駅に住む
1
駅、南口。突風の中を急ぎ足の人々が行き交う。家路を急く人がいる。恋人と落ち合う人がいる。列車が動く。人が動く。灰色と白。まだら模様の床は灰色だけを歩いていく。どれもこれも、わたしを置き去りにする。どこかに動かされていくような気持ちにしてくれるもの、そんな都合のいいものそうそうないんだなあと思う。
例えば部屋のなかのこと。要らなくなったものは、とりあえずどこかに目に付かないところに動かしてしまえばいい。でも要らないと言ってみたり要ると言ってみたりしながら引掻き回すから、収集がつかなくなる。とっておいたり、しまっておいたりしていると、捨てたいという感覚がなくなる。それどころか、囲まれているという安心感にすり替わってしまうこともある。その場ではっきり「要りません」と言うことができたらいいのに。そうすれば案外「そうか」と納得できるだろうに。なぜかはっきりできない。なぜだろうとずっと思ってきた。それが「そうか、私はそういうグダグダな人間なのか」と、最近気付いたのだった。
ならば、単純に、はやく決めよう。やれることはさっさとやろう、さっさと死のう、と思ったわけだ。短絡的で、頭の悪いヤツだから、こんな考え方しかできなかった。
簡単に言えば、自分を硝子に映して「自分は要らない」と繰り返し思っただけのことだ。変な顔。似合わない制服。大きな膝小僧。パンパンに張ったふくらはぎ。ソックスの位置を工夫しても、細くはならないんだと思った。どれもこれも気に入らない。だから自分の脚は要らないと思った。そして自分の顔も、自分の体も。自分の名前も。ただ、それだけのことだ。
だから、死んだ。それだけのこと。
柱にもたれて天を仰ぐ。曇天である。灰色がかった空。
私は昨日、死んだはずだった。
どうして死んだんだっけ。もう忘れた。
「お前は死んだ」
そう、上目線から教師が言った?
悲愴な顔で親が言った?
騒ぎながら友達が言った?
…いや、全部違う。言ったのは自分だ。
「私、もう自分は要らん。だから、死ぬ。」
それが、とても恰好のいいことだと思った。死ぬことが全てを終わらせる。なんてステキ。自分の選択で何もかもを終わらせる。それが一番恰好つけた生き方だと思った。そうだったはずなのに。
死んだはずの私が、あそこにいる。硝子に映った自分を睨んだ。
太い脚なんかちっとも気にならないくらい、もう全部が最高に恰好悪い、死ねていないというこの事実。死にぞこないだ。こんなことになるなら、生きていたほうが良かったかもしれない。
ふーっと息を吐いて、歩き出そうとする。だれも知らない。誰もいない。誰も私を要らない。そう思って少し笑った。けれど、一番感じたくない自分を、死ぬ前よりも大きく、重く感じてしまっていた。
このまま歩いたって、どこにも行けない。帰るところもない。何も食べられない。誰にも見られない。酸素もすえない。体温すらない。私はここにいるのに、ここにいない。
電車が入ってきたらしい。また人がここにやってくる。そして散らばって、それぞれの寝床に帰っていく。また明日になれば定時に集まって、決まりきった行動をして、電車に乗ってまたここにくる。みんなそうして、疑問を抱えて戦っているのだろうか。
それが無駄だと思ったから、やめるために何もかも捨てたのに。結局は、自分が一番無駄なことをして、行き詰っている。情けない。
ふと見ると、女子高生が待ち合わせをしているらしい姿があった。携帯を何度も何度もチェックして、溜息をついたりキョロキョロしたりしている。
ちらっと見た。
その子が特別私の目を惹いたわけではない。ただ、視線がそこに向いてしまっただけ。一瞬目が合った。その一瞬で、その子が何者であるかを理解できた。
パサパサでもさっとした髪型。太くて短い脚。中途半端なスカート丈。力の無い体つき。挙動不審ともとられかねない目の動き。
そして、くたくたの鞄についた、茶色のクマ。
ギョッとした。
一瞬で目を逸らしたその女子高校生、それがまぎれもない自分だったから。
鞄についたクマが、頼りなげに揺れていた。可奈子にもらったそのクマを、私が見間違うはずがなかった。鞄についたそれは、親友の可奈子が手作りで作ってくれたものだったから。世界に二つとない手作りのぬいぐるみ。ボタンでできた目に、やたら手の長いそいつは、そこらの店じゃ絶対売っていないものだ。
「あの・・・」
駆け寄って声をかける。
「何でここにいるの。」
私が自分に声をかける。この違和感に、信じられないほど驚いていない。ただ、疑問を感じたままに動く私。得体の知れない自分の姿。「え?」と答える自分に「あんた、あたし」と、意味不明に投げかける。「え、え」と怯えたように言う自分。でも困惑しているのはお互い様で、躊躇ってもしょうがない。
「あんた、今から何するつもり」
おびえた目をした自分と向かい合った。自分が今手に持っているスーパー袋の中には菓子パンが入っている。私にはそれがわかる。今から自分はこれを食べて・・・
「死ぬつもりでしょ」
「え」
うつむく、自分。身をかたくして怯えている。
「死ぬのね」
「…」
私ははぁあと長い溜息をつく。
「構わないけど」
「…」
「死んだって、こんなふうになるだけだよ」
私は手を向き合った自分の胸に当てた。ブレザーとエンブレム越しではあったけれど、微かに体温を感じることができる。まるで、心臓に触れるようだ。鼓動が鳴り止まない。
胸ポケットの中の生徒手帳をすっと取り出し、中を確認した。裏表紙に大きな文字で『上原』と書かれている。
「上原…あたし、上原っていう苗字だったんだ。まだ、遺書、書いてないね。」
びくっと身体を震わせた自分が、私を見た。その視線に答えるべく、精一杯の微笑みを返した。
「ちゃんと死ねるから、心配しなくてもいいよ。あんまり、痛くないし。結構綺麗な顔のまま死ねると思う。」
クマのぬいぐるみが、揺れた。「死にたくない…」そう言って、自分はがたがたと足を震わせながらその場に崩れた。
私はそれを、ただぼんやりと見下ろすことしかできなかった。
2
自分の名前すら忘れていた。でも最後に食べたものは覚えている。キオスクで買ったパンだ。味は・・・いつもと同じで不味かったように思う。最後の日の計画は、だいたい覚えている。
朝はいつものように母に見送られながら、靴をはいて家を出た。今日私を見送る母は、さながら出棺前の喪服姿の女性である。
母さん、さよなら。
ふりかえって母をみた。いつものように母は面倒くさそうに手を振った。ふと、この後母は何をするのだろうかと思った。午後になったらパートに行って、時間が終わればそのまま買い物をして、家に帰れば夕飯の支度をして、食べ終われば、風呂に入るのだろうか。そのあとは、肌の手入れをして、テレビをみて、サプリメントを飲んで、それから…電話かなにかで私の死を知るのだろうか。
笑える。
そして病院で泣くだろう。どうして――とかなんとか言いながら。
反吐が出る。
父は出張先で私の死を知るのだなあ。それもいい。仕事を優先させるか、とんでくるか、見ものである。たぶん、仕事が優先だろうけど。
電車に乗って、いつもどおりに学校に行った。午前中はぼーっとして、昼は朝買ったパンを食べて、それから午後の授業を受けて、帰りの身支度をして…毎日の同じ行動をこなして、誰にも悟られないようにして死のうと思っていた。
放課後、屋上にあがって、板チョコの入ったパンを食べた。涙でも出たら引き返そうかと思った。なにごともなく、日常に戻ればいい。でもパンを食べるのに時間はかからなかった。そして何より天気がひどく悪くて、灰色の空を見ていたら、この世に未練すらないなぁと思った。だから死ぬのに絶好の日和だと思ったのを覚えている。
まあ、菓子パンひとつでお腹はふくれなかった。最後の食事も、私らしく中途半端だったなあと思う。もっと寿司とか、そういう豪華なものを食べればよかったのかもしれない。でも、一三〇円のパンというチョイス。チョコのはさまった、甘いパン。添加物とかたくさん入っていそうな味がうまいのだ。いつもなら袋に入れたまま少しずつかじるのを、今日は全部出してから、一気にかぶりついた。手や制服を汚しながら、精一杯不満な顔をして、何も考えないようにひたすら食べた。
食べ終わり、手をはたいて粉を払った。立ち上がって深呼吸した。最後の酸素だ。息を止めたまま、フェンスに足を掛けた。
遺書は生徒手帳に書いていた。別段恨みもないから、読まれなくてもかまわない。逆に言えば、誰に読まれても平気な内容を書いた。
私は私の意思で死ぬ。
それで迷惑がかかるとすれば・・・そうだなぁ、今から落ちてぺしゃんこに潰れたあたしを見て具合が悪くなる人、ごめんなさい。救急者を呼ぶ人、驚きと電話代、すいません。救助の人と病院の人は…一応仕事だから、まぁいいか。あと学校のひと。ニュースとかになっちゃったらごめんなさい。でもちょっとした話題を提供するわけだし、これもまぁいいか。あとは・・・家族。
母さん、父さん、お葬式は一番安いのでいいよ。私の大学いくための学費の貯金、使ってできる範囲でさ。人も全然呼ばなくて構わないし。香典払う人、ピン札じゃなくても構わんよ。ごめんね何かと物入りだろうけど、たぶん母さんが見栄の張ったお返しするからそれで勘弁ね。
そう、それでいい。考え事をして、息が苦しくなってきたらそのまま空に行けばいい。簡単なことじゃんと言い聞かせた。
目を瞑る。あぁ、こういう時って普通どうするんだろう。わかんないや。考えるのも面倒だ。
次の一秒。私は落下した。飛んだら、ふわって浮いてー・・・なんていう想像は妄想に過ぎず、ものすごい速度で、ただただ重力にさからえずにまっさかさま。下のアスファルト目がけて、ただただ一直線に落ちただけだった。
さよなら、この世。さよなら、不満な生活。さよなら、しがらみ。さよなら、あたし。
3
アスファルトが迫る。顔面と、腹と、足が叩きつけられるのを感じた。どさっと、私の身体が地面に吸いついた。その瞬間だけ、一瞬時が止まったように思った。
けれど時は何一つ変わらずに流れていた。
電車があった。
電車の乗客の耳のイヤホンには、音楽があった。音楽に乗せられた歌詞には花があった。「薔薇が咲いた」そうである。
ふと眺めた窓には木があった。山があった。電車から降りる人を見送る、憐れな捨て犬もいた。そして何より人があった。なにもかも、目に映るものは人、人、人だった。人の足が歩く。人の手がつかむ。人が食べる。人が出会う。人が今どこかで生まれる。
そこに見えたのは、今さっきまでは見えなかったものばかり。私は起き上がろうにも、身体のどこも動かなくなっていた。けれど、見えていた。目も開いていないのに。何かが確かにあった。死んだはずなのに感じていた。驚きがあった。絶叫があった。私に触れる感触があった。抱きかかえられる。誰かの声。車に乗せられた。けたたましい音とともに、私は地面を這うように移動している。
私は、一番行きたいと思っていた世界で、一番の孤独を感じていた。感覚が研ぎ澄まされ、大きな波の中で、さわりたい物を必死でさがしていた。そこにあるのに、手が届かない。もがいてももがいても、ちっとも前が見えない。さよならしたはずの世界は、どこにいったのだろう。何でも手に入ったあの世界。さよならは取り消せない。死んだのだから。でも、これは後悔じゃない。これは矛盾。そして不正解。十円ガムのはずれくじ。どうして今までそんなことに気付けなかったんだろう。馬鹿だ。
さようなら。あたし。さようなら。お別れするのが早すぎたのは理解できたよ。間違ってたのかなあ、わかんないや。もう、考えたくても考えられない。面倒くさいことを、面倒くさいとも思えない。そろそろ、本当に消えそうだ。最後に、口のまわりについたチョコ、舐めておけばよかった。