範士八段
ようやく娘の首もすわり、斎藤は、非番の日に妻と娘を連れて、
井伊道場へと訪れた。
平日昼間の為に、道場には、千勢しか居なかった。
「よく来てくれたわね。」
千勢は、喜びながら、赤ちゃんを抱いて、斎藤とその妻をねぎらった。
「すみません、先生。中々これなくて。」
千勢になぎなたを習っていた妻の美奈子が、謝った。
「いいのよ。気にしなくて。こうして来てくれたんですもの。」
「この人は、しょっちゅう東京に来てるんですけどね。」
そう言って、美奈子は夫の斎藤修介を見た。
「遊びに来てるわけじゃないぞ。」
「あら、女子大生に会えるのを楽しみにしてるんでしょ?」
「何度も言ってるが、俺が教えてるのは男子だ。」
「いつも千鶴ちゃんと仲良くしてるって聞いてるけど?」
「残念ながら、K大男子剣道部は、弱体化しててだなあ。
俺に進んで向かってくるのは、女子の井伊くらいしか居ないんだよ。」
そう言って、斎藤はため息をついた。
元々、埼玉県警の斎藤が、わざわざ都内の大学剣道部に教えに来る事が、
おかしいといえば、おかしかった。
斎藤は、K大卒という訳でもない。
斎藤の上司がK大卒で、弱小を嘆いて、斎藤に頼んだのが事の始まりだった。
警視庁にも相手にされないK大男子剣道部。
その名に恥じないくらい、斎藤に対しても弱腰だった。
さすが、弱小というべきか。
むしろ、今では、井伊千鶴専用の練習相手と言っても言い過ぎではないくらい
の状況だった。
「修介さんには、本当にお礼を言わなければね。千鶴の面倒を見て貰って
本当に助かってるわ。」
「いや、そんな。自分は対して役に立ってませんよ。井伊なら、自分が
居なくても学生選手権なら、簡単にとれると思います。」
「同世代にライバルが居ないってのも悩みどこよねえ。」
赤ちゃんをあやしながら、千勢は言った。
「そうですね。」
斎藤もライバルが居ない事を懸念はしていた。
「あら、千夏さんだって、同世代にライバルは居なかったわよ。」
美奈子が言った。
「あの子は、大学の時には、全日本とってたから。」
現在の女子剣道は、4強時代と呼ばれているが、それでも村元千夏が、頭一つ
抜けていた。
残念ながら4強には、千鶴は入っていなかった。
「千鶴ちゃんは、次、全日本はどうなの?」
美奈子は夫に聞いてみた。
「難しいな・・・。」
「コーチが悪いんじゃないの?」
「そうかもな・・・。千勢先生は、どう思われます?」
斎藤は、千勢に聞いてみた。
「そうねえ。千鶴も精進してるから、強くなってるとは思うんだけど。
ここ最近の千夏は、本気で戦ってないような気がするわ。」
「千勢先生もそう思われますか?」
「ええ。」
「あなた、どういうこと?」
美奈子は夫に聞いた。
「村元5段の持ち味は知ってるだろ?」
「ええ、電光石火の早業でしょ?」
「ここ数年、そういった試合はしてないんだよ。」
「えっ・・・だって全日本選手権2連覇中じゃあ?」
「落ち着いた剣道で、盤石な試合運びをしてるからな。」
「千夏さんが、そういった強さを身に着けたんじゃない?」
「むしろ、電光石火の試合をする必要がないって、感じがする。」
斎藤は、ここ最近の村元千夏の試合を見て、そう感じていた。
「まあ、千夏には千夏の考えがあるんでしょう。話は変わるけど、
修介さんは、土曜のレイド戦は参加するのかしら?」
「いえ、自分は仕事がありますので。千勢先生は参加されるのですか?」
「ええ、楽しみにしてるわ。」
「先生は、範士八段なんですから、ゲームは程ほどにしてくださいね。」
範士とは、徳操高潔、技能円熟、識見高邁にして斯道の範たる者に与えられる
武道における最高位の称号である。
千勢は、全日本なぎなた連盟より範士の称号を授与されている。
「肝に銘じておくわ。」
千勢は、そう言って笑った。
楽しい一時を終え、斎藤一家は、千勢の道場を後にした。
「ねえ、千鶴ちゃんには、何の策もないの?」
後部座席に座った美奈子は、運転席の斎藤に声を掛けた。
「どっちの話だ?」
「もちろん剣道の話よ。ゲームで先生に勝てると思ってるの?」
ここ最近の千勢の戦闘動画を美奈子は見て、既に匙を投げていた。
「そりゃあ・・・。」
斎藤も何度か手合せしており、完膚なきまでに負けていた。
「千夏さんが強いのよく知ってるけど、全日本じゃあ千鶴ちゃんは。
千夏さんと当たる前に負けてるでしょ?」
「まあな。策がないわけじゃあないが・・・。」
「あら、歯切れ悪いわね。」
「まだ検討中だ。」
「頼りないコーチだこと。」
斎藤には策が無い事はなかったが、まだ悩んでる最中だった。
「それよりも薙刀の弱点は見つかったのか?」
「無理無理。どんどん強くなって、もう最強なんじゃない?」
「無冠の帝王に負けるって事は、もうないだろう。」
「まるであの化け物には、負けるって言ってるみたいよ?」
「正直わからん。デュエルは全く興味無かったからなあ。
噂だけは知ってたが、あんなに強いとは。」
斎藤は、カラットの試合の映像を何回か見て、その強さに驚愕していた。
「VFGXって見てるだけでも面白いのね。この子が大きくなったら
私も始めてみようかしら?」
「家計に大ダメージだな・・・。」
「それまでにしっかり稼いでね、あなた。」
「あ、ああ・・・。」




