いの2
流血表現等がありますので、苦手な方はご注意ください。
そんな穏やかな日々を過ごしていたある日の夕方のこと。台所で夕飯の仕度をしていましたら、外でオヤブンさんがしきりに吠えているのが聞こえました。
とはいえ警戒しての吠え方とはちょっと違う気がします。戸惑いがちに玄関の方へ向かってみれば、ちょうどランさんもサンダルに足を突っ込んでいるところでしたので、二人でオヤブンさんの声が聞こえる方へと向かいました。
太陽は山向こうに沈んでいましたが、辺りはまだだいぶ明るく、オヤブンさんの姿もはっきり見えました。そして、オヤブンさんの足元には毛玉と布の塊が……。
一瞬何か動物でも狩ってきたのだろうかと思いましたが、近づくにつれそれがうつ伏せに横たわる子どもだということが分かりました。
ただその子を見た瞬間、私は思わずヒュッと息を飲みました。僅かに体を引いた私の背に、ランさんの逞しい腕が添えられたのを感じます。
私が驚いたのは、その子どもの姿でした。頭から被って腰元で縛っただけの服らしきものはボロボロで所々破けており、布自体も目が粗くひどく汚れています。そして、その服の袖や裾から伸びる手足も、皮膚の下には骨しかないのではないかと思わせるほどに細く関節が浮き上がっています。そんな手足も荒れて擦り切れ所々血が滲んでおり、髪も伸び放題でぼさぼさでした。
しかし何よりその小さく痩せ細った背から……何本もの木の棒が突き出していたのです。ああ、いえ違いますね。しゃがみ込んでよく見れば、それは矢のようでした。その細く長い木の棒の先、その子どもの背には大きな血のシミがいくつも広がっています。
そのあまりの状態に、震える手で子どもの体にそっと触れました。もしかして……と恐怖が私の全身を冷やします。しかし、子どもの体は体温は低いものの暖かく、僅かな呼吸音も聞こえます。
「……ナギ」
そのことに、へたり込みそうになるほど安堵していると、上の方からランさんの声が聞こえました。顔を上げると、ランさんはじっと私の顔を覗き込んだ後、ついと子どもの方へ目線を移します。
この子どもをどうする? と問われた気がしました。ですから私は即座にランさんに「手当をします、家の中へ運んでもらえますか?」と頼みました。
ランさんはこくりと頷いてからしゃがみ込み、おもむろに子どもの背中の矢を抜き始めました。ああっ、そんな麻酔もせずに痛いじゃないですか! それより刃物が刺さった時にそれを抜くと、大量に出血してしまうんじゃ……とハラハラしながら見ておりましたら、矢はあっさりと抜けてしまい、心配していたように血が噴き出すということもありませんでした。矢の先端がほんのちょっとだけ刺さっていただけのようです。
矢が抜けた後の傷も、誤ってペン先を手に刺してしまったときのように、少し血が盛り上がっているくらいでした。いや、あれはあれで結構痛いですけどね。
素人目には分かりませんでしたが、ランさんは傷が浅いことが分かっていたのでしょう。ほーっと体から力が抜けました。
そのままランさんに子どもを抱き上げて運んでもらい、私は客間に布団を敷いて、そこに彼をうつ伏せに寝させました。手当のためだから許されるだろうと服を脱がせ、まず背中の傷を消毒します。本当に大した傷ではなかったので、薬を塗ってひとまず穴だらけの服ではなく、私のTシャツを着せました。
そして、仰向けにし、泥だらけの顔をお湯で濡らしたタオルで拭いていたところ、子どもが小さな唸り声をあげてゆっくりと目を開けました。
ぼんやりとした目がうろうろと宙を彷徨った後、突然がばりと体を起こし、横に座っていた私の腕を両手で強く掴みました。その細い手の意外な力の強さと、子どもの勢いに私が驚いていると、子どもは鬼気迫る必死の表情で。
「たっ……たすけてくれ! 友だちが……仲間がまだ捕まってて……っ! このままじゃあ……」
焦っているせいか喉が渇いているのか、途切れ途切れのかすれた声で懸命に言葉を続けます。私も黙って彼の言葉を聞き取ろうとしていると、いつの間にか隣に来ていたランさんが、やんわり私の腕から少年の手を外しながら、「……場所は?」と言葉を掛けました。
子どもは辛そうに片手で胸元を掴みながら、聞いたことのない地名と「貴族の屋敷」という返事を返し、そして前屈みになったままくたりと布団に突っ伏してしまいました。どうやら再び気を失ってしまったようです。
私は子どもの体を再び布団に寝かせながら、耳に残る彼の必死な声に唇を噛み締めました。私には状況がさっぱり掴めません。でも、子どもの友達や仲間がピンチで、彼がどうにかして助けたいと望んでいることは分かります。どうしよう、どうすれば。ま、まずは警察に……! とぐるぐる考えていると、ランさんがそっと声をかけてこられました。
「……ナギ、お前はどうしたい?」
ものすごく漠然とした問いに、私はランさんを見上げたまま動きを止めてしまいました。そんな私をランさんは黙ったままじっと見つめています。ランさんの問いかけの真意は分かりません。でも、私は……。
「この子の仲間やお友達を……助けてあげたいです」
自分に何ができるか分からないけれど。
そう呟いた私に、ランさんは「分かった」と頷くと、足早にランさんのお部屋へと入って行かれました。しばらくして出てきたランさんは、いつもの浴衣姿ではなく、初めてこの家に来た時の詰襟の服に外套を羽織っていて、そのまま玄関へと向かわれます。
よく見ると外套の胸元には赤い花のような飾りが挿してあり、外套の隙間からちらりと見えた腰元にはごつい形の剣のようなものが……。ああ、その格好、改めて見ますと放浪の旅人みたいでかっこいいです、ではなくて、私は慌ててランさんに駆け寄りました。
「ランさん……!」
もしかして一人で、どんな危険があるのかもしれない場所へ赴こうというのでしょうか。私があんなことを言ったばっかりに……?
ならば私も一緒に行きます! という前に、ランさんは私を見下ろし口元に小さな笑みを浮かべられました。
「……ナギはここに居てくれ」
「でっ……でも!」
「……大丈夫だ」
私が引き止める間もなく、ランさんはそう言って玄関を出て行かれました。そのとき、いつの間にか玄関の外にいたオヤブンさんに向かって何かを呟かれたような気がしましたが、慌ててサンダルを履いていた私の耳にはその言葉は聞こえませんでした。
飛び出すように外に出れば、ランさんは子どもが倒れていた方の林の中へと消えて行かれるところでした。私にはその背を見送るしかできません。
不安に思いオヤブンさんを見下ろせば、オヤブンさんは心配すんな、とばかりに、ワンと軽く吠えられました。
家の中に戻った私は、子どもがいつ目を覚ましてもいいように軽い食事を用意し、食事の後に体調が大丈夫そうならお風呂に入ってもらおうと準備をしました。子どもは体も髪もひどく汚れていて、軽く拭っただけでもタオルが真っ黒になりましたから。
そうして子どもの傍で本を読んだりしながら様子を見ていたのですが、いつの間にか窓の外はうっすらと明るくなっており、ちらりと子どもの方を伺えば、まだ目を覚まさないようでした。
体を伸ばすように立ち上がり、暖房で温くなった部屋の空気を少し入れ替えようと、縁側の窓を少し開けました。その隙間から外に体を出して辺りを見回してみましたが、ランさんが戻られた気配はありません。
ふうと溜息を吐きつつ窓を閉めていると、背後から「……うう……」と呻き声が聞こえてきました。その声に振り返り、子どもを寝かせていた布団の傍に戻ると、子どもがうっすらと目を開いていました。そして、はっと目を見開いて体を起こそうとするので、その肩の辺りを撫でつつ「大丈夫ですよ」と声をかけました。
声を聞いて改めて私の存在に気付いたのでしょう、子どもは大きく目を見開くとしばらく私の顔を凝視していました。髪の毛が逆立って体まで硬直させている子どもに、え! 何々? 私の顔に何かついてる!? あ、隈?? と頬に手を当てて首を傾げていると、子どもが小さく息を飲んだ後咳き込みだしました。私は慌てて用意してあった白湯を彼の口元に当てます。
白湯を二杯飲み干した後、いきなり子どもは私に向かってがばりと平伏しました。えええ!!? と焦ったのは私の方です。見知らぬ子どもにいきなり土下座!? 何ですか、私何か悪いことしましたか!? と誰か答えてくれる人を探して無意味に顔を左右に動かしてしまいました。
「……っご、ごぶれいをおゆるし下さい!!」
急に大きな声を出した子どもに、無理すんな、と背中に手を置こうとしたとき、子どもがばっと顔を上げ必死な目で私を見つめ。
「どうか! どうかおねがいします! おれの友だちをたすけて下さい! あいつは、俺をにがすために……っ!」
辛そうに顔を歪めた子どもの肩を私は宥めるようにぽんぽんと叩きながら、出来るだけ優しい声で答えました。
「大丈夫。君のお友達やお仲間は私の……(えーと……)家の者が助けに向かいましたから」
ランさんに関して何と言ったらいいものか悩みつつ、そう言葉を掛ければ、子どもはほっとしたように肩の力を抜いた後、へなへなと布団の上に崩れ落ちました。
とりあえず落ち着かせるために、お腹は空いていないかと尋ねると、彼はおずおずと戸惑った様子で頷きました。
そこで温め直した、かなり柔らかく煮込んだおじやを、蓮華で掬ってゆっくりと子どもに食べさせました。おかゆの方がいいのかなと悩みましたが、彼が美味しそうにもくもくと食べていたのでたぶん大丈夫でしょう。
ただ口いっぱいにおじやを頬張ったまま、ぽろぽろと涙を流す姿が痛ましかったです。さぞかしお友達が心配なのでしょう。…………幼い子ども達の厚い友情………………むふ。……はっ! つい脳内の駄目な大人の部分が活動を……! そんな場合ではないですね、すみません!