はの2
その後戦場に赴いてから、幾度となく暗殺の危機に遭った。命を狙われることは、城に居たときにも何度かあったが、戦場に来てから確実にその頻度が増した。戦のどさくさに紛れて私を葬ろうとする、黒幕の思惑が手に取るようにわかった。そして、その黒幕の正体も。
そうした日々の中、満足に眠ることもできず疲れ果てた心で、供を申し出た隊長達を残して近くの林に足を踏み入れたのは、ともすれば自殺行為に近かっただろう。あの場で暗殺者に狙われれば、助けてくれる者もおらず、命を落としてしまう恐れもあったのだ。
しかし、そんなことも構っていられないほど、私は追いつめられていたのかもしれない。
そうして道なりに山道を歩いていたのだが、気が付けば濃い霧に囲まれていた。これはいよいよ不味いと、さすがに焦りながら来た道を戻っていたはずが、霧が晴れ、道の先に見えたのは、あの美しい“女神の地”だった。
最初はそこが伝説のかの地だとは気付かなかった。
扉を叩いてかの女性が顔を出し、家に上げてもらったとき、あまりにも不用心ではないかと私は彼女の身を案じた。
しかし、家の中に入った途端、こちらを警戒するようないくつもの存在の気配を感じ、彼女とかの土地を守護するものの存在に気付いた。それと同時に、ここが自分にとっても安全であるということが分かったのだ。
何故ならば、この地が血で濡れることを守護者達が許さないだろうと思ったし、もし暗殺者が私を狙いに来たとして、万が一目撃者も共に始末しようと彼女にも危害を加えるかもしれない。そんな危険な存在を守護者達がこの家に近づけるとは思えなかったからだ。
だから、通された部屋で会ったテンヨウ・オルセサイザーが、私を殺そうと短剣に手をかけたときも、私は特にそれを防ごうとは思わなかった。意外にも、彼を窘めたのは守護者ではなく、かの女性自身であったことには驚いたが。
食事を皆で同じものを食べられる大鍋料理にしてくれたのは、彼女の配慮だったのだろうか。私は、久しぶりに毒を警戒することなくゆっくりと食事をし、珍しい道具をいじりながら入浴することができた。
そして、誰にも話すことの出来なかった私の苦悩を、酒のせいか不恰好にもテンヨウ・オルセサイザーに晒してしまった。
だが彼は、そんな私に憤りを顕わにするわけでも、馬鹿にしたり、ましてや憐れむわけでもなく、静かに私の話を聞いてくれた。彼とは、初めてまともに話したはずなのに、その気安さに自然と笑みが零れた。
先に寝てしまった彼に、部屋の端に置かれていた毛布を掛け、床の上に敷かれた柔らかな寝具の中へ潜り込んだ。その寝具はすべらかな肌触りで、仄かに花の匂いがした。
体に入っていた力が警戒心と共に抜けて行き、体が寝具へと沈んでいくようだった。そこで深く深く息を吐き、木の天井を眺めながら、私はじっと頭に浮かんでは消えて行く様々なことを考えていた。
この地に来た意味と、テンヨウ・オルセサイザーに出会い、話したこと。国と国民の現状とこれからのこと。城に残る臣下や兄弟達。共に戦場へ来てくれた乳母兄弟や隊長達、多くの兵士達のこと。そして、今もきっと城の中で享楽に耽っているのだろう父上と、――あの女のことを。
そうして、自分はこの先どうすればいいのか悩み始めたとき、頭に柔らかく笑う彼女の姿が浮かんだ。その時にはもう、私は彼女こそがこの“女神の地”の主である女神だということを確信していた。
彼女のあの宝石のような漆黒の瞳には、先の未来が見えているのだろうか。
先ほどの席での、彼女とテンヨウ・オルセサイザーとの会話を思い出す。我が国の街や遺跡などの話をしたとき、彼女は是非訪れてみたいと言ってくれた。しかし、現状ではそれは難しい。戦争で国は荒れ、どこもかしこも貧しく荒んだ景色が広がっている。
もし彼女に見せるならば、人々の幸福に溢れた笑顔や、綺麗に整えられた街、そして花や緑に囲まれた遺跡を見てほしい。この家を囲む瑞々しく青々とした大地のような。私は、そんな国を作りたい。
そこまで考えて、一度目を閉じ深く呼吸をして、私は覚悟を決めた。私のこの決断は正しいのだろうか。彼女は笑って背中を押してくれるだろうか。
抱える不安も問題も大きかったが、それでもどこかすっきりとした気持ちで、私は久しぶりに深く穏やかな眠りにつくことができた。テンヨウ・オルセサイザーが起きたことにも気づかず、寝坊をしてしまうほどには。
翌日、その覚悟と決意を、テンヨウ・オルセサイザーに伝え、“女神の御許での誓い”を立てた。すると、驚いたことに彼も同じように誓ってくれた。共に戦争を終わらせようと。
ああ、彼とここで話せてよかった。私はとても心強い味方を手に入れることが出来たのだ。
そんな私達を穏やかな眼差しで見ていた彼女は、身に纏う服の袖を揺らしながら、そのしなやかな手をすっと伸ばし、私達に帰る道を教えてくれた。
私達のこれからを導くように。
私は、傍に来ていた各隊長の顔をじっと見まわした。ここにいる者達は、前線に向かうと言った私に付いて来てくれ、共に命を預け合ってきた信頼のおける者達だ。
「私は今から王都に戻る。この戦争を終結させる」
一度息を吸って、はっきりと強い口調でそう言った。
別に、彼らに付いて来て、私のために命を懸けてほしいと望むつもりは無かった。ただその覚悟を伝えたかったのだ。
私のその言葉を聞いた隊長達は、一様に息を飲んで私を見てきた。この状態で戦場から離れることに対して、批判を受けるかもしれない。今更何をと思われるかもしれない。だが、それでも私は……。
自然と握り締めた手に力がこもり、彼らの返事を待ちながら視線を地面に落としていると、不意にぽんと頭に重みがかかった。驚いて顔を上げれば、そこには私の頭に手を乗せ、にやりとした笑みを浮かべる私の補佐である男がいた。
補佐と言っても、彼とは乳母兄弟であり、幼い頃から共に育ってきた兄のような存在でもある。そんな彼は、俺が戦場へ向かうと我が儘を言ったときも、文句を言いつつも付いて来てくれたのだ。
そんな彼を何事かと見上げた私に、彼は笑みを深めて、頭を掴んだ手で私の顔を、私の周囲を囲む隊長達の方へと向けさせた。
すると、そこにはほっとしたように笑う者や、涙ぐむ者、気合を入れるように拳を握る者等、様々な表情を浮かべる隊長達がいたのだが、ただ誰一人として負の感情を表すような目をした者はいなかった。
彼らの反応をどう受け取ったらいいものかと悩んでいた私に、乳母兄弟はガシガシと私の髪を掻き回した。
王太子という地位についてからは、彼のように気安く接してくれる者はほとんどいなくなってしまったから、こういった昔ながらの対応をしてくれる彼には、いつも何かと助けられていた。
「みな喜んでんだよ。ようやくお前が決心してくれたってな」
頭半分は私よりも大きい乳母兄弟を見上げれば、彼は私の頭から手を下ろして、隊長達に目を移し。
「ここにいるだれもが、戦争を終わらせたいと願っていた。そして、それができるのもお前だけだと分かっていたんだ。だが、それを無理矢理お前に強いるのは酷だろうと、口には出せずにいたんだよ」
目を瞠りながら何も言えずにいる私に、乳母兄弟は再び私に目線を合わせて、今度は真剣な表情で言葉を重ねた。
「お前の決めたことに俺達はどこまでも付いて行く。そして、命を懸けてお前を守ると誓う。だから、お前は思うように動けばいい」
そんな彼の言葉と、それに続いて隊長達から発せられた、「どこまでもお供します! 殿下!」「精いっぱい働きますぜ!」等の声に、私は胸に暖かいものがこみ上げると同時に、強張っていた体から力が抜けるのを感じた。
王都に戻り、戦争を終わらせる。その決意をしてからずっと体に圧し掛かっていた重圧が、軽くなったような気がした。
例え父を殺すことになっても、兄弟と争うことになっても、罪人だと国民に責められても、それでもやり遂げるために命を尽くす覚悟はあった。だが、どこかで迷っていたのだ。これは一人でやり遂げなくてはならない、誰かを巻き込んではならない、と。
しかし、現実問題としてそれは不可能で、私には協力者が必要だった。
ふうと一つ息を吐いて、ぐるりと私を囲む隊長達の姿を見回す。そんな私に、笑顔を向けながら隊長達が力強く頷いた。
そんな彼らに励まされて、私はぐっと背筋を伸ばし、口を開いた。
「王太子クラウセルベート・ユト・ルーナ・スローレイの名において、戦争を終わらせるために行動を開始する。どうか私に力を貸してほしい」
そう言って頭を下げれば、「っちょっと、殿下!」「頭を上げて下さい!」と慌てる声や、「はい!」「お任せください!」などと頼もしい返事が返ってくる。
顔を上げ、彼らに感謝を込めて微笑んでから、私は乳母兄弟を見上げた。
そんな私に、にっと彼特有の笑みを浮かべてから、次いで彼は、私が出てきた林の向こう、リッツ軍が駐留している辺りに目を向けた。
「しっかし、その間にリッツのやつらが攻めてきたら、どうすんだ?」
眉間に皺を寄せてそう呟いた彼に、私はその心配はないと返した。
私のその言葉に、不思議そうな顔をしている彼や隊長達に、かの地で起きたことを話し、今後のことを決めるために、一度野営地に戻ろうと促す。
“女神の地”について、彼らが信じてくれるかは分からないが。
どう説明しようかと悩んでいた私は、手に持っていた、かの女性が持たせてくれた“お弁当”というものに気が付いた。
綺麗に包まれた布を取ると、そこには見たことも無い不思議な素材で出来た銀色に輝く箱があり、その箱を開ければ、かの地で見た不思議な食材の数々が、色とりどりに詰められていた。そして、これもまた不思議な素材の入れ物に入れられた飲み物まで。
「おい! 何だそれは!?」
驚きに変な声を上げた乳母兄弟を見ながら、私は口元を緩めた。
確かに、このような素材や食べ物はこの世界では見たことがない。だからこれはかの地が存在することへの証拠になりうるだろう。もしかしたら、かの女性はこうなることを見通してこれを渡して下さったのだろうか。
そう考えると、かの女性の慧眼に感嘆の念を抱かざるを得なかった。
ふと、父上の側妃であるあの女の顔が頭に浮かんだ。
確かに、父上を骨抜きにするほどの類まれなる美しさの持ち主で、私も初めて会ったときは息を飲んで見惚れてしまったこともある。臣下や兄弟の中には、彼女の美しさに心を奪われた者もいた。
しかし、次にあの女と対峙した時、私はあの女を美しいとは思わないだろう。
知性に輝く漆黒の瞳が細まり、淡く色づいた唇が小さく弧を描く、その穏やかな慈愛の籠った笑みは、見る者に安堵と安らぎをもたらす。
そっと花開いた清純な花のように、初めて手に落ちた白雪のように、どこまでも優しく清廉な存在。
彼女以上に美しい者など、きっとどこにも存在しないのだから。
これで、王子視点も終わりです。読んで下さって、ありがとうございました!