にの1――第一公子シージス視点
あの子だけは、逃してやろうと思った。
「エリーエンヌを連れて、ここから離れろ」
事が起こる数日前、僕、ジストゲナージ公国第一公子シージスは、エリーエンヌ付の騎士であるカラウを呼び出して、そう話を切り出した。
現在、父である大公が後継者を指名しないまま身罷られたため、正室、側室の子ども達が入り乱れての次期大公位争いの真っただ中だ。
そんな中、他の公子達に付けていた密偵から、第一公女エリーエンヌを暗殺しようとしている者がいるという報せが届いた。そして、その主犯はどうやらエリーエンヌの同腹の兄、正妃の産んだ第二公子であることも分かった。
その報せを僕は驚くことなく受け取った。昔からあの兄は優秀な妹と比べられ、エリーエンヌをひどく恨んでいたからな。これを機に、とでも思ったのだろう。この大変な時期に私怨で実の妹を殺害しようとするとは、ヤツの頭の程度が知れるというものだ。そして、その計画もこちらには筒抜けだった。ろくな手下がいないというのも致命的だろう。
別にエリーエンヌの暗殺を放っておいても良かった。だが、僕はことのほかあの異母妹のことを気に入っている。ある程度成長してからは、エリーエンヌの母である正室や周囲の者達が煩くなったため叶わなくなったが、幼い頃僕とあの子はよく隠れて剣の稽古を行っていた。
母の身分が低いことを挙げて僕を貶す者は昔から多かった。その為、その頃の僕は自身の能力を上げるのに必死になっていた。勉学に励み、礼儀やマナーを身に付け、剣の稽古に励んだ。
そうして、何かと嫌味を言ってくる奴らから逃げ、裏庭で隠れて剣の稽古をしていた時、エリーエンヌに出会ったのだ。どうやら乳母を撒いてきたらしいエリーエンヌは、剣を振るう僕を見てかっこいいと目を輝かせ、自分にも教えて欲しいとせがんできた。
最初は僕も戸惑った。彼女が正妃の産んだ公女であることは知っていたし、僕のことも知っているはずなのに、エリーエンヌの目には何の嫌悪も高慢さもなく、ただ純粋に尊敬と憧憬に満ちた目で僕を見てきたからだ。
あの時は、そんな真っ直ぐな目を向けられて驚きと共にほんのり嬉しく感じたものだが、今になればよく分かる。あの子は昔から自分に興味のあることしか頭に入れておらず、僕の母の身分云々はぽろっと頭から抜け落ちており、僕をただの兄としか認識していなかったのだ。それと共に、あの子の頭の中は剣のことでいっぱいで、僕の出自などまったくに気もかけていなかったのだろう。僕もまだまだ純真だったのだ。
エリーエンヌの願いを最初は面倒臭いと思っていた僕だったが、あまりにも彼女が必死に頼むので、彼女が飽きるか、もしくは周りに感化されて僕を厭うようになるまでは付き合ってやろうと考えた。
彼女は『ジスにぃ、ジスにぃ』とニコニコ笑いながら、僕との約束を守って乳母や警護の者を撒くなり、用事を言いつけるなりして引き離し、一人で裏庭の秘密の訓練場に来ていた。
そして、大人達の噂通り、あの子は天才と言えるほどの才能の持ち主だった。剣の腕もぐんぐんと上達していき、鍛錬に要していた時間の差もあっという間に埋められていった。まだ体格の差があったので打ち合ってエリーエンヌに負けることこそ無かったが、才能の差に僅かな怖れと苛立ちを感じたこともあった。
だが、僕はその生い立ちのせいか、諦めることには慣れていた。そして、自分の程度を知ったうえでうまく立ち回ること、努力を重ねることで補うこと、を学んできた。だから僕は必死で鍛錬に励み、エリーエンヌに追いつかれないように頑張った。また、純粋に強くなることを望む彼女は良きライバルでもあったし、エリーエンヌとの打ち合いは計算も遠慮もなく楽しかった。僕の剣の腕が、今や軍のナンバー2と対等に渡り合えるほどになったのも、この時の特訓のおかげだと言えよう。
しかしある日、エリーエンヌはもう剣の練習は出来ないと言った。悲しそうに肩を落とした異母妹に僕も残念に思う気持ちでいっぱいだったが、どこかでいつかこんな日が来ることも分かっていた。僕のことをよく思わない大人に引き離されることもあるだろうし、公女という立場の者が危険な剣の稽古をいつまでも続けられるわけもなかった。他にも、今のエリーエンヌの年齢からは、公女としての様々な授業や稽古事が膨大に増えてくるだろう。だから仕方がないのだと、僕はエリーエンヌを慰めた。
あの子が剣を続けなくなった本当の理由が、エリーエンヌの兄にあるのだと知るのは、もう少し先のことになるのだが。
ただ、舌足らずに僕を呼ぶ声に、僕を見て駆けてくるときの笑顔に、僕の剣の腕を純粋に褒めてくれるその眼差しに、僕は初めて肉親に抱く情というものを感じた。エリーエンヌ、僕の妹。あの子だけが、僕にとって家族だった。
だから、エリーエンヌの暗殺計画を知ったとき、あの子をこの泥沼から逃してやろうと思った。しかし、エリーエンヌの逃亡計画がどこから漏れるか分からない。そこで僕は、エリーエンヌに全てを捧げる忠実な騎士であるカラウに、エリーエンヌを連れて逃げるよう告げた。
「そういうつもりで言ったのではない。お前がエリーエンヌ命なのは分かっているから、そう睨むな」
僕の言葉を聞いたカラウは、しばらく驚き何かを考えるようなふりをした後、僕を睨みつけてきた。恐らく僕が後継者争いの関係でエリーエンヌが邪魔になり、何とかして排除しようとしているのでは、とでも考えたのだろう。状況によっては不敬罪にもとれる態度だが、僕はそんなものを追及する気はない。愚直なまでに真っ直ぐなカラウの心根をそれなりに評価していたし、エリーエンヌが全力で止めに来るだろうから、今そんなごたごたを起こしている場合ではないからだ。
カラウはエリーエンヌの専属になった時からエリーエンヌに盲目的に心酔していた。あの子の言うことがすべてであり、あの子の全てが素晴らしく、何をしてもカラウには輝いて見えるらしい。もはや病的とも言えなくもない。護衛としての腕も、傍付きとしての機転もかなり優れているのだが。
以前、まだ父上がご存命であった頃、エリーエンヌが突然「お父様の下着を私の下着と一緒に洗わないで!」と大泣きしたことがあった。何やら街で流行っていた本を読んで、そんなことを言い出したようだ。
愛娘の泣き声に駆け付けた父上は、その最愛の娘の言葉に凍りついた。もともと大公と公女のものを一緒に洗うはずもなく、洗い場も洗う者も全く別なのだが、父上は何故かエリーエンヌのその言葉にひどく傷ついたらしい。今にも泣きそうな顔で立ち尽くす父に、「やだあああぁぁぁ!!」と泣き喚くエリーエンヌ。「一緒に洗ってなどいませんよ」と優しく宥める侍女の言葉も聞き入れなかった。
そこへ現れたカラウは、どこからか持ってきた父上の下着を、いきなり火を点けて燃やしだしたのだという。そして、下着が灰になって燃え尽きると、その火をきっちりと消した後、「大公様の下着は、姫様の下着と洗う前に俺がすべて焼却処分しておきますから、大丈夫ですよ」とにっこり笑って言い放った。そのカラウの言葉を聞いたエリーエンヌは、キラキラと目を輝かせ、満面の笑顔で「カラウ大好き!」とカラウに抱き着いたらしい。
国主である大公の下着を燃やすなど、それこそ不敬罪になりかねないが、父上はその事態に燃え尽きたように真っ白になっており、居合わせた者達も父上への憐憫とエリーエンヌが嬉しそうだから、という理由で全てを収めたということだった。
カラウはエリーエンヌに対しては非常にどこかずれていて、エリーエンヌの度を越した悪戯もすべて笑顔で受け入れていた。いつだったかエリーエンヌが、女は特に嫌いな家庭用害虫を大量に集めて後宮内に放ち、一時は後宮に住む者や働く者などがしばらく立ち入れなくなった時も、カラウはエリーエンヌを叱るでもなく、「お一人でこつこつ集めてらっしゃったんですよ。可愛いなぁ」とうっとりと話していた。主の暴走を止めるのもお前の仕事ではないのか。
そして、そんなカラウにエリーエンヌも恋をしていた。どうやら自分のすべてを受け入れてくれる優しさと懐の広さに心を持って行かれたらしいが、まあ確かにあいつならどんなエリーエンヌでも受け入れるだろうと、案外破れ鍋に綴じ蓋で良い恋人同士になるかもしれんと思った。