第1章 第5話 女神の監視者が、転校してきた
七瀬ルカが一年三組へ現れた日の第一印象を、黒崎湊人は一言で言い表せた。場の外から来たくせに、最初から内側の顔をしている。
朝のホームルーム前、担任が転入生だと紹介した女子生徒は、妙に自然な足取りで教壇の横へ立った。長い髪。人懐こい笑み。制服の着方まで、いかにも「最初からこの学校にいた」ように見える。だが湊人には分かった。あの女は違う。人間の空気へ合わせているだけで、そこへ属してはいない。
「七瀬ルカです。よろしくお願いします」
軽い拍手が起こる。ルカはごく自然に教室を見渡し、その視線だけで何人かの名前と立ち位置を先に覚えたように見えた。席は、よりにもよって窓側後方、湊人の斜め前になった。悪意を感じる。あの女神ならやりかねない。
休み時間になった瞬間、ルカは教室の輪へ自然に混ざった。ひかりには「小宮さんって字きれいだね」と言い、修司には「学級委員って大変そう」と言い、礼司には「九条くん、まとめるのうまいね」と笑う。 誰と話しても距離感を外さない。異物感を残したまま、受け入れられる位置だけを正確に選ぶ。 腹立たしいほど器用だ。
厄介さがはっきりしたのは、三時間目の後だった。隣の列の女子が配布されたプリントを一枚足りないと騒ぎかけ、周囲の空気がわずかに止まる。大きな問題ではない。だが「誰か取った?」「え、私じゃないけど」という小さな疑いは、教室の温度をすぐ悪くする。
そこへルカがひょいと身を乗り出した。「それ、二枚くっついてない?」 言われた女子が紙束をめくると、本当に端だけ張りついた二枚目が現れる。「あ、ほんとだ」「よかったー。転校初日で盗難事件の現場にいたらどうしようかと思った」 冗談めかしたその一言で、周囲に笑いが戻る。笑いながら、疑いの芽だけを消している。鮮やかだ、と湊人は思った。事故を止めるのではない。人間関係が軋む寸前の音を先に消している。しかも本人は、それを善意と軽口の範囲へ収めてみせる。
ルカは席へ戻る途中、一瞬だけこちらを見た。見せつけたのだとすぐ分かる。お前の五秒がなくても、私はこういう止め方ができる、と。腹立たしい。だが、学ぶ価値はあった。
しかも面倒なことに、クラスの反応がいい。「七瀬さんって初日から馴染むの早いね」「話しやすいし」 そんな声があっさり出る。 ルカは自分から前へ出すぎない。誰かの話へ半歩だけ乗り、必要なら笑い、いらなければ聞き役へ回る。その距離感が異常にうまい。 人間は、場へ溶ける者に弱い。湊人自身も最近その構図を使い始めているからこそ、ルカのやり方がよく見えた。
三時間目の休み時間、ルカはもう一年三組の空気へ半分溶けていた。ひかりのノートを覗いて「字の重心が綺麗」と言い、礼司の雑談へは笑うだけで深入りせず、修司が先生へ呼ばれれば自然に伝言役を引き受ける。 誰かの真正面へは立たないのに、全員の横へはきちんと立つ。 その器用さが、湊人にはひどく気に入らなかった。
昼休み、湊人が人の少ない渡り廊下へ出ると、案の定、ルカが先回りしていた。
「ようやく二人ですね、元魔王さま」「誰が許した」「女神さまです」「最悪だな」
ルカはくすりと笑った。
「監視に来ただけなのに」「監視だと?」「はい。五秒で世界を変えると豪語した方が、いまのところ教室の平和を守ってばかりなので」
湊人は眉をひそめる。
「守っているのではない。整えているだけだ」「それ、人間界ではだいたい同じ意味で受け取られますよ」「愚かだ」「でも人気は出ます」
図星を突かれたようで不快だった。ルカは壁へもたれたまま、楽しそうに続ける。
「能力の説明、ちゃんと把握してます?」「貴様に確認される筋合いはない」「五秒前の一点だけ。知覚範囲のみ。物理的に影響を与え得る対象のみ。重いものほど反動大。連発には限度あり。間違ってない?」「……間違ってはいない」「よかった。忘れてないなら」
言い方まで女神に似ていて腹が立つ。
「忠告しておきますけど、その力、便利でも万能ではありません。事故をずらすのは得意。流れを切るのも得意。でも、もっと面倒なのは、人間関係の方です」「人間関係など脆い。流れを握れば済む」「そうとも限らないんですよ。整える力って、使い方を間違えると、壊すよりずっと上品に息苦しくなるから」
その一言だけが、妙に残った。整える力。上品な息苦しさ。まるで誰かを思い浮かべるような言い方だ。
「……九条礼司か」ルカはわずかに目を丸くしたあと、面白そうに笑う。「鋭いですね。もうそこまで見えてるんだ」「見える」「なら気をつけて。あの人、自分が善意でやってる分、厄介です」「貴様はどうなんだ」「私は善意ではなく観察で動いてます」「もっと質が悪いな」「褒め言葉として受け取っておきます」
その日の午後、教室では受付当番の組み方でもめかけた。しかも今回は、ひかりが最初に押されかけていた。受付を長くやれる人に偏らせたい、という案に対して「だったら小宮さん向いてるよね」と軽く名前が出たのだ。 悪意はない。だが悪意がない方が断りにくい。誰かが「やりやすい人で固めたい」と言い、別の誰かが「それだと偏る」と返す。まだ小さい波だが、放っておけば尾を引く。
湊人は五秒を使わなかった。代わりに見た。修司が責任の観点から声をかけ、礼司が場の温度を下げ、ひかりが強い方へ押されて黙った相手へ一言添える。 自分以外も、流れを変える術を持っている。 その事実が少しだけ面白く、少しだけ気に入らなかった。
そしてルカは、その一連をただ眺めているだけではなかった。「受付って、最初に笑える人と、途中から丁寧にできる人、別ですよね」何気ない声でそう言っただけで、議論の軸が変わる。向いている人を固定するかではなく、時間帯で向きを変える話になったのだ。
修司が「それなら偏り減るな」と拾い、礼司が「じゃあ前半と後半で組み直そう」と着地させる。ルカは自分が中心へ立たないまま、場へ小さく手を入れた。しかも、ひかりが押し切られずに済む位置だけはきっちり守っている。監視者としても面倒だが、人間界へ混ざる者としても厄介だった。
「使わないんだ」ルカが横で囁く。「小さすぎる」「それもある。でも今、見てましたよね。自分以外のやり方」「観察は支配の基礎だ」「はいはい」
帰り際、ルカは窓際で振り向き、独り言のように言った。
「次に壊れるのは事故じゃなく、人間関係かもしれませんよ、元魔王さま」
軽い声だった。だが予言のようにも聞こえた。湊人は鼻で笑う。
「壊れる前に握る」「そうやって全部先回りしたくなるから、面倒なんです」
ルカはひらりと手を振って去っていく。
その背中を見送りながら、湊人は小さく息を吐いた。 見られている。能力ごと、思考ごと。 そして礼司もまた、同じように見られているのだろう。
その直後、ひかりが教室の戸口で待っていた。「七瀬さん、どう思う?」 問い方が直球だった。「面倒だ」「そこじゃなくて」「そこが本質だ」ひかりは少し考え、それから頷く。「うん。たしかに。優しい感じなのに、何を考えてるか一番分からない」その感想は正しかった。しかもルカは、ひかりのその警戒心に気づいているはずなのに、あえて否定しない。疑われる余地ごと受け入れて、なお場へ残るタイプだ。 監視者としても、人間としても、やはり質が悪い。
「でもさ」ひかりはそこで小さく首を傾げた。「七瀬さん、自分から場を取りにいってる感じはないよね」「そこが面倒だ」「うん。なのに、必要な時だけ一番ちょうどいい位置にいる」「観察者だからだ」「それ、黒崎くんも人のこと言えない気がする」即座に否定したかった。だが、ルカが異物のまま溶ける者で、自分が溶け込む異物になりかけていることも、最近は少しだけ自覚していた。ひかりはそれ以上は責めず、ただ静かに続ける。「七瀬さんって、優しいように見えるのに、たぶん“優しそうに見える位置”も分かってる」「……だから質が悪い」「そこは同意する」
昼休みには、もう何人かが普通にルカへ話しかけていた。「七瀬さん、購買どこ?」「階段下を曲がって右。パンはたぶんもう争奪戦です」そんな軽口ひとつで輪の端に居場所を作ってしまう。転校初日の人間が、これほど早く教室の空気へ馴染むのは異常だ。だが異常だと感じているのが湊人だけで、他の連中は「話しやすい転校生」くらいにしか思っていない。その温度差こそが、一番面倒だった。
支配の実験場であるはずの一年三組は、いつの間にか観測者の多い場になっていた。
その夜、湊人は自室で文化祭のメモを見返しながら、ルカの言葉を反芻していた。事故より人間関係。壊れる前に握る。整える力は上品に息苦しくなる。礼司のやり方と、いまの自分のやり方。その違いはどこまで明確なのか。答えは出ない。だが出ないままでも、明日にはまた教室へ行かなければならない。
監視者が現れたからといって、征服を止める理由にはならない。むしろ、盤面が複雑になったなら、その分だけ握り甲斐がある。
ルカの言葉は、事故の予告というより、沈黙の予告のように残った。次に五秒でずらすべきなのは、床へ落ちる何かではなく、誰かが言えなくなる瞬間なのかもしれない。そう考えた時、黒崎湊人はようやく、この学校で本当に厄介なのは人間関係の方だと認めざるを得なかった。
翌朝、教室へ入った時、ルカはもう普通に一年三組の輪の中で笑っていた。それが一番面倒だった。異物が異物のまま立っている方がまだ分かりやすい。人間の空気へ溶けた異物は、盤面のどこへでも手を伸ばせる。 しかもひかりは、そういうルカを完全には拒まない。礼司も利用価値を見れば自然に取り込む。修司は役に立つなら歓迎する。ならば結局、自分が一番警戒し続けるしかない。監視者が増えたのではない。教室の中に、もう一人、場を読む者が入ってきたのだ。
しかも厄介なのは、ルカが「監視者らしさ」を捨てても困らない点だった。観察者でいることと、教室へ混ざることが矛盾していない。だから誰も追い出せないし、警戒している側だけが浮く。そういう構造自体が、すでに盤面へ手を入れている。ルカはそれを分かった上で、平然と笑っているのだろう。
しかもルカは、自分が早く馴染みすぎていることを隠そうとしない。隠さずに溶け込む。その厚かましさまで含めて、やはり普通の転入生ではなかった。




