盗賊と村 1
「ブヘァッ!」
殴り飛ばされた勢いのまま、ソロンは薄汚い部屋の隅に置かれた木箱にぶつかった。
積み上げられていた赤いリンゴが床に散らばる。木箱の角にぶつけたのか、背中がひどく傷んだ。鼻の奥からどろりとした物が伝い落ちてくる。
ふらつく頭を堪えて、なんとか立ち上がろうとしたソロンの手がリンゴを捉えて無様に滑る。足がもつれて再び木箱に突っ込んだソロンの上に嘲笑と罵声が降りかけられる。
「オイ、聞いたか今の!」
「『ブヒャー』、だとよ! 豚みてぇに鳴きやがって!」
「兄貴の一撃がイイ具合にキマっちまったんじゃねぇか? おう、村長さんよ、どうなんだァ!?」
悪意と嘲りに満ちた下品な笑い声が響く中、立ち上がったソロンは部屋にたむろする人相の悪い男達の中心に立つ男に縋り付く。風体の悪い男達の中で、まだそれなりに整った服装をしている男だ。腰には幅広の剣をぶらさげている。
「あ、あなたが! あなたが約束してくれたんじゃないですか!!」
「約束?」
わざとらしく首を傾げる男にソロンは叫んだ。
「金と、食糧を持って来たら娘は返してくれると!! 旅をするだけの蓄えが出来たらここから出て行くって!! だから私は、ちゃんと言われた分だけ耳を揃えて持ってきて―――」
必死に言い募るソロンの言葉は、唐突に吹き出した男の笑い声に遮られた。
「な―――」
「オイオイオイオイ! 聞いたか? 俺が約束したんだってよ!」
周囲に向かって大仰に肩を竦めてみせる男。どっと笑い声が湧く。
それにかき消されまいとソロンは声を張り上げた。
「私は確かにあんたが約束するのを聞いた!! ここ、ここに証文だって―――」
殴られても手放さなかった小さな皮袋から取り出した紙を、男は無造作に奪い取る。質の悪いがさつくそれを一瞥して、鼻で笑って握りつぶした。
丸めたそれを放り投げる。その先には炎が燃える暖炉。
「あ、あぁ!」
まろぶようにして暖炉に走り寄るソロンの足がなにかに躓く。目前に迫る炎。必死でもがいたのも虚しく、ソロンは頭から燃え盛る炎に突っ込んでしまう。
掠れた悲鳴を上げてソロンは転がった。転がりながら必死で自分の頭と顔を叩く。運よく火は燃え移っていないものの、それに気づく余裕はない。
ここに来るのに綺麗に洗ってきた余所行きの服を埃まみれにしながら、ありもしない炎を必死で消そうとする姿に、男達の笑い声が大きくなる。
「折角めかしこんで来たのになァ!」
「言ってやるなよ、俺達の根城を這いつくばって綺麗にしてくれてんのさ」
「おい、あいつがいるの、この前お前がしょんべんしてたところじゃねぇか?」
「はァ!? そいつは聞き捨てならねェな。おい、どいつだ! ちったぁ気を付けろっていつもいつも言ってんだろ!」
「勘弁してくれよ。ママじゃねぇんだからさァ!」
「てめぇの漏らしたモンと仲良くする気はねェんだよ!」
ソロンは蹲ったまま荒い息を吐く。ソロンそっちのけで言い合いを始めた男達に気付かれないようにじりじりと下がる。
男達は仲間内の気安い言い争いに気を取られているようだった。中心に立つ剣を佩いた男は呆れたように諌める言葉を口にしながらも、愉快そうな笑みを浮かべて男達を眺めている。
蹲った体勢のまま、ソロンは暖炉に手を伸ばした。手の平が炙られるのも構わずに炎に触れる。
―――まだだ、まだ………!
炎に魔力を練り込む。身体中から魔力を絞り出して、霧散しそうになるのを気力でねじ伏せ炎に注ぐ。
殺せるとは思っていない。ただ、隙が出来ればいい。娘を助け出せるだけの隙が。男達が根城にしているここは、元は村の狩小屋だ。外に出ることが出来れば、娘は一人でも村まで逃げられる。
炎がじりじりと魔力を呑み込む。掛け値なしのソロンの全力だ。だが、これでもきっと、男達を足止めするだけの手傷を負わせることは出来ない。
―――だから、娘を逃がした後はここに残って時間を稼ごう。
剣を佩いた男を睨み、ソロンは魔力を爆発させた。
暖炉の炎が牙を剥いて男達に襲い掛かる。ソロンが渾身の魔力を込めた炎は容易く振り払うことはできない。薄暗い部屋が一気に明るくなり、男達の叫び声が響く。
炎に捲かれて蠢く男達の間をすり抜け、扉めがけてソロンは駆け出した。
ソロンの生涯で最も烈しい一撃だった。命を捨てると覚悟したからこそ為せた、奇跡のような一撃だった。
「―――オイ、どこ行こうってんだ?」
しかし、それは容易く打ち砕かれる。
「どう、して―――」
この男は、この中で一番強い。だからこの男に一番力を割いた。巻き上がる炎の中心にいたのがこの男の筈だ。
―――では、何故無傷の男が目の前に立っているのか。
下らないものを見るような目付きで呆然としたソロンを見下ろし、男は鼻を鳴らす。ソロンの腕を片手で捻り上げたまま、渦巻く炎に向かって鬱陶しそうに剣を振った。
一撃で、部屋に渦巻いていた炎はかき消された。
「な、な―――」
男は言う。
「あのなァ、村長さんよ。世の中にはな、序列ってモンがあるんだよ。下の奴は血反吐ぶちまけようがクソ垂らして踏ん張ろうが、上の奴には勝てねえように出来てんだ。わかるか? あんたは下で、俺が上。―――ま、あんたも村長なんてやってんだ。このちんけな村ン中じゃあそこそこイイ線いってたんだろうが、勘違いしちゃいけねェよな? お前、俺になにしようってんだ?」
聞き分けのない子供に言い聞かせるような、面倒そうな口調だった。
ソロンの顔を覗き込んで、男は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「―――フン。可愛い可愛い娘の為なら命も惜しくありませんってツラだなァ。―――おい、てめぇら! 勇敢な村長さんが正々堂々戦って下さるそうだぜ!」
ソロンが放った炎に捲かれてあちこちに火傷を負った男達が怒号を上げる。
「最近てめぇら弛み過ぎだ。ちっと揉んでもらえ。一番励んだ奴は最近入った娘を好きにさせてやらァ!」
「兄貴! 娘っつったってたくさんいるじゃねぇか。どれだ?」
「入ってきたばっかの奴だ。一番最近のな。だから、まだ活きのイイ反応が楽しめるだろうよ。―――売りモンにならなくしちまっても構わねェぜ」
「すっげー、太っ腹じゃないですか!」
「一番最近ってぇと……」
「薄茶色の髪の毛の―――ああ、」
男が厭らしい笑みを浮かべてソロンを見やる。
「こいつと同じような髪の毛の娘だ」
「こ、この―――!!」
男はソロンを壁に向かって放り投げる。大の男であるソロンの身体が軽々と宙を舞い、三メートルも吹き飛ばされた挙句に壁に叩きつけられた。
床に転がって呻くソロンを、にやにやとした顔の男達が取り囲む。その内の一人がなにか棒のような物をソロンに突き立てた。
「ギャッ!!」
瞬間走った灼熱の痛みに、ソロンは弾かれるように転がって逃げる。
男が持つのは真っ赤に焼けた―――火かき棒だ。
どっと汗が噴き出して、血の気が引いていく。がんがんと頭痛がした。
次々と突き出される火かき棒を避けて、ソロンは必死に床を這って逃げ回った。男達が歓声を上げて囃し立てる。
何分か、何十分か。時間が経つにつれて避け切れずに肌に焼き鏝を当てられる回数が増える。床に擦った手足に擦り傷が刻まれていく。少しでも速度が落ちるとすぐに火かき棒を押し付けられた。
幾度目か、吹き出た汗で手が滑り無様に床を舐めた時、剣を佩いた男の姿が目に入る。
つまらなそうな顔だった。
ソロンはその時、唐突に理解した。
こいつらは―――こいつらは、ソロンが足掻くのを見世物にしているのだ。ソロンの娘に対する気持ちを、自分の命と引き換えにしても助かって欲しいと願うこの気持ちを、それがどこまで続くのか、どこまで持っていられるのか、それを見世物にしているのだ。
ソロンの想いがわからないのではない。わかってなお、それを嬲って楽しんでいるのだ。こいつらにとって、ソロンの命を賭けた想いとはちょっとした、なんてことない暇つぶし程度で踏みにじれるものなのだ。
こんな奴らに。
こんな、奴に―――!
剣を佩いた男が飽きたようにソロンから目を逸らし、扉へと向かう。
「頭ァ! 見てかないんですかい?」
「あァ。いい年した親父の臭ぇ悲鳴にゃ、そろそろ飽きた」
「はぁ。こいつの始末はどうします? 情けねぇ男ですが、村長なんでしょ? いなくなると村からのアガリが減っちまったりなんてこたぁないですかね?」
「……ハッ! そうしたらもっと締め上げりゃいいだけだろ。ま、そうだな―――」
見下した目でソロンを一瞥した男が彼の末路を無造作に決定しようとしたその時、部屋が震えた。
「なんだ―――?」
同じ頃、ソロンが嬲られている狩小屋から村を挟んで反対側の森の奥。
優に三十メートルを超える巨木が立ち並ぶ、深い、深い森だ。少し奥に入れば陽の光の差し込まない薄闇の中、方向感覚を失い、やがては森の住人である獰猛な獣や魔物の餌となる。村の住人も迂闊に立ち入ることは出来ない、人外の領域。
その薄暗がりに、なんの前触れもなく、金色の光が一片舞った。
雪のように大気に溶けて消えていくその光は、徐々に数を増やし、やがて炎へと変わっていく。空中で踊る炎は渦巻いて螺旋を描き、やがて一点へ向かって収束した。
黄金の水晶玉のようになった炎が輝く。ふるりとそれが揺れたかと思うと、爆発するように燃え上がった。
天を衝くほどに嵩を増した黄金の炎が辺り一体を呑み込む。眩い輝きが暗い森を照らし出した。
鮮烈な炎に呑まれた巨木が音もなく倒れ、そして崩れていく。燃えているのではない。黄金の炎に溶けるようにして消えていくのだ。
黄金の炎から発せられる力が空気を満たして震わせる。
―――降り注ぐ黄昏の光と溶け合う黄金の炎の中に、一人の少女が現れた。
◇
少女―――ナチは唐突に目の前に現れた光景に目を瞬いた。
足下から伝わってくるのは剥き出しになった湿った土の感触。目の前にひしめき合っているのは三十メートルは優に超える大木。
ぽっかりと開けた空から黄昏の光が降り注いでいる。時刻は夕方のようだった。
眼前の森の苔むした大地は張り巡らされた木の根で隆起している。生い茂る深緑の葉の下、わずかに差し込む陽光を奪い合うように絡まった蔦がカーテンのように垂れ下がっている。人の手が入っていない古い森のようだ。
聞きなれない鳥の鳴き声が何処からか聞こえてくる。風に吹かれた葉がナチの前をふわりと横切った。やたらとリアルな鳥の形をした葉っぱが。
まあ、そういうこともあるのかもしれない。ナチは存在する全ての鳥類を熟知している訳ではないし、植物にしたって同様だ。世界は何時だって未知に満ちているものである。
そう、こんな時は自然と一体化して、大いなる世界の息吹を感じ―――
ぴりぴりと肌に感じる”力”。
空気がナチの知るものと違う気がする。周囲から感じる”力”がいつもよりあからさまだ。表出している部分が大きいというかなんというか―――自己主張が激しい。ナチが慣れ親しんだ感覚は、もっと慎み深いものである。
ナチはとうとう、先程からありとあらゆる五感が喧しく訴えかけてくる可能性を認めることにした。
「………迷った?」
記憶が確かならば、彼女が直前までいた場所とここは似ても似つかない。
ナチが居たのは断じて瑞々しい緑の匂いも爽やかな森林地帯ではない。
厄介なことになったな、とナチは内心呟いた。
現在の彼女の立場は非常に微妙なものである。ナチが今出歩くことが出来るのは、ひとえに彼女の身柄を確保している者達の黙諾、加えて天地がひっくり返ったような混沌とした状況によるところが大きい。
鋭い視線で辺りを一瞥して呟く。
「見覚えのない場所だ。というより、見覚えのない世界だ」
取り合えず現状把握である。
ここは森の奥のようだが、周囲には何故か獣の気配を感じない。感覚を広げて更に広範囲を探る。ここから五キロ程度の場所に人らしき気配が多数。居住地のようだ。およそ半径一キロ圏内に動ける生き物の気配がない。僅かに残った生き物も必死で離れていく。大変必死に離れていく。逃げているようだ。その中心にいるのはナチ。
「………………」
まあ、そういうこともある。
すぐに戦闘になる可能性は少ないことが確認できたので、次に身体の調子を確かめることにする。
身体を保護していた”力”を徐々に収めていく。
―――異常なし。
”力”を完全に消して深呼吸してみる。
咽た。
―――い、色々と濃い。
濃密な”力”が喉に押し寄せてくるようだった。
術を発動する時の”力”の加減には気を付けた方がいいかもしれない。ここでの発動に慣れる必要有り、だ。
しばらく深呼吸して空気の濃さに身体を慣らしてから、ナチは屈伸をして肩を回した。そして出し抜けに宙に飛び上がってスピンを決める。
「わ、我ながらなんて滑らかな動き……。今なら世界だって狙える気がする」
ナチは思わず呟いた。
妙に身体が軽かったのだ。ここのところ常にナチ苛んでいた身体の不調が綺麗さっぱり消えている。
繰り出す拳は滑らかで、足捌きも軽い。関節が軋みを上げることもなく、最近常に付き纏っていた幾重にも重しをつけて深海に沈んでいるような倦怠感もなかった。
記憶にある、ナチの身体にまだ問題がなかった頃と比べてもまったく遜色ない。回復したのか、界を渡ったことによって一時的に調子が戻ったのか。
どちらにせよ、懐かしい解放感だ。
一通り身体の動きを確かめて、ナチは意識を身の内に向ける。
次の瞬間、水面から湧き上がるようにしてナチの胸から一振りの刀が現れた。
飾り気のない黒漆太刀。
ナチはそれを幾度か確かめるように振る。鋭い音を立てて銀色の刃が大気を切り裂く。
―――武器も問題なし。
刀を仕舞ってナチは手を振る。広がった袖口から巻物が飛び出した。開けば刀剣、苦無、不思議な色合いの液体が入った小瓶などが描かれている。いや、描かれているのではない。まるで3Dのような奥行を持った映像だ。
これは持ち物を異空間に保存する術が組み込まれた巻物である。
ナチは次々と巻物を取り出す。百六十センチのナチの身長が隠れる程に多種多様な巻物を積み上げて、彼女はようやく手を止める。
一身上の都合から、ほとんどの持ち物は持ち歩いているのだが、それにしても量が多い。
身柄を確保している者達からうろつくなら持って行けと渡されたのだ。
世の中なにが役に立つかわからないものだ、と篭城できそうな物資の数々が収納された巻物を眺めてナチは思った。
年長者の言葉は聞いておくものである。
食糧も、衣類も、道具も、素材も、武器も、十分な量と質だった。
当面の間、物資の面で困ることはなさそうだ。
―――他の荷物も問題なし。後は術の発動に慣れておいて―――と、その前に。
放り出した荷物を全て仕舞った那智は、軽く辺りを見回して近くに見える中で一番高い木へと歩み寄る。
予備動作なしで飛び上がり、五十メートルはあるその巨木の天辺へと着地する。
視界は良好。”力”に満ちた澄んだ空気が頬を撫でてナチの腰を超える長さの黒髪を揺らす。
眼下には夕日に照らされた広大な面積を誇る森が広がっている。先程多数の人らしき気配を感じた場所には木でできた柵で囲まれた小さな集落があった。きっちりとした四角形の柵の中には粘土の壁に藁葺きの屋根の小さな民家が多数。びっしりと植えられた果樹に、ヤギや鶏といった家畜の姿。農村のようだった。
広大な森に浮かんだ飛び石のようなその農村以外に、村や街は見当たらない。三方を森、残る一方も山で塞がれた農村から外へ続くのは一本の山道。山と言ってもそう高さはない。標高は一番高いところでも百メートルもない。その小さな山に貼り付くようにして、森に囲まれたその村はあった。
―――縄張り? マーキング?
妙な力場が村をぐるりと取り囲んでいる。主張が激しいこの世界の”力”の中でも一際目立っているようだ。
なんとなく村の所有権を主張しているような雰囲気を感じる。ただ、近くに感じる気配の中に似通った力の持ち主はいない。力場の発生源は村の地中。なんらかの道具を使用して力場を作り出しているようだった。
―――人の姿はしている。中身もあまり……大差なさそうな感じ。
村の中にちらほらと見えるのは、コーカソイドに近い外見をした人間達。なんだか妙に不景気な顔をしているし、村の中の様子から見てナチとは全く異なる文化圏に属していることが窺えるが、言葉さえ通じれば対話することはそう難しくはないだろう。
その中の一人が指先に灯した火でパイプに火を入れるのを見て、ナチはわずかに目を見開いた。
術だ。
もしかしてここでは”力”を利用するのが一般的なのだろうか。
そうだとしてもおかしくはない。これ程に”力”が表出しているのなら、特別な適性がなくともある程度利用することが可能かもしれない。
ナチは木から飛び降りて、音も立てずに着地する。身体機能はかつてない程に良好だった。ここはナチの居た場所よりも動きやすい。
「現地語ペラペラな見るからに異人種な外国人と、見慣れない道具を使って話す外国人……」
見たところ、あまり人の行き来、人種の交わりが盛んな土地柄にも見えない。
ナチは後者の手段を選ぶことに決めた。下手なことをするとうっかり間諜やら工作員やらだと勘違いされて追いかけられそうな雰囲気だ。
ナチは巻物を広げ、一つの腕輪を取り出した。銀の土台に大振りの赤い貴石が三つ、その周りには美しくカットされた金剛石が嵌め込まれている。
ナチが手の平をかざすと、光が走って不思議な文様を苔むした地面に描いた。その上に腕輪を浮かべると、地面から浮かび上がった光の粒が腕輪へと吸収されて、赤い貴石が内から輝くような光を帯びる。
―――明日の朝までにはなんとかなるかな。
それまで術の発動の確認でもするか。
徐々に薄れてきた黄昏の光の中、暗い森の奥へと足を進めかけて、ナチははたと自身が出現した場所を振り返った。
そこだけごっそりと削り取られたように、木も、草も、苔もなにも生えていない黒い土が覗いている。漂うのはなんとなく見覚えのある感じの”力”。
森林破壊の痕跡に漂う、見覚えのある感じの”力”。
この森、誰の所有地なんだろうか。
「………いやいや、わたしには覚えがない。覚えがないから無実、の筈……」
しかしナチは自然との共存を志す環境に優しい人間であると自負しているので、後片付けをしておくことに決めた。具体的には破壊跡に漂う見覚えのある”力”を周囲に馴染ませて隠蔽、もとい自然な状態に戻しておく。
周りから浮き上がった”力”は森林の回復を妨げるだろうと考えたナチの純粋な誠意である。
夜を徹した確認作業は大過なく終了し、術の発動は、溢れ出し過ぎな主張の激しい”力”に少々戸惑ったものの、おおむね問題なく使用できることが確認できた。
逃げ去って行った動物たちも時間が経つにつれて徐々に戻り始め、ついでとばかりに森の生態系を観察したところ、ナチの見たことのない植物や、見たことのない動物が至る所に溢れかえっていた。
やたらと活きの良い生物達も多数存在したが、時々襲い掛かってくるそれらを殴ってみたり焼いてみたり威嚇したりしつつ、ナチとしては中々有意義な時間が過ごせたと思う。
やはり術の確認には相手が居てくれた方が張り合いがあるし、少々鈍っていた身体も大分元の調子を取り戻すことが出来た。もちろん協力者達の死骸はちゃんと保存してある。
後で色々調べてみたい。美味しい物はあるだろうかとナチは期待を膨らませた。
そんな充実した一夜が明けた翌日、森の中の昨日出来たばかりの空き地にて、爽やかな朝日に包まれながら、ナチは仕込んでおいた腕輪の調子を確かめていた。
「わたしはナチと言います。遠いところからやってきたような気がしますが、実際のところはよくわかりません。できるだけ現地の皆さんにはご迷惑にならないように最善を尽くしたいと願っていますが、知人が言うにはそうしたわたしの努力は逆効果になることが多いらしいので、やっぱり細かいことは気にせずに行った方が良いかもしれません。なにぶんここはわたしにとって未知の地であるため、胸をお借りするつもりで精一杯―――」
そこでナチは言葉を切って首を傾げる。
―――駄目だ。なんだかこう……自己紹介としては適さないような気がする。
腕輪の機能は問題ない。ここら一帯で使われている言語情報の取り込み、翻訳共に問題がない。ない、と思う。なにしろここは未知の世界、実際に使用するまで確たることは言えない。
ナチが問題としているのは、どのように現地人と接するかだった。
初対面の、しかも明らかに異人種に慣れていなさそうな雰囲気の場所に乗り込んでなんとかなると楽観できる程、ナチは自分のコミュニケーション能力を過信していない。
「いっそのこと人に会わないように闇夜に紛れて……」
口に出してみたら、それでもいけそうな気がしてきたナチである。
そうだ、別にわざわざ人と会わなくても構わないじゃないか。物資は充分にある。目的地は決まっている。勘が告げる方向だ。領内でこそこそ動き回っていると、治安維持部隊とか警備部隊とかそんな感じの皆さんに手間をおかけすることになるかもしれないが、ここは一つ大らかな心で見守って欲しい。いや、でも、折角未知の場所に来れたんだし遠巻きに見るだけというのも―――
作った側から腕輪が用無しになりそうなことを考えながらぐるぐると歩き回っていたナチは、ふと顔を上げた。
しばし村の方角を眺め、軽く地面を蹴って木の天辺まで跳躍する。
柵に囲まれた長方形の村に目を向けた。
―――敵―――いや、顔見知りか……?
武器を装備した男が四人、村の中へと入っていく。村から少し離れた森の中の小屋から出てきたようだった。
ナチはかすかに眉を寄せた。
山小屋を無理矢理増築したようなあの小屋、弱弱しい気配を幾つも感じるのだ。その近くには至って壮健な五十人程の気配。更に昨日は、室内で戦闘しているような気配まであった。きな臭い雰囲気がぷんぷんしている。
ナチが見つめる先で、男達は声を上げながら村を練り歩いている。怯えたように家の中に隠れる村人達に馬鹿にしたような表情を浮かべながら、そちらに向かって石を投げつけ野次を飛ばす彼ら。とてもじゃないが共同体の一員、村の住民とは思えない。
母親らしき女が待つ家へと駆け寄った四歳程の幼女が道の真ん中で転ぶ。勢いよく膝を擦り剥いた幼女は道に蹲ったまま泣き出した。男の一人が蹴り飛ばす。
村人達は視線を逸らして、じっと縮こまっている。
そのまま何度か足蹴にした男が、痛みに泣き叫ぶ幼女の声に鬱陶しそうに顔を顰めた。腰に下げた小ぶりのナイフを手に取る。
扉に縋り付いて蒼白な顔をしていた、腹の大きい母親らしき女が叫び声を上げて男達へ走る。がむしゃらに掴みかかってくる女に向かって男の一人が無造作に鉈を振るった。
胸と腕を力任せに切り裂かれた女が悲鳴を上げて縋り付く幼女に覆いかぶさるようにして倒れた。
殺意のない一撃だった。逆に、手加減も感じられなかった。死んでも死ななくてもどちらでも構わないと、そういうことだろう。
倒れた女を足蹴にして楽しそうに仲間内で会話を交わす男達。遠巻きに囲む村人達の中から、一人の男が彼らに向かって駆けて行く。激昂しながら刃先だけ鉄製の斧で切りかかる。刃を振るう動作は堂に入っているものの大振りで、しかも動きが単調過ぎる。人に向かって振るったことはないのだろう。
案の定、あっさりと交わされて男は背中をナイフで刺される。
流れ出る血に興奮したのか、男達は甲高い怒号を上げて村人達に襲い掛かった。やはりそこに殺意はない。男達から感じるのは弱者を嬲る優越感と一方的な暴力への陶酔だけだ。
「…………」
彼らの争いごとに首を突っ込む理由はない。あの村はナチの村ではないし、ここはナチの故郷ではない。
ナチは結論を出した。
―――戦いを避けるべき理由もない。
あの男達がなんなのか。どんな事情があるのか。
わからないが 取り合えずより気に喰わない方を殴っておこう。
ナチは村に向かって枝を蹴った。