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ハオサーク  作者: 桜前線
16/25

再会

 少女が生まれたのは、黄泉の軍勢を人の世に入り込ませぬよう堰き止める戦地だった。




 神代の昔、ある一柱の神があった。

 その神の御名は須佐乃袁尊。

 黄泉より帰還した伊邪那岐命から産まれた三貴子の末子。

 海原を治めよと父に命ぜられた男神。


 海原の果て、黄泉から湧き出す悪鬼羅刹の軍勢は千引石を打ち砕き、国産みの母が刻んだ死の呪詛を振り撒かんと現し世へ向かい進軍する。

 黄泉の闇から湧き出す軍勢は殺せども殺せども尽きることがない。

 日が沈み、再び夜がやってくるように。

 それはまるで、打ち寄せる波のように。


 誰かが堰き止めねばならぬ。

 だが神々はいずれ常世の国に渡るが定め。

 三貴子である須佐乃袁尊もまた、海原を去る時が来る。


 そこで須佐乃袁尊は自らの血肉を捏ね上げ一人の男を創った。

 その男、人にあらず。神にもなれず。

 須佐乃袁尊は男に息吹を吹き込む。


『そは我の意を継ぐもの。その血は玉の緒を紡ぐもの』


 初代黄泉司の誕生である。


 更に須佐乃袁尊は千の民を防人とした。

 千の空蝉は火と槌によって海原に迎え入れられる。

 防人を生み出し育んだのは葦原の地。

 千の民、故郷たる葦原を守るべし。

 須佐乃袁尊の詔である。



 海原と呼ばれる彼岸と此岸の狭間。

 防人達は黄泉司に率いられ悠久の闘争を戦い抜く。

 彼らは何時しか自らを『道反しの剣』と称するようになる。


 ――押し寄せる軍勢を打ち滅ぼし、黄泉を平定すること。


 それが海原の民が抱く悲願だった。


 少女はその海原に、当代の黄泉司を父として産まれた。

 とはいえ少女の名は一族の系譜に存在しない。

 彼女は久那斗として産み出された故に。


 久那斗――それは数十年に一度、道返しの剣達が切り拓いた道の先に重ねられる塞の石。


『此処より先は我ら生者の領域である』


 彼方と此方を隔てる境界線となる役目を帯びた巫覡。

 塞の石となった後、彼女らは久那斗神として祀られる。


 久那斗は通常自我を持たずに生まれてくる。

 道反しの剣達の刻んだ道を抱えて往く彼らは、膨大なそれを受け入れられるよう、その身の内が生来虚ろにできている。

 だが、少女には自我が存在した。

 少女の前に自我を持つ久那斗が産まれたのは長い歴史の中でもたった一度、少女の先代の久那斗のみ。

 その先代によって引き起こされた未曾有の大災害――『崩落』と呼ばれる災禍を受けて作り上げられた歴代最高傑作。


 それが少女である。


 少女によって海原の民の悲願は一部叶い――そして永遠に潰えた。

 黄泉つ軍の進撃は止んだ。

 戦い始めて幾星霜、彼岸と此岸の狭間に初めての平穏が訪れた。

 同時に、黄泉への道は閉ざされた。


 少女に与えられた名は那智。

 塞の石となる儀式の後も生存する二人目の久那斗にして、剣を持つ初めての久那斗である。










 見渡す限りの荒野を那智は駆けていた。足下の草が風圧で千切れて舞い上がり、けれど那智に追いつくことが出来ずひらひらと虚しく落ちていく。

 太陽は既に西に傾き、荒野は黄昏に沈んでいた。極彩色に染め上げられた空を巣へと帰る鳥が飛んでいく。

 ここは街道から大幅に外れた地点。

 周囲に人の姿はなく、女である那智が風を巻き上げて走っても見咎める者はいない。

 彼女の速度は走り始めた時から変わらない。まるで精密機械のようだった。兎の巣穴や茂みがそこかしこにある自然のままの地面を飛ぶように駆け抜けていく。


「!」


 しかし不意にその疾走が途切れる。なんの前触れもなく那智は停止した。音は立たない。一拍遅れて土煙だけが巻き起こる。わずかの停滞もなく那智は踏みしめた足で地を蹴った。一気に五百メートル程後退する。

 那智は前方の空間を見据えた。那智から力――ハオサークの住人が魔力と呼ぶもの――が噴き上がり、瞬時に身体を覆い尽くす。

 周囲の空気が帯電したようにぴりぴりと緊張する。転がった石が空間を埋め尽くす力の圧力で弾け飛んだ。一時だけ吹き荒れた風は、今は息を殺すように沈黙している。


「――」


 那智の見据える先に目に見える変化はない。なんの変哲もない空間だ。

 だが那智の感覚はなにか異様なことが起ころうとしているのを感じ取っていた。


 那智が臨戦態勢に入るのに少し遅れて、なにかを引き裂くような音が聞こえてくる。鋼鉄を無理矢理引き千切っているようにも聞こえるし、幾千枚も重ねた和紙を破いているようにも聞こえる。空間ごと切り裂いているかのような異様な音だった。

 それと前後して飛び退る直前に那智が居た場所に真紅の炎が現れる。舞い散る花びらのような美しい炎は、しかし不吉な予感を強烈に漂わせている。その色は幾千もの人の血を吸ったかのような真紅だった。

 大きくなったり小さくなったり。炎はまるで消し去ろうとするなにかに抵抗しているかのように揺れる。

 ぐわりと炎が膨らむ。抵抗する力を真紅の炎が押し切った。


 世界が裂けた。


 空間に横一直線の亀裂が走り、それを押し広げるように深い深い紅の炎が亀裂の縁を舐め上げる。

 ぱっくり開いた隙間の向こうには異界があった。視界に入れている筈なのに、そこになにがあるのか認識出来ない。底知れない雄大な力が遥か遠く、何処までも満ちていた。激しく渦巻いているのに、あまりにも規模が大き過ぎてゆっくりと波打っているように見える。


 ――海原。


 彼岸と此岸の狭間。あらゆる生命の還りゆく場所。


 亀裂から炎が噴き出し、爆発的に広がって渦巻きながら荒野を覆い尽くした。

 今度は二色。荒々しい勢いの真紅の炎と、それを押し留めるように纏わりつく鮮やかな緋色の炎。

 沈みかける夕陽の代わりのように、地上に現れた灼熱の太陽。

 一瞬にして荒野が煉獄へと変貌し、二色の炎が那智の身体を呑み込む。

 次の瞬間、亀裂から二つの影が飛び出した。

 凄まじい速度で迫るその人影を認識し――那智は身体の構えを解く。

 直後、身体に走った衝撃に、那智は意識を手放した。







 飛び出した人影の内の一人、十八程の年頃に見える少年が意識を失った那智をその腕に捕らえた。全身にざっと視線を走らせて状態を確認する。ぐったりと力を失くした豪奢な衣装に包まれた身体。”力”の動き、呼吸、反応、全てが意識を喪失していることを示している。


「……大丈夫だ。完全に落ちてる」


 可視不可視と問わず、少年と那智の周囲に幾重にも展開されていた術が音もなく消える。鮮血のような紅い鬼灯を咲かせた八重垣がはらはらと散り落ちた。その向こうから現れたのは二十半ばの年頃の青年である。

 彼は氷のような無表情で那智と少年を一瞥し、そして手に持った刀で辺り一帯の炎を薙ぎ払う。真紅の炎と同じ色の刀身の一振りで炎の海は掻き消えた。


 後には草一本すら残っていない焼野原となった荒野が現れる。高温で熱せられた結果、溶け出した地面が透明になって夕陽に朱く輝いている。黄昏に燃える空が丸ごと地面に写し取られたようだった。


 その中に一部、奇妙な場所がある。ちょうど横一直線の亀裂が走った近くの地面だ。

 とろりとした透明の地面に周囲を囲まれる中、その辺りは切り取られたようにくっきりと焦げ茶色の土が残っていた。地面を煮え立たせる灼熱もそこには届かなかったようだった。

 ただ、そこにもやはり草や茂みは残っていない。生命を持つものは全て、跡形もなく消し去られていた。まるで虚空に溶けてしまったように。


「記憶は……読み取れる。こっちに来てからのはな。思考は相変わらず駄目だ」


 那智の頭に手を当てた少年が言う。青年の切れ長の目が冷たく細められた。


「だろうな。……フン、知られて困るようなことはない、という訳か」


 少年と青年はよく似ている。声も、その人間離れした秀麗な容姿も。


 少年の名は紅。

 青年の名は沙伊。


 彼らは海原の民、鬼灯一族の嫡流に生まれた兄弟だ。

 鬼灯一族は海原でも屈指の名門であり、黄泉司の一族から幾度も降嫁を許されている。

 黄泉司の一族は皆揃って異様に美しい。

 その理由は神の血を引くからとも、黄泉司となる子供が産まれる際に行われる神事が原因だとも言われている。

 それ故、黄泉司の一族の血も、沙伊と紅に色濃く引き継がれている。


 そしてその彼らより美しいのが那智だ。

 彼女は当代黄泉司の娘。系譜に名はないものの、血筋でいえば黄泉司の直系。更に彼女は久那斗だ。


 ――彼方と此方の境界線。自我を持たぬ塞の石。


 久那斗もまた、必ず美しい容姿を持って産まれてくる。久那斗を産み出す際の神事が黄泉司が産まれる際の神事と似ているからか、あるいは人でありながら自我を持たない神子だからなのか、原因は定かではないが、ともかく久那斗は美しかった。


 人を狂わせる美しさ。


 黄泉司の美しさが全てを圧倒する美だとすれば、久那斗の美しさはそれだった。


「……こいつがこっちに来てから三日分の記憶しかない」

「改竄している気配は?」

「今のところ不審な箇所は見当たらないな。もっとも、こいつが隠すつもりなら読み切れるかどうか……」


 とはいえここにいるのは子供の頃から那智を知る二人。加えて彼らは美しさに呑まれるような性格ではない。故に彼らは淡々と為すべきことを遂行する。

 と、周囲を警戒していた沙伊が視線を一方向に固定した。


「――なにか来る。少し目立ち過ぎたか」


 紅は無言で周囲を見回した。

 遥か遠くまでガラス化した荒野。


「……なるほど、一考に値する考察だな」


 すぐに気付かなかった自分自身に盛大に顔を顰めつつ舌打ちする。――どうやら自分は思ったより疲れているらしい。


「――移動するぞ。残留する力は俺が処理しておく。お前は那智を連れて先に行け」

「戦闘になりそうか?」

「いや、この速度なら鉢合わせすることなく離脱出来る。方角はあちらだ。――行け、紅」

「了解」







 風が木々の間を吹き渡っていく。鼓膜を優しく揺らすその音に導かれるようにして那智は目を覚ました。

 眩しい光がいっぱいに広がる。頭上に煌々と輝く光球が浮かんでいた。その向こうには土色の天井、背中には柔らかな敷布団。身体の上にかけられているのは暖かな羽根布団。そして両手首には冷たい金属の感触。持ち上げてみると鎖がじゃらりと音を立てる。どうやら手錠をかけられているようだった。

 意識を失ってから六時間程過ぎている。意外と早かったな、と那智は思った。


「目が覚めたか」


 低い声が響く。横たわる那智の横、腕を組んで壁に背を預けた沙伊から発せられたものである。冷たく凍えた氷塊のような声。


 二十畳程の部屋の中央、美しい刺繍が施された純白の布団の上に那智は横たわらされていた。髪や首につけていた呪具は外され、靴や上着も脱がされている。那智の布団がある場所だけ畳が敷かれており、それ以外の床は天井と同じく土色をしている。壁も同様だ。一見ただ土を固めただけのように見えるが、その手触りは陶器に近く、触れても土で汚れることはない。


 ここは沙伊の術によって建てられた簡易寝所の一室である。

 簡易の名に相応しく室内の造りは簡素だった。那智のいる部屋に窓はなく、それどころか扉すらない。四方は全て継ぎ目のない壁で囲まれている。部屋の周囲には幾重にも術が施されていた。外からの侵入を防ぐ術ではない。内部からの逃亡を阻む術だ。


 沙伊と反対側の壁際には目を瞑った紅が片膝を立てて座っている。刀を抱えたその腕はぴくりとも動かず、しかし眠っているというにはあまりにも怜悧な気配を放ち、周囲を静かに威圧する。彼の琴線に触れればその瞬間、一刀の下に切り捨てられるだろう。


 那智は布団から身を起こした。両手首を繋ぐ太い鎖がじゃらりと鳴る。それぞれの手首から伸びた鎖は途中で一本に溶け合い、床へと繋がっていた。鎖の先端は完全に床と一体化しており、立ち上がれるだけの長さはない。

 那智は目だけを動かして沙伊を見上げる。唇に笑みを刷いた。


「目が覚めたということは、まだ命を繋いでも構わないのか?」

「違うと言ったらどうする?」

「従おう。櫂儺の剣よ」


 沙伊はゆっくりと目を細める。室内を照らす光が漆黒の瞳に入り込んで鈍い輝きを放っていた。


「殊勝なことだ。……幾つか質問に答えてもらおう。お前は何処かへ向かっていたな。何処へ行こうとしていた?」

「『海』と似た――いや、同じ気配を感じる場所が幾つかある。その内の一つに向かおうと思っていた」

「ここが『海原』と同じだと?」

「現れ方が違っている。こちらは現世に表出するような形で存在しているように感じる」


 沙伊が壁から背を離し、那智の元へと歩み寄る。足音はなく、衣擦れの音もしない。

 座る那智を見下ろす。ぶつかるよく似た、けれどなにかが決定的に異なる漆黒の瞳。


「なにをするつもりだ?」

「確かめたいことがある」

「なにを確かめる」

「行けばわかる」

「ここで言うつもりはないのか」

「ない」

「そんな言葉が通用するとでも?」

「さあ。わたしはどちらでも構わない」


 那智の手首に喰い込む銀色の金属の輪に、血に染まったような真紅の輝きが纏わりついている。


「海原に戻るつもりはあるのか」

「黄泉司の血を引く久那斗が海原を捨てて何処へ行くと言う」


 しばしの沈黙の後、沙伊はふと那智から視線を外した。手錠に込められた沙伊の”力”が解けて消える。錠が開かれるような音が何重にも重なり、手首に嵌った金属の輪に線が走る。細かくわかれたパーツが歯車のように噛み合わさって手錠の広さが広がった。両手首と床を繋ぐ鎖が溶けるように消えて、手首に嵌った銀の輪だけが残る。


 広がった輪から那智の手がするりと抜けた。真紅の輝きを放つそれを拾い上げ、沙伊に差し出す。それを受け取ろうとはせず、沙伊は那智を見下ろした。昏く深い海の底のような瞳が那智を映し出す。


「お前に海原の見解を伝えておく」


 無感動な声が淡々と告げる。


「今回の件で、黄泉司は当代久那斗の処分もやむなしとの判断を下された。もう一人が生存している以上、現存する久那斗としての存在価値よりも生かしておく危険性の方が大きい」


 お前は少しやり過ぎた、と沙伊は言う。


「意志を持つ、海原に従順ではない久那斗を制御することは困難であると――前々からその手の主張は一定数あったが、今回お前が出奔したことで黄泉司も決断された」


 当代の塞の石の儀式の後、死亡したと思われていた先代久那斗が帰還した。そしてその少し後、当代久那斗もまた帰還した――いや、正確にはさせられた。

 先代久那斗は『崩落』を引き起こしたが、そこに彼女の意志はなかった。彼女は塞の石として海原に従い、背くことはなかった。『崩落』の責は久那斗を導く櫂儺の剣へ向けられた。


 当代久那斗は違う。黄泉への道が閉ざされた後、海原はその原因を徹底的に調べ上げた。結果、当代久那斗がなんらかの意志の下に独自の行動をとっていたことが明らかになる。騒然とした海原に当代櫂儺の剣の証言が落とされた。曰く、「当代久那斗はまだ死んでいない」と。

 先代久那斗の例もある。信憑性は高いと見做した海原は当代久那斗を『海』より引き戻すことを決定し、それは当代櫂儺の剣とその弟によって試みられ、成功する。


 だが、当代久那斗は決してその目的を明らかにしようとはしなかった。あらゆる手段を尽くした後、海原は当代久那斗に口を開かせることは不可能であると悟る。『海』より引き戻されて以来身体が衰弱し、満足に動くことも出来なかった当代久那斗は半ば捨て置かれる形で櫂儺の剣の預かりとなった。

 海原の中枢にて行われる評議の場で当代久那斗のことが話題にされなくなってしばらく、当代久那斗は再び海原に背く。


『当代久那斗の出奔』


 久那斗を作り上げるのには長い時間と大きな代償を払わねばならない。故に海原はみすみす殺してしまうことを惜しんだ。しかし当代久那斗は再び海原の意志とは外れたところで動き始めた。

 もはや見過ごすことは出来ない。そう判断した海原は当代久那斗捜索の命を下す。当初意図的に逃亡を見逃したのではないかと嫌疑をかけられた当代櫂儺の剣は捜索から外されたが、当代久那斗の行方は杳として知れず、組織された捜索部隊では影すら掴めない。結局当代櫂儺の剣と、彼の久那斗を『海』より引き戻した際共に実行したその弟が捜索に加えられることとなる。


「海原に帰り次第、お前は査問にかけられる」


 一柱の久那斗に一振りの櫂儺の剣。

 自我を持たない久那斗を管理し、育て、塞の石へと作り上げる存在。

 久那斗が産まれた時より共に在り、塞の石として自らの久那斗を黄泉へ投じる役目を負った者。

 沙伊は那智の櫂儺の剣だ。

 久那斗を殺すことが出来るのは櫂儺の剣のみ。それは神代より定められている掟だ。たとえ黄泉司でも久那斗を手にかけることは許されない。


「己の立場を弁えることだ」


 那智はそれには答えず、かすかに首を傾げた。周囲には相変わらず露骨に感覚に訴えかけてくる”力”が満ちている。


「では何故未だにこの世界に留まっている? 立場を弁えるのであれば、確保してすぐ海原に帰還すべきでは?」

「そうしたいのはやまやまだがな、帰還する為にはまずその方法を確立しなければならない」

「帰路を作らぬままここに来たのか」

「界を渡る術など存在しない。そもそもこのような異界が存在することすら証明されてはいなかった。帰還に成功すれば俺達は初めての例となる訳だ」

「異界に関する証言ならば数多くあるだろう。もっともそのほとんどは『海』が見せた幻影として片付けられているが」


 『海』――彼岸と此岸の狭間に揺蕩う場所。彼の世ではなく、此の世でもなく、黄昏の世。

 命が溶け合い、混ざり合い、還ってゆく場所。

 其処では自身の存在すら定かではない。迂闊に深みへ迷い込めば『海』に呑み込まれて溶けてしまう。五感は己を欺き惑わせ、其処に在るものは果たして現か幻か、それは誰にもわからない。


 沙伊と紅がこの世界に渡ることが出来たのは、櫂儺の剣である沙伊が自らの久那斗である那智との繋がりを辿ってきたからだ。海原とこの世界を自在に行き来する術は持っていない。


「ではどうするというのだ、櫂儺の剣?」

「お前は運がいいな、久那斗。お前が行こうとしていた『海』が表出している場所――そこに向かう。こちらの『海』とあちらの『海』――お前がここに現れた経緯を見てもなんらかの繋がりがある筈だ。お前は『海』からそのままこちらの世界に落ちた。ならば何処かに繋がる道がある」


 ついでに、と沙伊は目を細める。


「お前の目的も見させてもらおう。弁えろよ、久那斗。黄泉司からはお前の行動があまりに目に余るのならば、その場で処分するも致し方なしとの御言葉をいただいている。――努々それを忘れるな」

「了解」


 沙伊は那智の手から手錠を抜き取り握り潰す。銀色の金属の輪は真紅の光の粒となって溶けて消えた。

 それを合図に静かに、けれど互いに一歩も譲らずぶつかり合っていた二つの”力”が収まる。那智は布団から起き上がり、紅は閉じていた瞼を上げた。


 追う者と追われる者、監視する者とされる者の関係は一旦棚上げされた。ここから先は未知の世界で行動を共にする同郷の仲間として、現状の認識を擦り合わせ意志を統一する必要がある。


「身体の調子は戻ってんだな、那智?」

「こっちに来てから完全に元通りになっている。戦闘するのに問題はないよ」


 馴れた調子で声をかける紅。それに答える那智の口調からも鋭さが抜け落ちている。

 当代櫂儺の剣である沙伊、そしてその弟である紅は塞の石となる儀式の前、最も長く那智と共に過ごした。

 沙伊と紅は那智の家族ではない。かと言って友人でもない。

 久那斗である那智には家族や友人は存在しない。

 家族でもなく、友人でもなく、だが決して他人とは言えない。


「らしいな。だが、喜んでばかりという訳にもいかないだろう。この世界、女の性を持つ人間が戦うにはいささか面倒が多そうだ」

「”半血の魔物”ってやつか」

「ああ。迷信か実在するのかはともかく、それに対する恐怖は本物だ。そしてこの世界では女の性を持つ者が戦闘に適さないというのもおそらくは事実なのだろう」

「そうだね。あのギルドの職員、彼の反応は明らかにわたしを無力な被保護者として扱ったものだった。色々と探ってはいたけれど、あの職員から感じたのは警戒というより困惑。わたしのことを完全に余所者――異邦人だと認識していたようなのに、随分と温い反応だった」


 紅が揶揄するような笑みを浮かべる。


「護衛をつけられそうになってたな、お前。呑気に構えてるからそうなる」


 那智もくすりと微笑む。


「下手の考え休むに似たり、だよ。どう対応すれば正解なのか、考えてもわからないなら堂々としていればいい。そうすれば相手が勝手に考えてくれる」

「単に外つ国の人間という扱いではなかったな。その正体に全く見当がつかない……驚愕、困惑、最後には納得していたようだったが、どうも妙な――そう、まるで俺達が術を使用したのを目撃した葦原の住人のような反応だった。世界に股をかけると豪語する組織の構成員があれだ。那智がギルドに足を踏み入れたその時、最初からあのギルド員は可笑しいと感じているようだった。言語か服装か振る舞いか……ともかく一目見て違うとわかる理由があったのだろう」

「この世界の住人を装うのは難しいか」

「無理だな。常識も習俗もなにもかもがわからない。形だけ装ってもすぐに露呈する。情報を汲み上げようにもこの世界の術がどのように発達しているかわからない以上、迂闊に手を出すことは避けたい。言語情報程度ならば緊急措置だったと言うことも出来るが……」


 紅は腕を組んで壁に寄りかかった。


「気を付けるべきなのは冒険者ギルドだろうな。役場よりよっぽど厳重でいい設備が整ってる。人員もだ。あのギルド員の対応、なかなか悪くなかった」

「ああ。タオスの街――あの街の様子とギルドの設備とを比べれば、あの街が大して重要な拠点でないことがわかる。その場所にああいった人材がいる。それだけとっても冒険者ギルドの精強さが窺える。末端の手足まで高い意識が行き渡っている組織は強い」

「手癖もなかなか……」


 那智は巻物から一枚のカードを取り出す。アウロラ・カード。朝日の色に輝くそのカードは透明な膜で覆われていた。


「こちらの位置がわかるようになっている。簡単に遮断出来るようなものだけれど」

「オイオイ、平和裏に済ますつもりじゃなかったのか? だからわざわざ行政の組織に接触したんだろう?」


 楽しそうな笑みを浮かべる紅に、那智は肩を竦めてみせた。


「さあ、なんのことだか。わたしはこのカードの追跡機能なんて説明されていない。言われていないものは知らないな。大体穏便に済ませることと無条件に腹を見せるのは違う。会ったこともない連中にただで首輪を付けさせてやるつもりはない」


 紅が愉快そうに喉を鳴らした。


「クク、まったくだ。礼儀知らずな連中だぜ」


 沙伊は空中を掴むように手を動かし、何処からともなく数枚の紙を取り出す。


「お前は”貴種”という種族だと思われているようだな」


 沙伊が取り出したのは那智がコスタスから受け取った旅券だ。

 タオスの街は沿岸部の港町ではないし国境沿いの街でもない。また商業都市でもなければ県や州の行政都市でもない。そんな小さな地方都市の執政官が異国人に国内を自由に移動する許可を出せる筈もなく、コスタスが那智に渡した旅券は臣民向けの物だった。コスタスはそこに那智の置かれた痛ましい状況(コスタス的には)を綴っており、その境遇に対する理解と正式な許可を求めていた。そこには那智のことが「異国の貴種」と書かれている。


「”貴種”か……ギルドの職員もそんなことを言っていた。村人の考える”貴族らしい服装”で”貴種”か。彼らが口にしていた”本物の貴族”という言葉……”貴種”とはこの世界の特権階級かな」

「かもな。だとすればあの慌てようも理解出来る。居る筈のない他国の要人が単身でうろついてるようなもんだったんだろ」


 紅はまるきり他人事のように「対応に当たらされた奴らも気の毒に」と呟く。


「問題なのはその”異国の貴種”とやらが国内に出現したというのがどの程度の重要性を持っているかだな。事務的に片付けられる事態なのか、それとも――」

「鬼が出るか蛇が出るか。ギルド員や役人連中の顔色を見るに、ただ審査されて退去命令って訳にもいかなそうだな。だが人を避けりゃいいって訳にもいかねェんだろ、那智?」

「『海』が表出している場所を囲むように街がある。何重にも術で守られていて、戦う者達の気配がする。割と強い人もいる……軍事都市みたいな感じかな」

「強い連中な。そりゃあいい」


 術を行使する様子もなく断言する那智。

 紅もまた疑う様子を見せない。


 黄泉司の娘であり、久那斗でもある那智の”力”への親和性は人を遥かに超えている。

 ”力”――海原の民が操るもの。

 ”気”、”息吹”、”通力”、”霊力”――場所や時代によって様々な呼ばれ方をする、世に存在する全てのものが持つ『なにか』。

 命から迸るもの。彼の世と此の世を巡るもの。

 風を、水を、大地を巡る”力”。それは遥か彼方の命の囁きを那智へと運んでくる。


「裏口から忍び込むのは玄関を叩いてからでも遅くはない。とりあえず正面から向かうぞ」

「転移は無しか?」

「無しだ。無断で転移など行えば敵対の意志有りと見做される危険性が極めて高い。現地の行政を蔑ろにするような行動はなるべく慎むべきだ……今はな。――こちらの世界の人間との差はどうする?」

「性別による能力の偏りか。そうだな……こっちの連中の出方次第だろ。ここで考えても仕方無ェ。――為政者側との接触はどうする?」

「それも状況次第かな。向こうの出方次第でこちらがとるべき行動も変わってくる」


 三人は目を見交わした。紅がするりと刀の鞘を撫でる。黒漆の鞘に艶やかに咲き誇る真紅の鬼灯。


「――ま、やってみりゃわかんだろ」



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