祝福の花(完)
あたたかな風が、遠くから吹き抜けてはこの地を撫でていく。
庭の土の下では、確かに小さな命が息づきはじめていた。
それは目には見えないほどの小さな鼓動であったが、クレアにはその“音”が聞こえるような気がしていた。
朝、いつものようにカーテンを開ける。
柔らかな光が差し込み、花々はうっすらと露を抱いて揺れていた。
そこに、ライアンが立っていた。
白いシャツの袖を折り、手には鍬を持っている。
「おはようございます、クレア」
「また、庭仕事?昨日も遅くまで外にいたのに」
「新しい苗を、植えてみたんです。いまの季節に、相応しいかと」
「そう……。あなたは本当に、働き者ね」
ライアンは笑って汗を拭った。
その笑顔が、クレアの心をやさしく撫でる。
時折、彼の無邪気な表情に、昔の少年の面影が重なることがあった。しかしもうそれは、昔の彼などではなかった。
いま目の前にいるのは、彼女と共に日々を積み重ねてきたただひとりの、愛おしき青年である。
「ライアン、何を植えたの?」
「スズランの花です」
「スズラン……。幸福の花ね」
「ええ。あなたに似ていると思って」
クレアはくすりと笑い、その頬を染めた。
午後、小屋の中は静まりかえっていた。
窓を開けると、わずかに土の匂いが風に乗って入ってくる。
クレアは針と糸を手に、刺繍をしていた。白い布に、若葉色の糸で小さな模様を縫い込んでいく。
その針を動かすたびに、心が落ち着いていくような気がした。
昔は、このような時間を無駄であると彼女は思っていた。
しかし今は、どのような宴よりも、どのような贅沢よりもこの時を愛おしく思った。
しばらくして、ライアンが紅茶を淹れて声をかける。
「休憩にしませんか?」
「ありがとう」
「先ほどから、何を縫っているんですか?」
「内緒よ」
「内緒、ですか?」
「できあがってからの、お楽しみよ」
そうクレアは、悪戯に微笑んでみせた。
ライアンはその笑みを見て、言葉を失った。歳月を重ねてもなお、その微笑みは彼の胸を強く射抜いていたのだから。
***
やがてスズランの花が咲き、その香りが辺りを満たすころ。
ライアンは花を愛で、クレアはその隣で刺繍を施していた。
ふたりが手にするハンカチには、精巧に縫われたスズランの花が風に揺れていた。
「クレアさん、こんにちは」
「いらっしゃい、こんにちは」
そろいのスカーフを首にかけた村の子供たちが、時折庭へと遊びに来ることもしばしば。そこにもやはり、クレアが施した花の刺繍が存在していた。
「今日は、なんのお花?」
「さあ、なにかしら?」
「こないだのお花も、とっても素敵だったよ!ありがとう」
「ありがとう。その言葉だけで、嬉しいわ」
ライアンは腰を上げ、子供たちとともに花を摘む。
空が茜色に染まるころ、ライアンは笑って彼らを見送り、クレアはその背を静かに見つめていた。
「ねえ、ライアン」
「はい?」
「子供たちって、どうしてあんなに可愛いんでしょうね」
「そうだね。あの笑顔を見ると、こちらまで元気になれるような気がするよ」
その笑みを見つめながら、クレアは胸の奥である言葉を思い返していた。
――私には、あなたがいればそれでいい。他には何もいらない。
その年齢から、子供を望むことができないクレアに対していつの日かライアンが真摯に伝えた言葉でもあった。
夜、ライアンは静かにクレアの肩を抱いていた。
「クレア。あなたと過ごすこの時間が、私の人生です」
「私もよ、ライアン。あなたと一緒にいられる今が、私の未来なの」
その瞬間、どちらからともなく唇が触れた。
ただそっと、静かに。
遠くで、庭のスズランの花が小さく揺れていた。
その根は、もうしっかりと土に根づいている。
恐らく来年も再来年も、同じ場所に咲くことであろう。
そのたびに、二人は同じ音を耳にして微笑みを交わすのである。
「あなたの植えた花、今年はいつ咲くのかしらね?」
「きっと、もうすぐですよ。暖かくなったら……」
「楽しみね」
「はい。あなたと一緒に見られるなら、いつでも」
二人の間に、静かな風が吹く。そこには、芽吹きの香りが満ちていた。
まるで二人の未来を、静かに祝福するかのように。
完




