに耐えるように唇を噛み締め、目を瞑る。
「―――不躾ですが、お二人は……」
「あ、ああ。失礼しました。この子はシーマ、私の友人の娘です。私の娘とも仲が良くて……」
「ヤニさん、という方でしたか」
ヤニは灰色の髪の隻腕だった村人だ。彼の腕が断ち切られた傷跡は既に塞がっていて、この襲撃でつけられたものではないようだったが、襲撃の傷を治すついでにナチが村人達の病気や怪我を治療した為現在は両腕が揃っている。
村人達の中で怪我や病気を患っている者は予想以上に多かった。なんと村人の三分の二以上がなんらかの疾患、或いは怪我をしていた。まともな医療施設―――彼らが使用できるような医療施設がないらしい。薬も効くのか効かないのか効果の怪しいものばかり、それすら不足しがちという凄まじい状況だったのである。
そして村人達には例外なく虱やダニや蚤などが集っていた。
埃とフケと脂にまみれて固まった頭髪には虱や蚤が潜り込んで巣を作り、全身に湿疹や蚤、ダニの噛み跡がある。掻き壊した跡のかさぶたや膿んだ傷口、おできなどでどの村人の肌もでこぼこしていた。
ひどい状態だが、村人達にとって虫が身体に巣くっているのはごく当たり前のことらしい。
この村の住民はおよそ三百人。その三分の二は二百人。途中から一人一人診るのが面倒になったナチが一気に回復したところ、何故かうっとりした眼差しで見つめられた。妙に熱を持った視線だった。
「はい、腕を治していただいたヤニです。あいつは昔から一番仲の良かった友人でして、事ある度に私を助けてくれる、頼りになる男です。村がなんとか持っているのもあいつのおかげでして……」
「それは?」
「賊共は最初、道を通る度に全ての荷物を奪っていきました。このままでは飢えてしまうと言って、ようやく返されるのが荷物の一割程。それも借金という形で……。馬鹿な話です。私達が働いて育てて手に入れた物を、借りなければならないのです。とんでもない利子をつけて。―――奪われるのを、連中は護衛料だのとふざけた名前で呼んでいますが、ともかく全てを盗らせないようにさせたのがヤニです。ヤニがいなければ、今頃何人が飢えて死んでいたか……」
「その、利子というのは帳消しに?」
ソロンは力なく首を振った。
「とんでもない。あいつらは今でも利子を払えと村にやって来て好き勝手に……」
「……娘さんは?」
シーマが叱られたように身を震わせる。
「あ、あたしの所為だ。あたしを庇って、エフィはあいつらに連れて行かれて……!」
「村の女性を攫うのですか、彼らは」
「利子を払うまで働いてもらうと……。ですが………」
村人達の間から叫ぶような声が上がる。
「もうあそこにいるもんか!! あいつらが娘達を連れて外に行くのを見た奴がいる、帰ってきた時にゃ娘達はいなくなってた! 売り飛ばされたんだ! あんた、ヤニについても言ってないことがあるだろう!! 俺の娘はヤニについて街へと行った、なのに帰ってきたのはあの時街に行った中でヤニだけだった! 俺の娘は何処に行ったんだ!? お、俺の好物のリンゴを買ってくるって言って出かけた娘は―――」
叫び声が涙混じりになって、叫んだ村人が耐えかねたように走り去る。
重い沈黙が落ちた。
「……だが、ヤニも片腕を失った。その時ヤニが片腕を失いながらも交渉して、それでやっと少しはマシになったんだ……」
「ああ。だが、今のあいつにゃ言ってやるな。―――すまないな、ヤニさん。だが、あんたはこの村の中で村長の次に強い。あんたがいながらどうしてと、皆そう思っちまうんだ……」
今にも倒れそうな顔色で固まっていたヤニは、かけられた言葉にぎこちなく頷く。幾人かの村人達から向けられた気遣うような視線を避けるように顔を伏せた。
襲撃から時間が経って、ささくれ立っていた村人達の様子は、ある程度落ち着きを取り戻していた。
「彼らは人身売買を? 辛いことを伺いますが、なにぶんわたしはこの地に詳しくありません。お許しを。攫った娘を売り買いして許されるのですか? この地を治める方はそのような狼藉を看過すると?」
尋ねたナチをまじまじと見つめて、ソロンはふと苦笑する。
「……お偉い方々は、私達のことなんか気にしやしません。税さえ納めていれば、納める者の顔が変わったところで気付かないでしょう。お役人に訴えようとしたところ、散々待たされた挙句門前払い。外で待っていたのは盗賊でした。……盗賊共も、それをわかっているのです。あいつらが下手を打ってお上に目を付けられでもしない限り、こんな小さな村まで討伐隊がやって来ることなんかない。仮になにか奇跡が起こって討伐隊が送られたとしても、それが盗賊よりマシだとは限らない。送られてきた討伐隊は、この小さな村を食い尽くしてしまうでしょう」
ソロンの口調に怒りはない。そこには静かな諦観があった。村人達もそれに対してなにを反論する訳でもない。怒りを露わにする者もいるが、大半はソロンと同じように諦めたような、遣り切れないような顔で頷くだけだ。
もっともうっかり不法侵入、もとい不測の事態によりやむを得ず異郷の地に迷い込んだナチとしては、彼らの間に信頼関係がないことは都合がいい。
「では、彼らが法で裁かれるのを待つ、ということは期待できないのですね」
「村が死に絶えた頃に、税の取り立てにやってきたお役人によって村の農民が夜逃げしたと………そう記録されて終わりでしょう」
皮肉っぽく唇を歪めるソロンの、年の割に深い皺の刻まれた顔に暗い影が落ちる。シーマがソロンの肩に縋って泣き崩れる。村人達の間からも啜り泣くような声が漏れた。盛大に鼻を噛む音も聞こえる。
弱弱しい泣き声を上げるシーマと目が合ったので、ナチはアルカイックスマイルを浮かべておいた。とある信仰対象が像でよく浮かべている慈悲深い微笑みだ。こういう場面にぴったりに違いない。
シーマはぴたりと泣くのを止めて、焦ったように目を逸らした。効果は抜群のようだ。
ともかく、権力の目が届かないというのなら好都合だ。ナチは盗賊達の一味に攻撃を仕掛けた。ならばこれは既にナチの戦いである。村人達の事情はこの際二の次だ。
「―――盗賊達が何処にいるのか、教えていただけますか?」
部屋に響いていた泣き声が一瞬にして鎮まる。自分に集まる視線を受けて、ナチは唇を笑みの形に吊り上げた。