タオスの街 2
都市の周縁は外と内を隔てる城壁に囲まれている。野を跋扈する魔物や盗賊、犯罪者などの外敵から住民の生活と財産を保護する為だ。
人の国の領土であることと、人が安全に出歩ける土地であるということは必ずしも一致しない。どれほど強靭な統治を敷こうと魔物を駆逐することは出来ないのだ。人類有史以来、人の国から魔物の姿が消えたことは一度もない。魔物避けの結界の外は、一度人が集まればすぐさま魔物に喰われ殺されることになる化外の地。
魔物とは人が集まると、あるいは長く定住すると、何処からともなく現れ殺しにくる恐ろしい殺戮者だ。世の多くの人間よりも力が強く、魔力は猛々しく、その知能は時に人を上回る。
魔物避けの結界があるとはいえ、あくまでそれは人の居住地を魔物に気付かせないようにする効果しかなく、物理的な防御力は期待できない。偶然迷い込んだ魔物によって都市や村が壊滅的な被害を受けることはままある話なのだ。
都市に降りかかる数多の脅威の中でも、主たる敵として主眼を置かれているのが魔物である。
どのような集落であってもその周囲には必ず結界が張ってある。村ならば柵に沿って、街ならば城壁に沿って。
内と外を隔てる防護壁は、そのまま人と魔物の世界を隔てる境界線だ。
とはいえ集落をぐるりと囲む柵や城壁とは建造するのに大変な労力がかかる。また、結界とは容易く張りなおせるものではない。結界を張れるだけの力を持つ者は得てして高い地位にある。
一度街や村が建設されれば、どれ程住民が増えようが初期の広さから拡張されることはないのが一般的であった。
土地の広さがそのまま生きていける住人の数になる農村とは違い、都市の内部は過密な状態になることが常である。
都市を囲む石造りの城壁を建造する為には、村落を囲む木製の柵とは比べ物にならない費用と労力がかかる。資金の豊富な上流階級が住む訳でもない地方都市にとって、それは重くのしかかる。
故に地方都市とはできるだけ壁の建造費用を抑える為に、市域は狭いのが普通だった。
その狭い街の中に農業だけでは食べていけない付近の農民や、土地にあぶれた食い詰め者が押し寄せるのだ。彼らは都市で仕事を見付け、あるいは物乞いなどをしながら都市の内部に定住する。
食べていけるだけの報酬を得られる仕事には限りがあり、また都市の住居、流入する食糧にも限りがある。数年と経たない内に飢えや悪辣な衛生環境などによって死亡する者も多く、それでも他に生きていく場所のない者達は尽きることなく都市へと向かい、貧困層を形成する。
過密な人口と農村部よりも一層悲惨な貧困。それが都市とは切っても切れぬ二つの要素だった。
タオスの街も数ある地方都市の例に漏れず、こぢんまりとした小規模な都市である。
目抜き通りを一歩踏み込めば人がすれ違うのがやっとの路地が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、路上には襤褸に包まった浮浪者が蹲っている。地面が剥き出しの道は乾いた風に砂埃を巻き上げ、何処からともなく悪臭が漂う。
城壁内部の衛生状態は非常に悪い。家庭から出るゴミや糞尿が空地や廃屋に積み上げられ、それを野良犬や鳥が漁って食い散らかす。路上に散らばる茶色や黄色の染み、腐った生ゴミは窓から投げ捨てられた汚物だ。
「いやぁ、しっかしこんな大勢で押しかけてあっさり通してくれるたぁな。いつもなら豊作の時だって色々因縁つけられて追い返されるだろうに」
「なあんも聞かれなかったな」
「名前だけでな。後は碌に聞いちゃいなかっただろ。とにかく早くしてくれって顔に書いてあったぜ」
門から真っ直ぐに続く目抜き通りの道の幅は三メートルもない。周囲の建造物の位置を見るに、元は六メートル程あったのだろうが、道の両脇は張り出した露店や屯する人々に狭められ、今では元の道の広さがわからない程混み合っている。
街の人出は多かったが活気はそれほど感じられない。時折威勢よく声を張り上げる売り子もいるが、大抵の客は仕事を求めてやってきた農民だ。当然懐具合は寒々しいし、多くの村が休耕期に入るこの冬の時期には、ただでさえ余り気味の労働力が更に供給過剰になり賃金は押し下げられる。さして実入りの良い仕事にありつけない彼らの表情は芳しくない。
「結構人がいるな。今年は多くないか?」
「いや、今昼時だからだろ。飯を食いに出て来たのさ」
「もうそんな時間だったか」
通りの隅で幾つかのグループに固まって農民達が食べているのは、ほとんどが雑穀の粥だった。味は薄く、古い粒や萎びた野菜の切れ端などをお構いなしに放り込んだそれは、間違っても上等な食べ物とは言えない。
「そういえばナチ様、冒険者ギルドと教会、あと役所にも用があるとのことでしたが、どこから向かいますか?」
「なにかと入用になるでしょうから、まずは換金をしたいと思います」
「冒険者ギルドですね」
そんな汚れた街中に降って湧いた、おとぎ話のような貴人の少女が率いる一団。彼らは当然の如く非常に目立っていた。
門から出てすぐ、露店の店主が呆けたように口を開けて持っていた商品を取り落し、行き交う人々は歩みを止め、家の中から顔を出した住民が慌てて室内の家族に呼びかけた。
異色の一団が歩みを進める度にさざ波のようにひそやかなざわめきが通りを駆け巡り、やがてしんと静まり返っていく。潮が引くようにして道の両脇に人波が割れ、豪奢な衣装を纏った少女を先頭にした一団がそこを通り過ぎる。
「冒険者ギルドも教会も役所も、同じ場所にあるんですよ」
「そうそう。あの辺りは金持ちばっかり住んでるんです。俺達にゃあちっとばかし居心地の悪い場所ですね」
「つってもナチ様程のお方に相応しい場所じゃありゃしませんが。金持ちっつったって成り上がり者の小役人だとか商人とかです」
「本当の金持ちっつーのはそもそもこんな田舎街にゃあ住まねぇみてえで」
目抜き通りの両脇に立ち並ぶ家々は木造がほとんどで、石造りの家はわずかしかない。どの家も二階建てか三階建てだが、高さはそう高くない。天井は低く、一部屋の広さは農村の家よりも更に狭い。これは都市の地価が農村に比べて非常に高いことに起因する。
どの家も煤けていて、窓にガラスが嵌っている家は見当たらない。古ぼけた家がほとんどで、壁に塗られた漆喰が剥がれ落ちて開いた穴に黒ずんだ汚れがこびり付いている。
寂れた印象の目抜き通りを抜けると、周囲の様相は一変する。少し黄色が混ざった乳白色の大理石で造られた噴水を囲むようにして広場があり、その周りに石造りの家屋が立ち並んでいる。
市場の喧噪は遠く、噴水の静かな水の音が響いていた。
広場に面した家屋とその周辺の家屋は街中で見かけたものよりも遥かに立派で、よく手入れのされた外観をしていた。窓にはガラスが嵌り、薄いレースのカーテンが目隠しの役目を果たしている。窓辺には煉瓦でできた植木鉢が整然と並べられ、可憐な花が咲いていた。
「あそこです」
ソロンが指した先には光沢のある黒い大理石をふんだんに使って造られた小さな建物があった。透明感のある黒い表面には銀色や灰色の波紋のような模様が浮かび上がっている。
扉の横には同じく大理石に彫り込まれた交差する剣、盾、それを囲む月桂樹のレリーフ。黄金で彩られたそれは、黒との対比も鮮やかに輝いている。
民家とは違った造りの建物が多いこの界隈でも一際目立つ建物だ。
「しかし、どうします? この人数じゃとても全員入ることなんて出来やせんぜ?」
「中も部屋が別れてるんですよ」
「誰がナチ様についていくか、だな」
換金する為の荷物を背負った村人達の言葉にナチは首を傾げた。まるで自分達は単なる付き添いのような口ぶりである。
「皆さんも用事があるのでは?」
「あぁ、そういえば言ってませんでした」
ソロンがうっかりしていたというように額をぴしゃりと叩く。今日の彼はいつもよりリアクションが大げさだ。
「ナチ様は急ぎ向かう場所があるとのことだったので、先にナチ様の用事を済ませてしまおうと思いまして。私らのはそんなに急がなくても構いませんから。なんなら街に泊まって明日済ませてもいいですし」
「それは……ありがたいです。皆さん、ありがとうございます」
視線をギルドに向けていたナチが向き直って謝意を告げるのに、村人達が照れくさそうに鼻を擦って赤みの差した顔を明後日の方向に向ける。
「いやぁ……これくらい、なぁ?」
「そうそう、ナチ様は村の恩人だもんで……」
「ここで待って―――いや、ここはちょっと、なぁ」
「何処か隅っこに……でも隅っつっても、物影もないし……」
居心地悪そうに整然と整えられた家屋やゴミの落ちていない石畳を見回す村人達。彼らとは縁の薄い立派な建物、富裕層しか手に入れられない非常に高価なガラス窓、観賞用に手間暇かけてわざわざ育てられた食べられもしない植物に囲まれた彼らは、舞踏会に引っ張り出された案山子のような面持ちでそわそわと身体を動かした。
街の喧噪とは距離のある界隈の静けさに、自然囁き合う声も潜められる。
「教会に行って先にこいつら預けちまうか? そうすりゃ人数も減るから目立たねえし」
「でも教会ったって、なァ? 普段俺らみてぇのが集まるのはこっちじゃねぇだろ。こっちに言って預かってもらえんのか?」
「そりゃナチ様が頼んだら断れる訳ねえだろ。その後向こうに移されるかもしれねぇが」
と、その時人々の間から腹の虫が鳴る音がする。動物の唸り声のようなその音は閑静なこの広場に響き渡った。
「……先に昼飯だな」
「どうする? 市場でなんか買うか?」
「こいつらの分は……俺らが払えばいいか。これくらいはな」
村人の一人が空を見上げた。太陽は中天よりやや西に傾いている。一般的に、朝昼晩の三食の中で最もしっかりした食事をとるのが昼食だ。
「じゃあナチ様にゃ誰がついてく? やっぱり村長か?」
「ソロンか……。ナチ様、ソロンでいいですかね?」
「もちろんです、お心遣いに感謝します。ソロンさんは構いませんか? 少し休んだ方が良いような気がするのですが」
「構いませんとも! ええ、不思議と今は気力が漲っていましてね、何処までもお供させていただきます!」
「……できるだけ早く済ませますので」
冒険者ギルドの内部はこれまで目にした街中とはまるで別世界のようだった。
室内は暖かな空気に満たされおり、暖炉には赤々とした火が燃え、空調にも気を使っているのか外の悪臭とは打って変わって清涼感のある香りが仄かに漂う。
入ってすぐ正面に受付があり、部屋の広さは外観から予想されるよりも狭い。受付の台で区切られた入口側、来訪者が自由に歩ける場所は人が五人も並べばいっぱいになってしまう。
壁際には茶色い革張りの椅子が二脚。天井には部屋の隅々まで白く照らし出す照明。白く光る球が花を模したガラス製のランプの中に入っている。
外観と同じ黒い大理石の壁は煤汚れ一つついていない。透明感のあるその壁面は、近付けば姿が映りこむ。
重々しい音を立てて扉を開いたナチとソロンがギルドへ入ると、磨き上げられた木製の台の向こう、受付に座る三十手前の明るい茶色の髪をした青年が手元の書類に落としていた視線をゆっくりと上げ、そして驚愕に目を剥いて持っていた書類を取り落とした。
室内にいるのは彼一人だけだ。
盗賊の首領が持っていたプレートや外のレリーフにあったのと同じ、剣と盾、月桂樹の紋章が縫い込まれた黒の上衣、同色のズボンと手袋を着用している。服の質といい、形といい、ソロン達村人や目抜き通りで見かけた街の人間とは一線を画していた。衛兵達や道で税を徴収していた役人と比べても、最も上等な身なりをしている。
「こんにちは。貴金属の換金と、依頼と、少しお尋ねしたいことがあって伺いました。……今、よろしいですか?」
ナチが受付に歩み寄ると、石になったかのように固まっていた青年がはっとして椅子から立ち上がった。
「はい、もちろんです。このような街では大した仕事もなく―――あ、いえ、失礼いたしました!」
「いえ、興味深いです」
「はは、迷宮もありませんし、こんなところに来る冒険者もいないので……。あの、ここでは立ったままになってしまいますので、奥のお部屋をご用意いたします。少々お待ちいただくことになってしまい、申し訳ありませんが……」
背後を振り返りながら青年はうやうやしく言う。彼が示した先には彫刻を施された扉があった。
「ここで用事を済ませることは出来ませんか?」
「御用というと、確か換金と、依頼と―――」
「あと、魔物やお金についてお尋ねしたいのです。この辺りには来たばかりで、知っていて当然のことも知らず、お手を煩わせることになると思いますが……」
「いえ、なんでもお聞きください。冒険者ギルドは魔物と戦い、硬貨を発行し、更に最も広く知識の集まる場所。必ずやご期待に沿えることでしょう」
口調こそ控え目だったが、確固たる自信を窺わせて青年は断言する。
「心強いお言葉です。それで、そういったお話はここで済ませるには障りがありますか? 込み入ったことをお尋ねするつもりはないのですが」
「―――あぁ、迂闊でした! 女性を二人きりで部屋にお迎えしようなど、私はとんでもないことを! 誓って疚しい心はありません。どうかお許しください」
「いえ、二人きりではありません。ソロンさんがいらっしゃいます」
深々と頭を下げていた青年は、そこで初めてソロンに気付いたような顔をした。
「………あの、この者は?」
「わたしが道中お世話になった、クレタス・マティ村の村長です」
「いえ、その、……なるほど」
こほんと咳払いをして、青年は改めてソロンに目を向けた。
「……確かに見た覚えがあるな。何故お前がこの方と共にいる?」
青年は尊大な態度でソロンに問うた。だが税を徴収していた役人や、衛兵達のものとは少し違う。青年には彼らにあった卑屈さがない。
青年の態度からは実力に裏打ちされた、自負のようなものが感じられる。
「天より降臨されしナチ様が我々の村を選んでくださったからです! ナチ様が優雅に舞い踊る度、悪漢共の血飛沫が飛び散り地には屍が積み上がり―――」
「彼らの村が盗賊達に襲われていたのです。わたしも微力ながらソロンさんのお手伝いをいたしまして。共に戦った縁で街まで連れてきてくださいました」
誰に聞かせているのか、何処とも知れない空中に向かって力説しているソロンの背を押して、ナチは壁際へと向かった。
「そういった事情からソロンさんは少々お疲れのようでして、こちらの椅子で休ませても構いませんか?」
「あ、はい、そういった事情なら……」
「なにを言っているんです、ナチ様! まだ百分の一も伝えられてませんよ!」
「百聞は一見に如かずと言うではありませんか。のちほど戦利品をお見せすれば戦果は充分におわかりいただけるかと。さ、ソロンさん。少し眠って体力を回復させましょう」
「ねむ―――」
茶色の革張りの椅子へソロンを座らせ、ナチはソロンと目を合わせた。充血した目がとろりとした眠気を帯び、ソロンの身体から力が抜ける。
健やかな寝息を立てはじめたソロンを背もたれにもたせ掛け、ナチは受付へと戻る。
「お待たせしました」
「あ、いえ。……眠ったようですね」
「お疲れだったのでしょう。では、まず換金からお願いします」
首を傾げてソロンを見ていた青年の前に、巻物から出した黄金のインゴットを置く。重さは十キロ。
「これをこの地で流通する貨幣に変えることが出来るでしょうか?」
「金……のようですね」
インゴットを確かめ、青年は頷く。
「これを全て貨幣に変える、ということでよろしいですか?」
「後、これもお願いいたします」
黄金が換金可能だと見て取ったナチは巻物から更に四つ、同じインゴットを取り出した。
「お支払いはミレス金貨でよろしいてすか?」
「そのミレス金貨とは、この辺りで使用されている貨幣ですか?」
「あらゆる国の基本的な通貨となっております。もっとも、冒険者ギルドに加盟していない僻地では使うのに多少面倒があるかもしれませんが」
青年は壁にかけられている地図を示した。白金の金属版に黄金で地形がかたどられている。山脈や湖も繊細に彫り込まれており、主だった地名が記されていた。
「黄金で表されているのが冒険者ギルドに加盟している地域です。それ以外は海や未開の地。地図の端はそれぞれ海や山脈地帯、砂漠地帯など越えることが困難な難所が広く横たわっている為、そこから先は未知の領域となります」
「未知……」
「幾人か、到達した者達もいるとかいないとか……。おとぎ話のようなものですね。その地図の端を越えた先に行ったと云われる者達の正確な記録は残されていない。故に、当ギルドは公式の情報として認識しておりません」
なんでも全て黄金で出来た島があるとか、海の果てには魔物のいない楽園があるとか、と青年は可笑しそうに言う。
「冒険者ギルドで発行されている貨幣が最も信頼性の高い通貨、ということでしょうか?」
「さようでございます。ミレス硬貨はそれぞれ含まれる金、銀、銅の含有量が厳密に定められており、また偽造を防ぐ為、冒険者ギルドに加え他協力組織の総力を結集した様々な防止技術が盛り込まれております」
「含有率はどれくらいですか?」
「ミレス金貨、ミレス銀貨、ミレス銅貨はそれぞれ金、銀、銅を三十グラムずつ含んでおります」
青年は受付の台の上に金色と銀色と銅色の硬貨を並べる。銀色の硬貨は盗賊の首領が持っていたのと同じものだった。
「こちらがミレス金貨、ミレス銀貨、ミレス銅貨です」
種類によって大きさも厚さも微妙に異なるが、大雑把に測って直径約三センチ、厚さ約四ミリの真円の硬貨である。
「それぞれの価値は如何ほどでしょう?」
「通貨の単位はヴァレールです。硬貨の他に紙幣もありまして、それぞれ一ヴァレール札、十ヴァレール札、百ヴァレール札、千ヴァレール札でございます」
青年は四枚の紙幣を台に並べる。
紙幣といっても素材は紙ではない。つるつるとした手触りの丈夫な合成樹脂だ。精緻な彫刻が施されている硬貨に比べるとその意匠は大雑把で、ただ冒険者ギルドの紋章と数字だけが印刷されている。
「といっても、あまりに採算が合わない為一ヴァレール札は近年ほとんど製造されておりません」
「一ヴァレール札は持つべきでしょうか?」
「その必要はないでしょう。ミレス銅貨は一万ヴァレール、ミレス銀貨は百万ヴァレール、ミレス金貨は一億ヴァレール。紙幣を使用する機会は……」
青年は控え目にナチの装いへと目を走らせる。
「……ないのでは」
「ここでミレス金貨を両替してもらうことは出来ますか?」
「はい。両替のみでしたら別途に手数料がかかりますが、今回は貴金属の換金の延長ということで……」
小さく微笑んだ青年にナチも微笑み返す。
「では、ミレス金貨に換えてください」
「畏まりました。ギルドカードはお持ちですか?」
「いいえ。ギルドカードとは?」
「貴金属を換金するにも手数料を頂くのですが、長期間定期的に納入していただいたり、著しく多量の貴金属や稀少な金属をお売りいただいた場合、その手数料をお安く出来るのです。売買する際にギルドカードを提出していただいて、こちらでそれを記録します。そのギルドカードは全ての冒険者ギルド、そして幾つかの系列ギルドでご利用いただけます。お作りいたしますか?」
「いえ、当面の資金が工面できればそれで………。あの、例えば一月暮らしていくのに必要なお金はいかほどでしょうか?」
ナチの漠然とした問いに、青年は考え込むような顔で台の上の硬貨を見つめた。
「……最低限、水回りや空調が整っていることは必須ですよね。安全性、防犯も……それに食事に、身の周りを世話する使用人も………」
しばらく悩んでから青年は躊躇いがちに口を開く。
「月にミレス金貨三百枚もあれば、最低限の暮らしは出来るのではないでしょうか。私も詳しくはないので、断言は出来かねますが、おそらくは……」
「金一キロで金貨何枚になりますか?」
「初めてご利用いただくので、一キロ当たり三十枚となります」
ナチの出したインゴットは全部で五十キロ。ミレス金貨で千五百枚だ。
「ここで換金出来る物は黄金の他になにがありますか?」
「多種多様でございますので一口には申せませんが、銀や銅、白金、鉄、その他様々な金属、宝石、魔物の部位なども可能です」
「では、こちらも換金をお願いします」
ナチは白金のインゴットを台に乗せた。重さは十キロ。
「白金は一キロにつき、ミレス金貨二百四十枚となります。全てミレス金貨でよろしいですか?」
「はい、お願いします」
「では、これから重量の確認と硬貨の引き出しを行います。少々お時間がかかりますですので、五分程お待ちください」
青年は全部で六十キロのインゴットをさして重そうな素振りも見せずに持ち上げて、部屋の隅へと持って行った。青年がなにやら呟いて覆いを持ち上げるような仕草をすると、なにもなかった筈の場所に青年の太腿程の高さの円形の台座が現れる。
見事な黒檀の台座である。一つの大きな木材から削り出したようで、継ぎ目は見当たらない。墨を流したような黒に黄金と白銀、そして孔雀石を溶かした深緑の複雑な模様が走り、中央には同じく孔雀石を加工した三連の輪。輪は台座に半ば沈み込むような形で埋まっている。
青年はインゴットを丁寧に台座に置いて、一枚の金属のカードを取り出した。それを使って台座の横にある金庫を開け、そこから銀の模様が描かれた黒檀の木箱を取り出す。
変わった木箱だった。継ぎ目が見当たらず、蓋も取っ手もない。ただ単に四角く木材を削ったような形だった。
青年は木箱を手の上に乗せ、自身の魔力でそれを包み込む。すると、継ぎ目のないように見えた木箱が割れ、まるで蓮の花のように開いた。その中心には完全な球体に研磨された孔雀石。
純白のクッションに鎮座するそれを慎重な手付きで掴み上げ、台座の中央、三連の輪の中へ置いた。
青年が台座に両手をつく。丸い孔雀石が仄かな輝きを纏うのと同時に、埋め込まれていた筈の三連の輪が台座から浮かび上がる。丸い孔雀石を中心に、三連の輪は重なり合いながらくるくると回り、やがて台座の黄金と白銀、深緑の模様が輝きを帯び始めた。
青年は台座の下から黒檀でできたボードを取り出す。それを台座の上に浮かべると、ボードに描かれた銀色の模様が溶けるように文字や数字へと変化していく。
青年はそれを見ながらボードの上に指を走らせる。幾つか操作をすると台座が一際眩しい輝きを放った。
インゴットは掻き消え、そして台座の上に金貨の山が現れる。
「金が五十キロでミレス金貨千五百枚。白金が十キロで二千四百枚。しめてミレス金貨三千九百枚となります。間違いなく揃っている筈ですが確認の方は……」
「わたしも間違いなく揃っていると思いますので、結構です」
一枚一枚数えていたら何時になるかわからないし、巻物に仕舞えば重さや数などの情報は自動的に知れることである。
台座から受け付けまで運んでもらって、ナチは巻物へ全ての金貨を収納した。
三千九百枚。間違いなくある。
「銀貨や銅貨は持っていた方がいいでしょうか?」
「銀貨は使うこともあるでしょうが、銅貨は……必要ないのでは」
「一万ヴァレール、でしたね」
「額面が小さ過ぎますね。ただ、このタオスの街のような田舎だと、そもそも相応な宿や飲食店があるかどうか。実際にこの街に金貨や銀貨で支払うような宿はございません」
「銅貨ですか?」
「ほとんどは紙幣で事足りるような……いえ、ああいったものは宿ではございませんので、お忘れください。この街に滞在なさるようでしたらこのギルド内にある宿泊設備をご用意いたしますので、その際にはお申し付けください」
ギルド内部の宿泊設備はこの街で最も充実し、また安全性にも優れております、と青年は付け加える。
街の喧噪から完全に遮断された室内には、天井扇が清涼な空気を循環させる音が響いている。扉は重厚で、またナチの感覚にはギルドを守るように張り巡らされた幾つかの術が引っかかった。
青年の言葉は嘘ではないだろう。
「では、両替はどのようにいたしますか?」
「金貨五枚を、銀貨四百九十五枚と銅貨五百枚に換えてください」
「かしこまりました」
青年は再び台座に向かい、先程と同じような手順を踏んで金貨を銀貨と銅貨に換える。ナチは銀貨と銅貨を金貨を入れた場所の隣に仕舞い、青年は説明の為に出していた硬貨と紙幣を片付けた。
「あと、ここでは冒険者の方に依頼をすることも出来ると伺ったのですが」
「はい、どのようなご依頼でしょう?」
「彼の―――」
ナチの向けた視線の先で、平和な寝息を立てているソロンがむにゃむにゃと寝言を言った。
「村が盗賊に襲われていて、その盗賊達を根絶やしにしたのですが、盗賊達は人攫いを生業としていたようで、その根城には売り飛ばす為攫ってきた人々が捕らえられていたのです。彼らは自分の村への帰り方もわからず、また旅は危険も多いとソロンさん達が」
ナチが問うように見つめると、青年は頷く。
「捕らえられていた者達はただの農民だったのでしょう? しかも土地勘もなく、全員がばらばらの村から連れて来られたとしたら、それぞれ一人で旅をすることになります。二、三日で辿り着ける場所ならともかく、それ以上となると……十中八九再び無法者に捕らえられるか魔物の餌、あるいは獣の餌か、それとも道に迷って野垂れ死ぬか………。失礼、お耳汚しを」
「いえ。ですので彼らを無事送り届けてくれるよう依頼したいのです」
「冒険者に、農民を?」
青年は目を瞬く。
「はい。ここのギルドに属する方達は魔物と戦う力を持っていると。旅の護衛を頼むことは可能でしょうか?」
「可能か不可能かと問われれば、可能です。可能ですが………。無遠慮なことを申しますが、その者達とはなにか特別なご関係が?」
「盗賊達と戦った結果、盗賊達は死に、彼らは取り残されました」
「では、縁のない他人であると」
「縁がなければ依頼をすることができないのでしょうか?」
「いえ、そうではなくて……なにから申したものか………」
青年は少しの間思案して話し始める。
「まず、冒険者とは素質のある者しかなることを許されない、魔物に対する人間の戦力です。実力は上から下まで様々ですが、依頼をするとなると冒険者になったばかりのハスタティでもどうしても高くなります」
「換金したお金では足りませんか?」
「いえ! そこまで高額ではございません。依頼にかかる日数にもよりますが、金貨三千枚でも足りない冒険者は……いらっしゃいますが、そうした冒険者はそもそも依頼を回せるような方々ではなく―――」
青年は頭を振って、脱線しかけた話題を引き戻した。
「冒険者に護衛の依頼を出せるようなお金があれば、普通の農民は一生働かずとも暮らしていけるのです。差し出がましいことですが、攫われた者達に温情をかけてやるのであれば、一人銀貨一枚、または銅貨十枚程度でも十分かと」
「冒険者の方は、村人の護衛を依頼されたら気を悪くするものでしょうか? お話によると、魔物と戦う使命を帯びた方々なのでしょう? 力を振るう機会が期待できそうにない依頼というのは、侮辱されたと感じるものでしょうか?」
「それは……個々人の心の内まではわかりかねますが、冒険者とて人の子です。義務とはいえ魔物と命を削り合う日々が続けば、少し……休みたくなることもあるでしょう。報酬さえきちんと支払われれば、依頼を受ける者には困らない筈です。村人自身に依頼されれば楽しからぬ思いを抱くこともあるかもしれませんが、この場合依頼主はあなた様です。高貴な女性からのご依頼ということであれば、どの者も奮って任を果たそうとするでしょう」
「では、攫われた人々を故郷の村へと無事送り届けること。道中の面倒を見ること。旅慣れない方もいらっしゃるでしょうから、旅に必要な物資を用意すること。あと……なにか依頼しなければならないことは……」
この世界での旅になにが必要なのか。
考え込んだナチに、青年が助け舟を出す。
「心身共に無事故郷まで送り届ける。これでよろしいでしょうか?」
「はい」
「でしたら、こちらで必要に応じて手配することも可能です。その分手数料も上乗せされますが、いかがいたしましょう?」
「そのようにお願いします」
「この近辺に冒険者が滞在しているとは限りませんので、依頼を受けた者がこちらに到着するまで日数がかかることもございます。最長で一月程かかるとお考えください。では、村人達の情報を確認したいと思いますが―――」
「その前に、もう一つ伺いたいのですが」
ナチは巻物から白い紙を取り出した。そこには絵のような物が描かれている。しかし、絵というには彩色に使われた顔料の気配もないし、また情景をそっくりそのまま切り取ったかのように精密だった。
それが三枚。どれも中心にいるのは年若い少女。どの少女も暗く、固い表情をしている。
「奴隷として買われたこの方達を、主人と交渉して買い取り、クレタス・マティ村まで送り届けてほしいのです」
「……それは」
「難しいでしょうか?」
「……規定に違反している訳ではないので依頼として受理することは可能ですが、交渉して買い取るとなると………。冒険者とは戦う者であって、商人ではございません。依頼が出ていることを知られれば足元を見られる可能性もありますし、かかる金額も不明です」
「冒険者がこの依頼を達成することは難しいのでしょうか?」
「……元は商人の家の生まれの者か、奴隷の売買に明るい者であれば………。しかし、非常に……その、冒険者個人に委ねられる裁量が大きいというか、……恣意的な判断も可能であるというか……」
「買い値を過大に報告する、あるいは主人と結託して値を吊り上げるといった可能性があると?」
「………はい」
青年はやや言い辛そうに肯定する。
「もちろん当ギルドは誠実に依頼を遂行するよう努めておりますが………」
「買い取りに使える金額を決め、余ったお金は報酬に上乗せするとすればどうでしょう?」
「そういえば、遠方への買い付けの依頼に似たような事例があったような……依頼者ご本人が行くことが出来ず、その時はどうしたんだか……」
「参考となる事例が?」
「はい。あったと思います。その時どのように対応したのか調べてみましょう。ただ、少し時間がかかってしまいます。最低でも一時間程は……」
「では、その間他の用事を済ませることにいたします」
「速やかに調査いたしますので」
ナチは平和な寝息を立てているソロンへ歩み寄り、少しだけ”力”を込めた声で覚醒を促す。寝ぼけ眼で辺りを見回すソロンに教会へ向かうことを告げ、頭を下げる青年に見送られてギルドを後にした。