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ハオサーク  作者: 桜前線
10/25

タオスの街 1

 銀色の月が西に沈み、空が明るみ、日が昇ってからおよそ二時間後。まだ気温の上がり切らない早朝の気配を残す澄んだ空気の中、村の入口には三百人を超える人々が集まっていた。

 柵の出入り口を挟んで村の方には色褪せた貧しい服装の村人達。外側には彩色のはっきりした真新しい布地の服を着た人々。ソロンと数人の村人も外側にいて、重そうな荷物を背負っている。


 彼らの前に立つのは昨日とは違うより豪奢になった装いのナチである。

 陽光に照らされた美しい海のようなコバルトブルーの布地に銀糸と翠玉を加工して縒った糸で花に似た文様が刺繍された上衣。真珠のような光沢を持つ純白の布地に金剛石を加工した糸で蔦のような文様が刺繍された下衣。旅人に必須のマントは金砂の輝きを纏う泡雪のような白い毛皮。靴は底が厚く、夜闇のような漆黒に星空のような輝きが散りばめられた踝までの布靴。布と言っても非常に丈夫な素材だ。


 陽光に照らされ輝く漆黒の黒髪には、紅水晶から削り出した薔薇の花が咲く黄金の蔦が絡みついている。首には大きな紅玉が嵌め込まれた黄金のチョーカー。左手首には紅玉と金剛石が嵌め込まれた銀の翻訳腕輪。


 この服装は昨夜ソロンと相談しつつ決めたものだ。ソロンとしては煮え滾る灼熱のマグマのような紅の布地に稲妻を纏って翔け昇る黄金の竜が描かれた長衣や、触れただけで指が落ちそうな薄く鋭い鱗のマントなどがお勧めのようだったが、それを着用すると役人達と、というか会う人と円滑な話し合いをすることが難しくなりそうだったので、ナチは大人しめの服装を選んだのだ。

 別にナチは恫喝しに行く訳ではない。主目的はあくまで穏便に、双方合意の上で快く許可を出してもらうことである。


「これをお返しします」

「ナ、ナチ様、これは一体、娘と、娘を―――」

「今はなにも言えません。どうかお待ちください」


 ナチは村人の手に借りていた女物の服をそっと渡した。他にも二人、貝殻を紐で結んだネックレスと、歯の欠けたみすぼらしい櫛をそれぞれ持った男がいる。

 縋るように見つめてくる彼らを見つめ返して、ナチは言葉を切った。深い色を湛える漆黒の瞳に見つめられ、男達はそれ以上なにも言えずに引き下がる。村を囲む柵の外へと出て行くナチに向かって、祈るように目を閉じた。


「ナチ様、もうよろしいんですか?」

「はい、ソロンさん。―――では皆さん、短い間ですがお世話になりました」


 振り返って告げたナチに、村人の間から爆発するような歓声が上がった。


「お世話だなんてとんでもない! こちらこそナチ様にゃ世話になりっぱなしでェ!!」

「村の大恩人だよォ、ナチ様は!!」

「神様が遣わしてくださった救い主だ!!」

「ありがとうございました、ナチ様ァ!!」

「また来てくださいねー!!」


 盗賊達に連れ攫われ、故郷へと帰る為に出発する者達。盗賊達の財を売り払い、窮乏した村の為に物資を調達しに行く者達。

 そして不幸な手違いの末の不法入国を合法化しようと目論むナチ。

 彼らは三百人が声の限りに張り上げる大歓声の中、村を後にした。

 向かう先はタオス街。

 現在地であるウルクラート帝国カルタルメリア州コザーニ県アルタス郡クレタス・マティ村から五時間程歩いた場所にある、人口五百人程の小規模な地方都市である。










 街への道、と言っても石畳が敷かれたり、一定の幅を決めて草叢や茂みが取り除かれている訳ではない。

 迷宮がある訳でもない、人が盛んに行き来する商業都市でもない田舎では、道を利用するのは精々が地元の平民か、近場の領地から足を延ばした小商人。

 道の所有権は領主にあるものの整備をする訳もなく、行き来する人間によって踏み固められた細道がこの辺りの村や街を繋ぐ唯一の道だった。

 少し目を離すと、その細い道は草叢に紛れてわからなくなってしまう。ソロン達村の人間はさすがに慣れているらしくほとんど確認もせずに歩いていたが、違う村から連れて来られた者達はそうもいかない。


「あぁ、おい! そっちじゃねえよ!」

「え? でもこっちに道が……」

「焚き火の跡だな、そりゃあ。わかりにくいからよ、俺達の後ろを歩いとけ、な?」


 違う世界から来た者もそうはいかない。


「ナチ様! そっちは森です! 思いっきり目の前に森が広がってるじゃないですか! なんで!?」

「こちらの方向に向かえば人がたくさんいるところに着きます。おそらく皆さんがおっしゃっていた街でしょう」

「道を歩いてください!! 魔物に襲われたらどうするんですか!」

「魔物……、そういえばソロンさん。森を抜けて来た時に少し戦いになりまして。倒してしまったのですが、この辺りの森は狩猟を禁じられていますか?」

「森? 森を抜けて? 森を抜けて来た?」

「一応死骸はとっておいたのですが」


 ナチが巻物を開くと、そこには滴る血も生々しい奇妙な姿をした動物達。

 凶悪な体毛を持った猪もどきや、毒々しい色合いの花が咲く蔦と一体化した鹿もどきなどの映像が。


「魔物ですよ、これ、どう見たって魔物です!! ナチ様、よくぞご無事で……!」

「狩ってもよかったのでしょうか?」

「当たり前です! 魔物ってのは人間と見たら殺しに来るんですよ!? 大人しく殺されろってんですか! 魔物を殺して咎められることなんてありゃしません!」

「そうですか。それは良かった。ところでこの猪、なかなかいい肉付きをしていると思いませんか? 食べられるでしょうか」

「いや、どう、なんでしょう、ね……? 私ら魔物なんか倒せませんから、そういうことには詳しくありませんけど。食べられるのもいると噂に聞いたことはあります。……まあ、そうは言っても魔物を食べるなんてのは私らにゃあ想像がつきませんが。冒険者ギルドで聞いてみたらどうです?」


 しばらく歩くと徐々に道が―――踏み固められ草の生えていない地面の広さが広がり始める。少し先では三本の道が交差している。それぞれ違う方向から来た三本の道が合流して一本の道になっているのだ。

 そのちょうど交差した場所で、一人の男がやる気の欠片も感じられない態度で椅子に座っていた。地面に直接置かれた椅子以外に、テーブルや屋根などは見当たらない。男は村人達よりも質の良い服を着ている。形も村人達の服とは少し違う。制服のような恰好だった。


「道を通るのに税を払わなくちゃなりません。あいつは取り立てをする役人です」

「彼は一日中ああしているのですか?」

「ええ。ここら辺まで来ると、もう街はすぐそこです。これまでも何度か道が合わさってたでしょう。あっちとそっちの道もそうやって幾つもの村に繋がっているんです。街へ行くにはどうしたってあそこを通らなきゃなりませんからね」


 道の脇の茂みで腰を下ろして休憩している者達の姿がちらほら見られる。どの者も腰を下ろしてはいるものの、荷物はしっかり抱えていた。


「道は領主様のもんだってんで、道に落とした物も領主様のもんになっちまうんですよ。因縁つけられて持ってかれちまいます。だから休むんなら十分に道から離れた場所でなくちゃいけません。それでも何処までが道かなんて役人の気分次第ですから気は抜けないですよ。特に今日は気を付けなくちゃなりません。大金を持ってますし、そこのそいつらの服は農民じゃ手が届かない良い布を使ってるのが一目でわかる」

「あの、わたしはこちらのお金を持っていないのですが、通行料とは現物でも構わないのでしょうか?」

「もし払えと言われるようなら私が払いますよ」

「良いのですか?」


 ソロンの、いや、村人の暮らしぶりは決して裕福ではない。臨時収入があったとはいえ、明らかにナチの方が懐が温かい。


「ナチ様には盗賊達の持ち物を全て譲って貰いましたから、当然です。それに、貴族様相手に払えというのかどうか……」

「貴族は払わなくとも構わないのですか?」

「そもそも貴族様はこんな道を通らないんですよ。普段威張り腐ってる領主とか、役人とかじゃなくてですね、本物の貴族様のことなんですが。そういう方々はこんなところに来ませんし、移動するのにも魔道具を使うとか」

「本物の貴族」

「ええ、それこそ千年、二千年って続いてきた血筋の方々です。最近になって成り上がった、俺達と大して変わらんような連中じゃなくてね」


 ソロン達一向が近付くと、道の脇で休憩していた村人達の視線がその奇妙な集団に釘付けとなった。隣り合う者同士で噂話をすることも忘れて、唖然とした表情でナチの豪奢な装いを見て、異様に質のいい服を纏った村人のように見える人々を見て、そこに混じる有り触れた村人のソロン達に首を傾げ、ナチと目が合いそうになって慌てて下を向く。

 平伏すればいいのか、立てばいいのか。突如現れた雲上人に心臓が口から飛び出そうになった彼らは、自分達と同じ村人に見えるソロン達に縋るような視線を向け、村人達とナチが並んで歩いていることに気付いて更に混乱する。


 椅子に座って手に出来たささくれをいじっていた役人の男は、周囲の空気の変化にふと視線を上げ、とんでもなく豪奢な衣服を身に纏った、明らかに高貴な身分の少女が真っ直ぐ自分を見つめているのに度胆を抜かれて椅子からずり落ちた。

 混乱した頭で貴人と対面するに相応しい礼儀作法を思い出そうとするも、木っ端役人でしかない彼にそんな教養は備わっていない。よって彼は慌てふためきながら道の脇に退いて地面に平伏した。


 地面に伏せた役人はできるだけ小さくなる。何事もなく路傍の石のように無視して通り過ぎてほしい。雲の上の貴人の相手など、彼には荷が重すぎる。

 それにつられて固まっていた村人達も荷物を放り出して平伏する。状況は全く理解できないが、あの少女がとんでもなく高貴な身分であることは確かだ。万が一不興を買ったらどうなることか。


「―――この道を通りたいのですが」


 ナチが声をかけるも役人は顔を上げない。他の平伏した人々も同様だ。

 貴族然とした装いの威力は十分なようだ、とナチは思った。いささか十分過ぎる気もするが。応対をして貰えないのは困る。

 ナチは役人の前に立った。落ちた影に役人の肩がびくりと震える。


「この道を管理する者ですね? この道を通るのに、なにか必要な物はありますか」

「いッ、いえ、ありません! とんでもないことです! 高貴な方にそのようなことは……!」

「通っても構わないのですか?」

「も、もちろんでございます……!」


 貴人から下手に税など徴収したらどうなるかわからない。


「連れの者が何人かいるのですが」

「どうぞ、お通りになってください!」


 もはや役人の頭はこの場をなんとかやり過ごすことで一杯である。変わり映えしない彼の日常に発生した異常で緊急で高貴で恐怖な事態。来襲者、貴人の少女。


「この地の規律を乱すつもりはありません。決まり通りにしてください」

「はッ、はい……! で、では失礼して……!」


 ソロンが代表してナチ以外の者達の通行税―――徒歩税と言うらしい―――を支払い、一向はその場を後にした。少し歩いて役人達から遠ざかると、ソロンと村人達が堪え切れないように笑い始める。


「見たか、あいつの顔!? 慌てふためいちまって、いっつも威張り腐ってるのが、子兎みてぇにびくびく震えちまってよォ」

「あいつ、しばらく俺達の顔をまともに見れないんじゃないか?」

「あいつにゃ以前難癖つけられて税を余計に取られたからな、いい気味だぜ」

「どうせ上に納めちゃいねえさ。あいつの小遣い稼ぎだ」


 クレタス・マティ村の村人達は肩を竦めた。




 椅子と役人だけの関所から少し歩くと、灰色の城壁が見えてきた。ところどころ崩れかかっていて、それがそのまま放置されている。石材は形が不揃いで、それが不格好に積み上げられて壁を造り上げていた。高さは六メートル程。石壁の隙間には長年の間に溜まった土埃を土台に生えた冬草の緑がちらほらと覗いている。


 分厚い木でできた門は大きく開かれ、入ってすぐの広場で幾つかの露店が敷いた布の上に売り物を広げているのを窺うことが出来た。

 門の内側には衛兵の詰所が設けられ、その前には十人を超える貧しい身なりの人々が並んでいる。

 彼らは休耕期に仕事を求めて街へとやって来た近隣の農民だ。オリーブ油を作るクレタス・マティ村のように収穫期が冬の時期という村は珍しい。大抵は収入のなくなる冬場にかけて街に働きに出るのが一般的であった。


 毎年繰り返される有り触れた光景に、今日、一人の異邦人が降り立った。

 目にも鮮やかな刺繍の施された衣服に、金砂に輝く純白の毛皮のマントを纏った美しい少女である。艶やかに流れる漆黒の髪や日に焼けた跡もない白皙の首筋に飾られた豪奢な装身具。地面を踏みしめさせるのが申し訳なくなる程美しい華奢な靴。

 並んでいた村人の一人が少女の首筋で輝く燃えるような紅玉に言葉を失ってぽかんと口を開ける。もう一人が陽光に照らされた海のようなコバルトブルーの上衣の美しさに息を呑む。

 少女が一歩踏み出すごとに、紅水晶の薔薇が咲き誇る美しい黒髪が揺れる度に、褪せた風景が鮮やかに色付いていく。


 どこぞの王宮で優雅に華やいでいるのが相応しい、そんな佇まいの少女である。

 荷物を背負った有り触れた村人達と、妙に上等な布地で作った服を着た者達。奇妙な一団を引き連れたその少女は実に礼儀正しく列の最後尾に並んだ。醸し出される圧倒的な存在感からすると意外なほど控え目な態度だった。


 少女とは逆に落ち着いてはいられなかったのが彼女の前に並んだ人々と、自分達が彼女に対応することになると思い至った衛兵達である。

 人生で一度も想像したことのなかった状況に真っ白になった思考の再起動を果たし、並んでいた人々は速やかに列から飛びのき、衛兵達は椅子を蹴飛ばし直立不動の体勢を取った。


「皆さん、わたしのことはお気になさらず」


 この上もなく美しい、透き通った声が告げる。

 何時までも聞いていたくなるような声だ。

 だがしかし、気にするなと言われても無理である。

 そんな彼らの言葉に出来ない心の声を代弁するかのように、荷物を背負った村人の一人が言う。


「ナチ様、速やかに手続きを済ませて街の中に入りましょう。ここはそれが一番かと」

「そうですか? 列に割り込むつもりはなかったのですが……」

「割り込んでなどいませんとも。ナチ様の御威光に打たれた彼らの善意です」

「では、先に通らせていただきましょう。ソロンさん達は後から? 門の脇で待っていればよいでしょうか?」

「おそらく私達のこともすぐに通してくれることでしょう。ええ、ですが時間のかかることもあるかもしれませんから、その時は申し訳ありませんがお待ちください」


 人々が固唾を呑んで勇気ある村人を応援する中、無事納得してくれた貴人の少女が衛兵達の前へと進み出る。


「ナチと申します。冒険者ギルドとサルヴァトル教会に所用がありまして、このタオスの街に寄らせていただきたいのです。長期間滞在する予定はありません。用が終われば今日にでも立ち去ります」

「こ、ここに名前を―――」


 ぎくしゃくと薄汚れた記帳を持ち上げた若い兵士を年配の兵士が慌ててど突く。


「馬鹿野郎、貴族様だぞ!? 急いで役所に連絡するんだ! 確か今日、隊長はいたな!?」

「は、はいッ!」

「申し訳ありません、連絡の不備があったのか急なことでその、十分な歓待の用意が整っておらず―――」


 若い兵士が駆け出そうとするのを貴人の少女が目線一つで押し留める。


「構いません。突然訪れたのはこちらの事情によるもの。少々相談したいことがありますので後ほど役所には伺いますが、過分な歓待をしていただく必要はありません」

「は、ではそのようにお伝えします!」


 貴人の少女に直々に話しかけられた若い兵士が、皇帝を前にしたような態度で敬礼をして駆け出していく。

 少女は次に、テーブルの上の記帳と羽ペンに目を留めた。年配の兵士が放り出されてぐしゃぐしゃになった記帳を慌てて直そうとする横から、純白の手袋をした華奢な手がそれを攫う。


「ここに名前を記入すればよろしいのですね?」

「い、いえ、そのような必要は―――ない、と、思いますが……」


 年配の兵士は口籠った。長年衛兵として勤めてきたが、目の前の少女のような住む世界の全く違う雲上人がこの街に訪れたのはこれが初めてである。そもそもこのような事態は想定されていないのだ。対応の仕方などわからない。


「定かでないのなら念の為に記入しておきましょう。よろしいですか?」

「は―――はい」


 垢で汚れた羽ペンが繊細な刺繍の施された手袋を嵌めた指につままれる。衛兵は新しい羽ペンに取りかえるべきだったと猛烈に後悔した。

 繊細な指先が黄ばんだ記帳にさらさらと流暢に記入していく。真珠色に眩しく輝く手袋が目の粗いざらついた紙に触れるのを見て、衛兵は居た堪れなくなった。


「出来ました」


 少女が書いたのは、複雑な模様のような形だった。この国で使われる文字ではない。そういえば少女の顔立ちは見慣れないものだった。この辺りの者ではないのだろうか。

 そう思って衛兵は記帳の影から少女を窺う。


「そう書いてナチと読むのです」

「ハッ! ありがとうございます!」


 この文字を読める者はこの国にいるのだろうか。衛兵にはわからないが、どちらにせよこれでようやく少女に通過してもらうことが出来る。


「都市に入る際に幾らか払う必要があると聞いたのですが」

「いえ! どうかお通りください!」

「払わずとも構わないのですか?」

「はい! 全くもって問題ありません!」


 むしろ払ってもらった方が困るのだ。名前を書くだけならともかく、税まで徴収してしまうと万が一の時言い訳出来ない。領内で税を課すことは領主の権利、つまり税とは領主の意志の下で徴収される。迂闊に税など払われて、少女の背後にある家に、この地の領主が少女から税を取ることを要求したと認識されれば、家同士の抗争の引き金となりかねない。


 何故貴人の少女が先触れもなく唐突この街を―――それも門から、まるで平民のように―――訪れたのか、領主は少女がこの街を訪れていることを知っているのか。領主とこの少女の家の関係は敵対的なのか良好なのか。


 少女が引き連れているのは全員単なる村人だ。妙に質の良い服を着ている者達もいるが、見かけだけだ。外見だけ整えても生まれ育ちというものは隠しようもなく滲み出る。

 夏も冬もなく日差しに晒されがさついた肌に農作業で形の歪んだ指や爪、分厚くなった手の平、歯並びの悪い口、田舎訛りを隠そうともしない野暮ったい話し方。

 なによりもその立ち居振る舞いだ。礼儀作法など生まれてこの方一度も縁がなかったとすぐに知れる、上品さや威厳の欠片もない佇まい。視線の向け方、立ち方一つとっても貴人と農民ではまるで違う。


 彼らは少女の従者ではないだろう。周囲には家族らしき者の姿も見えない。供もなく、貴人の少女がたった一人でこんな場所にいるのは何故なのか。

 わからないが、慎重になる必要があることだけは確かだった。


 衛兵は今のこの状況と、迂闊に行動することの危険性を正確に理解した訳ではない。彼は単なる門番である。

 だがしかし、おおよその平民と同じく高貴なる血筋というものへの畏怖はしっかりと刻み込まれていた。

 なにより目の前にしてみればよくわかる。軽々しく触れることが出来るような存在ではない。


「そう……。では、わたしは中で待っておりますので」

「はい、ナチ様。申し訳ありませんが、待っていてください」

「すぐに通しましょう! お前達、もう通って構わんぞ!」

「いえ。規律を乱すつもりはないのです。どうか普段通りに職務をなさってください」

「はッ―――! では、お前達、すぐに並べ! 速やかに名前と出身の村を告げるように!」


 貴人の少女の後ろにいるのは二十人を超える村人達。

 人数が多過ぎる。貴人の少女を待たせて手続きをするには人数が多過ぎる。

 いつも通りにやった場合にかかる時間を瞬時に思い浮かべ、衛兵は額に汗を浮かべた。その間、貴人の少女が待っているのだ。すぐそこで、路傍に立ったまま、日射し避けの傘もなく、飲み物もつまむ物もないままで。

 しかもこれまでの態度や言葉から推測するに、少女は決まりを守ることをよしとする真面目で慎み深い性格だ。手続きをおざなりにすれば注意されるだろうし、椅子を差し出しても断られそうだ。そもそもここにある椅子は貴人の少女に勧められるようなものではない。


 衛兵は羽ペンを躍らせ黄ばんだ記帳に凄まじい速さで名前を記入した。普段は唐突に耳が遠くなったり、何度も何度も繰り返し尋ねることもある街へ入る理由を述べさせる時も、今回ばかりは実に耳の通りがよくなった。それはもう、何年も詰まっていた耳垢が綺麗さっぱりなくなったかのようである。

 一括で支払われた税の確認も、一度として数え間違えることも、うっかり袖の中に落として失くすこともなく終了した。古ぼけた紙幣を数える衛兵の手捌きはまるで熟練のギルド員のようだったという。


 こうしてソロン達一向は敬礼する衛兵と隅で小さくなった余所の村人達に見送られ、実に円滑に街の中へと通された。


「思ったより早く通ることが出来ました」

「いつもはあんなんじゃないんですよ、ナチ様。わざと聞こえないふりをしたり、渡した筈の金をないっつって余計に払わせたり」

「そうなのですか。これからも今回のように真面目にやってくださると助かりますね」


 ソロンは期待できそうにない、と肩を竦める。


「それは難しいでしょうなぁ。私らはただの農民ですから。今日はナチ様がいたからですよ」

「わたしが?」

「ええ。高貴な方の前で下手なことは出来ませんからね」

「選んだ衣装の効果は抜群のようですね」

「もちろんですとも! ナチ様はどんな服を着てても一目で高貴な方だとわかりますからね、そこに相応しい装いをすればもう完璧です! どんな物知らずな奴だろうと、ナチ様の高貴なお姿を見ればひれ伏しますとも。それはもう、アマデウス様の前に並んだ従順な子羊のように!」


 腫れぼったい目をしょぼしょぼさせて、ソロンは得意げに胸を張った。その眼差しは微妙にピントがずれている。彼は昨夜、寒空の下一晩中ナチと問答を繰り広げ、結局一睡もしていない。一昨日は盗賊達に痛めつけられ、昨日は盗賊と友人と戦った彼の体力はいい加減限界に近い。




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