タオスの街 3
「申し訳ない、付き添いだというのにすっかり眠ってしまって……」
「連日の疲れが出たのでしょう。大丈夫です。問題なく換金し、わたしの依頼が可能かどうか尋ねることが出来ました。あのギルドの方、親切なのですね」
「いやぁ、他の役人達に比べりゃあんましひどくはないですけどねェ」
昼食を取り終え道の端で屯していた村人達と共に、ナチとソロンは教会へ向かった。といっても冒険者ギルドの近く、噴水の広場に面した教会ではない。目抜き通りから外れた路地、小さな家屋がひしめき合う一画に紛れるようにして建っている、薄汚れた小さな教会だ。
クレタス・マティ村の教会と同じ造りをしているが、こちらは村の教会よりずっと小さい。
蟻の通り道のような他の路地と比べて少しだけ広くなっている教会の前の道には、冬だというのに四人の汚れた人間が裸で横たわっている。真っ黒で干からび、痩せ細った彼らは性別も年齢も定かではない。
彼らは打ち捨てられた物乞い達だ。実入りの期待出来る人通りの多い場所を縄張りとする物乞い達―――その徒党からも弾かれ老いや病に苦しむ、かつて村人や街の住人だった者のなれの果て。
陽の光の一切差し込まない、身を縮めるのがやっとの広さの地下室さえ借りることが出来ず、明日路傍で冷たくなっていたとしても誰にも顧みられることはない。
服もなく、不潔で、どのような病を持っているとも知れぬ彼らは、通りへ出れば害虫のように追い払われ、慈悲を乞おうと近寄れば石を投げられる。
曲がりなりにも弱者の救済を教義としているサルヴァトル教会、その影に隠れるようにして彼らは裸の身体を丸めていた。
ここ以外、彼らの居場所はない。
その物乞い達は訪れた一団を見ると、いざり寄って「どうかお慈悲を……」と下げた頭の上に手を差し出した。
普段、彼らは人を見かけても慈悲を乞うことは滅多にない。
貧者への慈善を説くサルヴァトル教ではあるが、その教徒の大多数は貧民である。高貴な身分の者はもとより、平民でも裕福な者達はサルヴァトル教を敬遠する傾向があった。農民や下層の平民から成り上がった者も、大抵はサルヴァトル教から距離を置く。
世の大半のサルヴァトル教徒の、物乞いに対する視線は決して温かいものではない。職業的な物乞いの存在がそれに更に拍車をかける。
迂闊に声をかけると痛めつけられる危険があった。
彼らが頭を下げた先にいるのはナチである。ここは人の平等を謳うサルヴァトル教会の前。そこに現れた豪奢な身なりの貴人。後ろには村人らしき者達を引き連れている。
物乞いに暴力を振るうのは、同じく貧民であることが多い。裕福な者達はそもそも彼らに近付かないし、ごく稀にだが気前よく恵んでくれることもあった。裕福な者達は彼らを見ると顔を顰めるが、積極的に暴力を振るうことは少ない。
見たこともない程豪奢な装いの、しかもサルヴァトル教会にわざわざ訪れるような貴人。村人達も彼女を恐れている様子はない。彼女ならばなにか恵んでくれるかもしれない。
飢えと寒さに凍り付いた頭でぼんやりとそう考えた物乞い達は、故に節々の痛む重い身体を引き摺ってナチへと近付いた。
ナチはそんな物乞い達を一瞥し、懐から銅貨を取り出す。差し出された手に乗せてやろうとすると、ソロンがさり気なくナチと裸の人間達の間に割り込んで囁いた。
「ナチ様、彼らにそれを?」
「はい。懸念が?」
「我々は目立っています。辺りに私達の行動を見ている目が幾つもある。そんな中で物乞いに硬貨を恵んでやるのはよくありません。こうしてここにいる彼らは最も貧しい者達ですが、周りの者だって程度の違いはあっても貧しいことに変わりはない。硬貨を施したとしても、それを彼らが持っていられるかどうか……」
ソロンは言葉を濁す。
「災いを招くことになるかもしれない、ということですね。銅貨でも問題なのですか」
ナチは巻物からパンを取り出した。そのバターロールに周囲から見えないように銅貨を一枚素早く埋め込み、彼らの手の上に乗せる。
それと同時に物乞い達のぼろぼろになった身体の奥に、本人達も気付かない程かすかな熱が宿り、全身へと広がっていく。それは彼らを侵す病へと向かい、緩やかに癒していった。
裸の物乞い達は頭を下げたまま聞き取り辛い声でぼそぼそと礼を言い、パンを腹と膝の間にねじ込んだ。そして先程と同じように手を差し出す。
ナチはそれに構わず巻物を仕舞い、教会へと向かう。
ナチが前から立ち去っても、裸の物乞い達は手を差し出し続けていた。
ひどい軋みを上げる扉を押し開き、ナチは教会に足を踏み入れる。
内部は昼間とは思えない暗さだった。壁際に備え付けられた燭台に蝋燭は立てられておらず、煤で汚れたステンドグラスからは碌に陽の光も入ってこない。最後に火を燃やしたのは何時なのか、暖炉には冷え切った灰がわずかに残っているだけだ。
正面には鉄の逆十字。
おおむねクレタス・マティ村の教会と同じような造りだったが、村の教会にはあった長椅子は見当たらず、またよく手入れされていた村の教会と違って床には藁や泥がこびり付き、壁や天井には染みが浮き、全体的にみすぼらしい印象を与えていた。
入ってすぐの礼拝堂は村の教会よりずっと狭い。二十人を超える一団が入るとほとんどいっぱいになってしまう。
「こ、これは……一体、どのような……」
ごとりとなにかが落ちるような音がして、部屋の隅の暗がりから驚愕も露わな掠れ声がかけられる。
驚愕を浮かべて来訪者を見つめるのは、クレタス・マティ村の神父と同じ服装の二十半ばの神父だ。手には絞った雑巾を持ち、黒い長衣の袖は思い切りよくまくられている。
「こんにちは。ここはサルヴァトル教会で間違いはありませんか?」
「え、ええ……サルヴァトル教会ですが………」
神父の声が不安と当惑を孕んで揺れる。
サルヴァトル教とは貧者の宗教である。人の平等を訴えるサルヴァトル教会は、富める者達からは、自らの財産の強奪を恥じらいもなく主張し正当化する、薄汚い扇動者の巣窟と見做されることもあった。
「あなた様のような方が、一体―――?」
「私はナチと申します。この後ろにいる者達のことで、ご相談したいことがあるのです。お忙しいところ恐れ入りますが、少しお時間をいただけないでしょうか?」
神父の目がナチの背後に向かう。神父と目が合ったクレタス・マティ村の村人達は視線で捕まっていた人々を示す。
暗い室内でもはっきりとわかる、鮮やかな色合いの服を纏った彼らの顔には、一時よりは落ち着いているものの不安の影が濃い。
「ご相談、ということですが、彼らは……? 教区の者ではないようですが……」
「彼らはサルヴァトル教の敬虔な信徒です。不幸にも盗賊達に攫われ、故郷から連れ去られてしまいましたが、想像を絶する恐ろしい状況の中でもその心は常に偉大なる天の父と共に在りました」
「なんと―――」
神父は皺の刻まれた目許に憂いと労わりを滲ませて、盗賊達の虜囚だった人々を見つめた。
よく聞く話だ。彼らの身に降りかかった不幸は、唾棄すべきことに非常に有り触れた話だった。
そして、そこから幸運にも抜け出せた者の話はほとんど聞くことはない。攫われた者達は故郷から遠く離れた場所で、家族に知られることもなく奴隷として生を終えるのが一般的であった。
「恐ろしいことです……。あなた方が解放されたお導きに、感謝を」
逆十字を切って神父は祈りを捧げる。
それに応える人々の唱和が、暗く汚い礼拝堂に敬虔に響いた。
「して、あなた様のご相談とは……?」
「彼らを故郷まで無事に送り届けてくれるよう、冒険者ギルドに依頼を出したのです。けれど護衛がこの街に来るのには時間がかかるとのこと。私には行かなければならない場所がある。今日にでもこの街を発つことになるでしょう。護衛が到着し、故郷の村へ旅立つことが出来る日まで、一月ほど彼らをここに置いていただけませんか?」
「ここに、ですか―――」
神父は深刻な顔で目を伏せ、じっと黙り込む。
険しい顔で黙考した後、縋るように見てくる人々をしばし見つめ、神父はナチを別室へと促した。
「どうぞ、こちらへ。ここでは、少し………」
礼拝堂の奥の個室を抜け、神父はナチを教会の裏手に案内した。
裏庭はなく、個室の扉からそのまま路地に繋がっている。狭い路地の向かいには幅が狭く背の高い家屋がひしめき合い、まるで壁のようだった。
「彼らの境遇は痛ましいものです。望まず故郷から連れ去られ、恐ろしい目に合い、頼れる者もいない。……ここで生まれ育った私が言うことではありませんが、街とは排他的な場所です。農村よりも更に土地は少なく、それでいて絶え間なく人が流れ込んでくる。人が増えれば増える程、家を借りるのに金がかかるようになり、食糧の値段は跳ね上がり、それでいて仕事に支払われる賃金は減る。また、街の住人とは農村にいられなくなった者が多いのです。土地が足りなくなった結果村を追い出された者、なんらかの事情で村に居られなくなった者、村の共同体から排除されてしまった者………」
滔々としゃべっていた神父は少しの間口を閉ざして、汚い路地に視線を巡らせた。
「街の人間と農村の人間の折り合いは決して良好なものではありません。皆が皆そうとは言いませんが、新しく来た人間は街の流儀を知ろうとせず、軋轢を呼び込む。おまけに仕事まで奪うとなれば……。農民もそれを敏感に感じ取り、または街の者の出自に侮蔑の感情でもあるのか、殊更にそれを煽るようなことをする。不作の時期には街の者と農民が流血沙汰を起こすことも珍しくないのです」
「新たな環境の中で暮らしていくのは大変なことです。もっとも受け入れる方に一方的に考慮せよというのは横暴ですが」
「その通りです。―――彼らは幸運でした」
裏口の扉は開け放たれている。神父はその隙間から見える暗い礼拝堂の中を見つめた。
「あの服は、ナチ様がお与えになった物でしょう? 普通の農民はあのような見事に染め抜かれた布を購うことは出来ません。攫われた者達ならば尚更です。栄養状態も悪くない。わずかな怪我もしていなかった。―――ナチ様が治癒を?」
「はい」
「そうですか。きっと素晴らしい癒師なのでしょうね」
女の性で生まれた者の適性は、癒しや錬金、植物の成長を補う魔術などに傾いている。そのように神は人間をお作りになった。
だが、実際にそういった魔術を使うことが出来る程の力を持つ者は一握りだ。世の大半の人間はわざわざ適性など意識する必要もないくらい力が弱い。
「冒険者を雇って彼らを村へ帰してやるとか」
「道中は危険が多いそうなので」
「それで冒険者ですか……。なるほど、冒険者に守られて旅をするなら、望み得る限り最も安全な旅路となるでしょう。盗賊達に攫われた彼らは、当然お金など持っていないでしょう? 旅をするにもなにかと入用だ。資金も工面してやるのですか?」
「それも依頼しておきました。私は旅に詳しくありませんから」
「そうですか。本当に……彼らは幸いです」
ですが、と神父は抑えた声で続けた。
「この教会で彼らの面倒を見ることは出来ません」
ナチはただ神父を見返す。
「教会の中をご覧になりましたね? ひどいものでしょう。燭台はあっても蝋燭はなく、美しいステンドガラスはあっても薄汚れ、元は立派な石造りの床も、壁も、汚れて染みだらけです。―――私の怠慢だと思われますか?」
「いいえ。あなたはひどく疲れていらっしゃる」
「……そうですか」
神父は目を伏せた。足下に視線を落とすとカソックの黒い裾から穴の開いたぼろぼろの革靴が覗いているのが見える。
「……私は教会の務めの他にも様々な仕事をしております。信徒の方々は私が生きてゆくのに十分な気遣いをくださいますが、私の役目―――飢えし者にパンを、凍える者には温もりを、病める者には癒しを、貧しき者には施しを………。私の手で救い上げることの出来る者達はあまりに少ない。この教会の前で横たわる者達をご覧になりましたか? 着る物もなく、食べる物もなく、健康な身体も、若さも何一つ持っていない。慈悲を乞う力すら残されていない。この教区の信徒達にすら、十分にしてやれないというのに……」
神父は礼拝堂の中にいる、運の悪い、けれど望外に幸運な人々を見つめた。
「―――どうかお引き取りください。そして彼らを哀れと思われるのでしたら、幾らかの金銭をお与えになり、街の宿に滞在させてください。服もあり、食べ物を与えられ、冒険者を雇って故郷に帰らせてくれる方がいる。彼らの庇護者であるあなた様には、容易く彼らを救う力がお有りです。彼らは十分以上に恵まれた”持てる者”だ。私の手には、誰にも顧みられることのない者達に、ほんの少しの助けを差し出す力しかない」
神父は固い声音で告げる。
「私にあるわほんのずかな力を、彼らに使ってしまうことは出来ません。―――この教会で、彼らに慈悲を与えることは出来ない」
神父はきっぱりと断言した。
無礼討ちされること覚悟の拒否は、しかし拍子抜けするほどあっさりと受け入れられる。
「なるほど、道理でございますね」
貴人の少女はわずかな不興すら見せることなく、かすかに微笑む。
思案するように礼拝堂へと視線を向けた。
「おっしゃる通り、彼らがもしこの教会で受け入れられないとしても、私は彼らに生きていくだけの資金を与えることが出来る。外で横たわっていた人々、そしてこの街のいたるところに存在する生きていくことさえままならない貧しい人々……。比べてしまえばどちらがより助けを必要としているかは明らか」
ですが、とナチは言う。
「街は排他的な場所であるとあなたは仰いました。資金を与えたとして、果たしてそれだけで生きていけるものでしょうか? 彼らがこの街で働くことは難しいでしょう。勝手のわからない街で、それも恐ろしい経験の傷も癒えないまま、周りと競って働き口を探すことは難しい。今はこうして外を歩くことも出来ますが、私が去り、彼らだけになった時、果たして恐怖に打ち負けることなくいられるかどうか……。それでも資金さえ豊富ならば生きていくこともできるでしょう」
「生きていくことさえ出来れば、いずれ傷が癒える日も来るでしょう」
「はい、けれどそれは何事も起こらなかったらの話です。故郷への道中は護衛を依頼いたしましたが、発つことが出来るまで時間がかかる。近隣の農民ですらない流れ者の集団、それも部屋から出ることもなく、終始怯えたような態度で、しかし懐は温かい。―――そんな者達が何事もなくやり過ごせるのですか?」
「……それは」
あまりに悪意的な推測だ、と神父は言えなかった。
大聖堂や人の入れ替わりが激しい規模の大きな街の教会ならともかく、基本的に教会に派遣される聖職者はその土地の出身者であることが多い。教会とはそれぞれの村、街の生活に密接に関わるものだ。その土地の住民と良好な関係を築き、土地柄に合わせた振る舞いをしなければならない。
神父もまた、タオスの街で生まれ育ったなめし革職人の息子だった。
獣皮を石灰水で洗ってきれいにし、獣脂を塗る父の周りには絶え間ない悪臭とむかつくような蒸気が満ちていた。
多くのなめし革職人と同じように、蒼褪めた顔に腫れた身体、苦しそうに喘鳴混じりの息をする父は、神父が十歳になってすぐ、街の人間と農村の人間のいざこざに巻き込まれて殺された。
不作の年のことだった。父は食糧が高騰し賃金が押し下げられる不況の街の中、街の人間に集団で囲まれて殴り殺されそうになっていた農民を庇ったのだ。その農民は街の人間と職を取り合い、そして農民の方が安い賃金で働くことを了承し職を得た。
雇用者があまりにひどい扱いをする場合、街の労働者は待遇を改善する為に結束して反抗する。
農村から出て来た人間は、それを理解せず、または理解しても協力しようとはせず、しばしば抜け駆けする(そもそも農民は街の労働者と団結した覚えがないのだから、抜け駆けという意識を持っていたかどうかすら怪しい)厄介者である。状況が切羽詰まれば詰まる程、厄介者を飛び越えて敵と見做されることもあった。
父は、飛び抜けて善良だった訳ではないと思う。
ただ、公平な人だった。公平という言葉の意味すら正確には知らない、学のない下層階級だったが、少なくとも心の奥底でそれを理解し、公平であろうと努めていた人だったように思う。
だから必死に食い扶持を稼ごうとした、仕事が得られなければ明日の命もわからない農民を、一方的に取り囲んで見せしめのように残虐に打ち殺すことをよしとしなかった。
神父はその農民が嬲り殺されて当然だとは思えない。思えないと、今ならば言える。
それと同時に、街の人間が殊更に悪辣だったとも思わない。
村人達が口減らしに、あるいは厄介払いとして街に人を送り込んで村の平穏を保つように、街の人間とて自らの街を守ろうとするだけなのだ。
それを知ろうともせず元から街に住む者達の食い扶持を奪い、隙あらば賃金を押し下げようとする雇用者を増長させ、金だけ稼いだら村へと戻る者達を、どうして寛容に受け入れることが出来ようか。
父を痛めつけたのは街の人間だったが、その後動けない父の荷物を奪って殺したのは農民だった。
父の遺体は裸だった。
外からやってくる者達へ街の人間が抱く感情は、不作の時期でなくとも決して快いものではない。
常に貧困が渦巻いている街で、知り合いもいない弱った余所者の、しかも懐の温かそうな集団が何事もなく過ごせるのか。
虜囚だった人々は、お互い元からの顔見知りという訳でもなさそうだった。結束して身を守ることが出来ないのであれば、彼らはほとんど無防備な獲物となる。
貴人の少女の懸念は、決して不当なものではなかった。
「誰一人頼れる者のない、望まず連れ攫われた異郷の地―――そんな場所で彼らが心の拠り所とするのがサルヴァトル教、そしてサルヴァトル教会なのではないでしょうか? クレタス・マティ村でも、教会に入り神父に労わられて、そこで初めて彼らは安堵したような顔を見せたのです。ここでも同じ、あなたを見ると安堵したような顔をした。―――私の勘違いでしょうか?」
「いえ………故郷の教会を思い出すのでしょう」
「彼らが街で暮らすには保護する者が必要です。あなたと、この教会以上にそれを望める者はいない。もちろん、最も助けが必要な人々を疎かに出来ないというお考えもよく理解出来ます。私としても、この街の貧しい者達からあなたの助けを奪うことは望まない。彼らの生活費は私が出しましょう」
ナチは袖口から巻物を滑らせ、重そうに膨らんだ皮袋を取り出した。
「私にはこの程度のことしか出来ませんが―――」
口元を縛る紐を緩めて中身を神父に見せる。
「どうかお納めください」
「こ、れは―――」
滑らかな白い皮袋の中にぎっしりと詰まっていたのは、眩しく輝くミレス金貨。
「全部で百枚あります」
ミレス金貨百枚。総額百億ヴァレール。
貧しい農村で働き手四人の一家が一年に稼ぐのがおよそ四万ヴァレール。豊かな農村なら二十万ヴァレール。殊のほか条件に恵まれた村なら、三十万ヴァレール稼げることもある。
タオスの街で出稼ぎの農夫が食べるような雑穀の粥は一食およそ百ヴァレール。今年は平作だったので食糧が不足しがちな上、農村からの輸送費まで上乗せされる街でも、法外な値段にはなっていない。
陽の差し込まない劣悪な環境の地下室に一泊雑魚寝するのにおよそ百ヴァレール。立つと天井に頭のぶつかる、寝転ぶのがぎりぎりの広さの寝台もない屋根裏で一泊するのにおよそ千ヴァレール。街に流れ込む人間が増えると値段も上がる。
百億ヴァレール。眩暈がするほどの大金だった。
タオスの街のような小さな地方都市では、上等な宿や食事といっても高が知れている。
迷宮都市や都にあるような、一泊するだけ、一食食べるだけで金貨が消えていくような店など存在しない。
平民を二十人ばかり、それも故郷へ帰るまでの一月面倒を見るのに、必要な金はどう贅沢させたところで精々千万ヴァレールがいいところ。
都市に出て来た一般的な農民と同じような水準の暮らしをさせるのならば、百万ヴァレール、ミレス銀貨一枚でもお釣りがくる。
二十幾人かの平民をたった一月預かる対価にしては、あまりにも不釣り合いだった。
けれど神父は差し出された皮袋をそのまま受け取った。
「そういうことでしたら、私に拒否する理由はありません」
タオスの街を丸ごと買えてしまいそうな金貨の重みが、白い革越しにずっしりと伝わってくる。
過分だと、控えるつもりはない。
―――この世界には尊い血脈が存在する。
何時から彼らが現れたのか。
始まりは誰だったのか。
誰一人としてそれを知る者はいない。
だが確かに、地にひしめき為すすべもなく魔物に喰らわれる凡百の人間とは違う者達が、この世界には在るのだ。
人でありながら人を遥かに超える力を、その血脈によって授けられ生まれくる者達。
彼らは貴種と呼ばれる。
男は山を割り、雷を切り、万の人間が束になっても敵わない魔物を容易く屠る。
タオスの街の全ての人間が、たった一人の貴種の男に挑んだとして、踏み潰される蟻のように造作もなく殺されるだろう。
女は死を招く病を打ち払い、自然の摂理を力でねじ伏せ実りをもたらし、錬金によって黄金を生み出す。
世に流通する硬貨。それに使用されている貴金属は錬金によって生み出されたものである。
一ヴァレール札のように金貨を投げ捨て、たった一回の食事、たった一泊の宿をとる。
冬は暖かく夏は涼しい部屋、何時でもすぐにお湯の出る風呂が備え付けられ、平民の部屋程の広さのある豪奢な寝具で眠るという。
彼らの食事は、惜しみなく行使される魔術によって育て上げられた、宝石と同等の価値がある食物を使って作られる。
彼らは平民と同じ物を口にしたりしない。
「お金をお渡ししても街の食糧は限られている。この街はあまり人口が多くないようですから、二十人程度でも食糧の値段に影響を与えてしまうかもしれません。もしよろしければ、日持ちのする穀物なども置いていきましょう」
「……頂けるというのであればありがたく頂戴いたします」
もし贅沢の限りを尽くしている彼らが、民から搾取しているというのなら話は簡単だった。
搾取する者達を打ち倒せばよい。奪われていた物を取り戻し、民は豊かになるだろう。
略奪者達から自らの物を奪い返し、民によって民を治める。
自らの物を不当に奪われて民が貧しいのなら、そうすればいい。
―――だが、そうではないのだ。
土地の所有権は、その土地を囲む結界を張っている者に帰属する。
彼らはその土地に暮らす領民を所有し、税を徴収する権利を持つ。
常に貧しく、慢性的な飢えに苦しむ平民達に、税は容赦なく課せられる。貴種にとっては微々たる物であろうその税は、平民達にとって飢餓の淵に向かって蹴り落とされる最後の一撃となることもあった。
社会の大多数を占める平民から、税は万遍なく徴収される。一人一人の支払う税は少なくとも、集まれば膨大な金額になる。
しかし徴収された税は土地の所有者の収入となる訳ではない。徴収された税の行く先は領内の行政活動である。
城壁の建設、管理から街の守護や犯罪の取り締まり、裁判を行う役人達の給与。
土地の所有者たる貴種が、直接領地の運営に関わることはない。
領民達が普段領主と呼ぶのは、実際の土地の所有者、領民の所有者ではなく、彼らから領地の運営を任された者達に過ぎない。
領主は税を取り立てることによって収入を得る。
貴種は違う。
魔術によって貴金属を作り出し、身体の一欠けらが同じ重さの黄金と等しい魔物を屠る。
貴種は己只一人の力で富を生み出す。
搾取しているから豊かなのではない。
搾取されているから貧しいのではない。
現実に横たわるのは、より絶望的な”存在そのもの”の格差である。
「何処に置いておきましょうか?」
「随分―――たくさん頂けるようですから、置いておく場所を……。そこの部屋に入りますか?」
貴種と呼ばれる者達が、もし今よりほんの少しでも力無き者達を気にかけてくれたのなら、どれほど素晴らしい世界になることか。
何処からともなく取り出した巻物に少女が手を触れると、空中に湧き出るようにして重そうな袋が出現する。
汚れ一つないきれいな卵色の紙袋だ。
真珠のような純白の手袋を嵌めた華奢な手がひらりと動く。少女の身体の半分程もある紙袋が部屋の隅へ滑るように進み、静かに床の上に横たわる。
後は少女がなにかする必要もなかった。
巻物を開いているだけで、次から次へとまったく同じ紙袋が現れ、碌に掃除もしていない小部屋に積み上がっていく。
中身は挽いた小麦だと言う。
小麦は生産性が低い。畑に蒔いた一粒からとれる小麦は精々が二粒か三粒。百粒蒔いても二百粒とれるかどうか。
小麦とは有り触れた穀物であると同時に、裕福な平民や領地を任される役人程度では毎日食べることの出来ない穀物であった。農民や貧民は言うまでもない。
小麦を育てる農民もそれは同じだ。小麦は売り物であって、自分の食事ではない。
「突然の頼みを引き受けていただき感謝の言葉もありません。神父どの、どうか彼らをよろしくお願いいたします」
玲瓏たる声音で紡がれる謝辞。
彼女はきっと自分が仕掛けた一世一代の賭けを見抜いていたのだろうと、神父はそう思う。
盗賊達に捕らえられていた村人達を手厚く保護するという、情け深い振る舞いを見せる貴種の少女。この教会の置かれた状況を語れば彼女はいったいどのような行動に出るのか――
神父は賭けに勝った。少女は神父の拒絶に怒りを見せることなく、代わりに金貨のつまった袋を手渡した。
その美しい顔に浮かぶ表情は終始穏やかで、どれほど見つめてもその内心は計り知れない。
何処からか風が吹き、少女の美しい黒髪を散りばめる。黄金の蔓に咲いた紅玉の薔薇が陽光に瞬いて燃え上がる夕陽のような輝きを放つ。
―――貴き血を持つ者達。
彼女は間違いなくその一員だった。
じゃらりと手の中で金貨が鳴る。
ミレス金貨百枚。
これだけあればどれほどの人生を救うことが出来るだろう。
教会前で蹲る彼らの病を治してやって、お腹いっぱい食べさせて、暖かい服を着せてやる。
それでもまだたくさん余る。
日々の食事にも事欠くのに少し懐が温かくなると寄付してくれる彼にも、どうしても食べたかった肉を盗んで泣いていたあの子供にも、好きなだけ食べさせてやれる。
事業でも起こして街の人間に万遍なく金が回るようにすれば、この街から飢え死にする者をなくすことすら可能かもしれない。
奇跡のような可能性が今、自分の手の中にある。
この街全ての人間の財を合わせても到底購えないような出で立ちの年若い少女に、いとも容易く手渡された可能性が。
嫉妬を覚えることはない。怒りが込み上げてくることも。
ただ、切ないような、憧憬にも似た諦観があった。
がむしゃらな感情を抱くには、あまりに遠い。
―――この世界は、こんなにも理不尽だった。