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月下の庭  作者: 行見 八雲
二組目:主と騎士
12/21

ろの2



 我が姫ことエリーエンヌ・シェリス・ジストゲナージ第一公女は、ジストゲナージ公国元首フレイス大公のご息女である。


 すでに身罷られたフレイス大公には一人の正妃と二人の側妃、そして一人の寵妃がおられた。正妃は隣国の王女であり、また二人の側妃も国内の有力な貴族の息女であった。しかし、大公が望んで妃にしたのは、視察で国内を回られた際に見初められた町娘、寵妃アルミナだけだった。

 妃となったアルミナ妃は大公の寵愛を一身に受け、やがて第一公子シージス様を出産する。しかし、その後寵愛を妬んだ正妃や側妃達からの嫌がらせに心を痛め、病を患い儚くなられている。証拠はどこにも存在しないが、毒殺されたのだと言われている。

 寵妃の死により、大公は人が変わられたように憔悴されていたが、やがて王妃や側妃達のもとへ通うようになられた。そうして側妃はそれぞれ男児を一人ずつ産み落とし、正妃も公子一人と公女エリーエンヌ様を出産された。エリーエンヌ様がいくらか成長され、かの方付きの騎士に任命されたうちの一人が、この俺だった。


 そしてつい先日、フレイス大公が身罷られ、次の大公を指名していなかったことから、第一公子シージス殿下を大公へと望む者達と、それ以外の公子を推す者達との間で内乱が勃発した。

 シージス殿下は文武ともに優れ、早くから大公の仕事を手伝っていたため現役の文官・軍人ともに支持が高い。しかし、母親の身分が低いことからこれに異を唱える者や私欲に走る貴族、寵妃が気に入らない正妃・側妃やその公子らが彼を排除しようとし、現在国の中枢は血みどろの争いが繰り広げられている。


 唯一の息女であらせられるエリーエンヌ様は、すでに正妃様の生国である隣国の有力貴族とのご結婚が決まっており、またジストゲナージ公国では女児に大公位継承権は認められていないことから、エリーエンヌ様は今回の内乱には関係が無い――はずだった。



 しかしあの、朝から降り続く雨が闇をより濃くし、激しく建物を打つ雨音がやけに耳障りに感じた夜。俺はエリーエンヌ様の兄君から呼び出しを受け、彼の部屋へと向かっていた。だが、妙な胸騒ぎがして引き返してみれば、エリーエンヌ様は部屋に侵入し剣を構えた賊に囲まれていた。

 他の騎士の姿は見当たらず、俺は何とか賊を倒すと、エリーエンヌ様を連れ出した。


 以前からとある方の口添えを受けていたおかげで、事前に用意していた旅道具を急いで馬に括り付け、エリーエンヌ様にも変装をしてもらい馬の背へと押し上げた。その時数人の賊が再び現れて、俺は馬の背へと飛び乗り手綱を握った。その瞬間、背中に激痛が走った。その焼けるような痛みと背を液体が流れる感触に、背中を切られたのだと気が付いた。だが反撃することも振り返る余裕すらなく、俺は馬を走らせた。


 西門から城壁を抜け、荒野をひた駆ける。明かりもないひどい土砂降りの中、背後からは複数の馬の足音と男の怒号が聞こえたが、捕まるわけにはいかないと腕の間に収まる細い体を見下ろして思った。

 だがそんな俺の思いもむなしく、目の前がぼやけ手綱を握る手にも力が入らなくなってくる。体が言うことを聞かず前に傾き、腕の中の存在が戸惑うように俺を振り返るのを目の端に捕えながら、俺の意識は闇に落ちた。





 言い伝えに違わず、女神は佳麗で清廉な雰囲気を纏っていた。だが何より、その漆黒の瞳に込められた知性と慈愛に目を奪われた。けれど、もしこの心が女神に見えているのなら不快にさせてしまうかもしれないが、俺が誰よりも美しいと思えるのはただ一人だった。

 幼い頃から才能に溢れ、しかし、周囲が持てはやすのにも驕ることなく努力を重ねてきた、頑張り屋な方。女性でありながら政治・経済に興味を持ち、様々な分野の本を読んでおられた聡明な姫君。フレイス大公も一人しかいない娘をとても可愛がっていた。

 彼女が隣国の有力貴族と結婚すれば、両国の絆はより一層強いものになるだろう。内乱によって疲弊していく恐れのあるこの国を支援してくれるかもしれない。

 また、シージス殿下が大公となられた際には、側近にと姫を望まれる可能性もある。内乱で派閥が分かれ、互いに自分にとって邪魔な者を排除しようとしているため、能力のある人員が不足している我が国にとって、姫の知識と才能は大いに助けになることだろう。

 それにもし、エリーエンヌ様が大公位を望まれたならば、俺は何を賭してもそれを叶えてみせる。現在では女児に大公位継承権は無いけれど、スローレイ国の例を見ても、女神がそれを認めたのであれば、エリーエンヌ様が大公となることも可能だろう。

 なんにしろ、エリーエンヌ姫は、我が国にとってなくてはならないお方なのだ。


 いつも愛らしく微笑んで、時に行う悪戯も、小さな我が儘も、何もかもが可愛くて仕方がなかった。美しく成長されるのを、誇らしく思いながらも感じる寂しさを拭いきれなかった。可愛く優しくなんにでも一生懸命な、我が姫。あなたが幸せになるのなら、そこに俺がいなくても構わなかった。

 俺はあなたに相応しくない。あなたはこの国の大公と隣国の王家の血を引く正当な姫君だ。それに比べ、俺は農民出の騎士で姫の護衛に付けたのも奇跡のようなものだった。俺達が共にいることを、国の誰もが認めはしないだろう。――寵妃様がそうだったように。


 それに、俺と一緒になってもあなたに今までのような何不自由ない暮らしはさせてあげられない。輝かんばかりのあなたの才能を無駄にさせてしまう。あなたは俺と一緒にどこかの農村で暮らしたいと言ってくれた。けれどそこではすべて自分の手で行わなければならない。掃除も洗濯も料理も畑仕事も、どれも簡単な仕事ではない。きっとあなたは疲れ果て、嫌になるだろう。ひどい後悔に苛まれ、こんな生活をさせる俺を恨むことになる。そして俺を捨てて、もっと裕福な者の所へと行ってしまうのだろう。

 ああ、そうだな。結局俺は、あなたに嫌われるのが、憎まれるのが怖いのだ。だからそうなる前に俺はあなたを諦める。俺の全てに換えても、あなたを宮殿に戻してみせる。


 ――そう、思っていたのに。



 目の前には騎士服を身に纏ったエリーエンヌ様。俺が女神の畑を耕している間、あちらの方で女神と畑の草むしりをしていたはずが、ひどく思い詰めたような形相でこちらへと駆けてこられた。

 そして、こちらの背筋が伸びるほどに真剣な眼差しで俺を見上げ、決意を込めた口調で言葉を発した。


 ――このまま宮殿に戻らず、共にどこかで暮らしたい、と。


 でも、それは、と言い募る俺に、姫は全てを飲み込みそれでも覚悟を決めたように言葉を続けた。


「確かに宮殿育ちの私が考えるよりずっと大変な生活になるかもしれない。理想とは遠く、嫌になることもあるだろう。だがそれでもお前がいる。もしお前を諦めて婚約者と結婚して、裕福な暮らしを続けられたとしても、きっと私は抜け殻のようにただ生きているだけになるだろう。何より、お前ではない誰かと夫婦生活をするのは耐えられないんだ。だから私はお前に付いて行く。もう決めたからな!」


 そう言って、どこか誇らしそうに、満足そうに笑う、そんなあなたが、あなたの真っ直ぐさが眩しくて仕方がなかった。


「それに、私の背中を押してくれたのは女神様だ。ならば、私とお前が一緒になるのも女神様の思し召しなのだろう」


 姫は手に握り締めていたオレンジ色の果実を俺の目の前に差し出した。昨夜夕食後に出されたそれは、甘く仄かに酸味がきいていて、爽やかな香りも心地よかった。


 ‘みかん’というらしいその果実と、遠くで微笑む女神を見て、俺もまた覚悟を決めた。強張っていた体から力が抜ける。

 そうだな、この先もずっと、俺があなたを守ろう。多くの苦労があるかもしれない、でもその苦労を少しでも取り除けるよう俺は全てを懸ける。あなたがいつまでも笑っていられるように、――あなたが後悔しないですむように。それこそが、女神が俺に望む使命だというのならば。


 だから奪ってもいいだろうか。あなたの地位を才能を、あなた自身を。俺の、俺だけのものに……なってくれるだろうか。

 懇願を込めて、その華奢な手のひらに口付けた。



 姫が手ずから剥いて分けて下さった果実の、そのこの上なく甘やかで幸福な味を、俺は一生忘れないと思った。



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