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萎んだ花が開くとき  作者: 陽花紫


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3/4

永遠に花開く

 時はゆっくりと、流れていた。

 陽の光は少しずつ柔らかくなり、まるで二人の間に生まれた穏やかな時間をそのまま映しているようでもあった。


 クレアは離れの小屋で目を覚ますと、静かにカーテンを開けた。

 露に濡れた草花が、その光を受けて輝いていた。

「おはようございます」

 すぐ近くで声がして、振り返るとライアンが立っていた。

 いつもより、少し早い時間である。

 彼の手には、庭で摘んだばかりの白い花束があった。

「こんなに早く起きて……、また庭の手入れをしていたのね」

「はい。あなたが好きだと言っていた香りの花です。覚えていらっしゃいますか?」

「そうね。よく、覚えていたわね」

 ライアンは照れくさそうに笑い、花束をクレアへと差し出した。

 クレアはそれを受け取り、静かにその香りを吸い込む。

 ほのかな甘さと、少しの苦み。まるで人生の残り香であるかのような落ち着いた匂いであった。


 このようにして過ごす朝が、いつしかふたりの日常となっていたのだ。


 ライアンは日中、多忙な様子でもあった。

 屋敷の書類を片づけたり、客を迎えたり。

 しかしクレアが窓辺に顔を見せると、どれほど疲れていてもその目じりはさらに垂れ下がる。


「今夜は、庭で食事をしませんか?あなたの好きなワインを開けましょう」

 そのような言葉を交わすたびに、クレアの心は少しずつやわらいでいった。

 ライアンが見せる爽やかな笑みは、若さの象徴でもあるようにクレアの瞳に映る。

 輝きに満ちあふれ、まっすぐで曇りがなかった。

 それがあまりにも眩しく思えてしまい、時にクレアは目を背けてしまうこともあった。


***


 ある夜、星がよく見える晩のこと。

 ふたりは庭の縁側に腰を下ろし、静かに空を見上げていた。

「あの星に、見覚えはありませんか?」

 そうライアンが指差したのは、小さな白い光であった。

「……ええ。昔の舞踏会の夜でも、同じ星を見たことがあるような気がするわ」

「その時、あなたが私に声をかけてくれた……」

「そんな昔のこと、よく覚えているわね」

「私にとっては、忘れられない夜なのです。この人生が変わった夜でもありますから」


 クレアは黙って、星を見つめていた。

 遠くでその光が輝き、かすかに消えていく。

「……ねえ、ライアン。あなたの人生を変えたのは私じゃないわ。きっと、時間よ」

「時間?」

「そう。あなたは成長して、強くなって、そして優しくなった。それはあなたの努力の結果よ。私はただの、通りすがりにしかすぎないの」

「それは違います」

 ライアンの声が、強くなる。

「あなたがいなければ、私は、優しくなろうだなんて思わなかったのですから」

 クレアは言葉を失った。

 胸の奥が、じんわりと熱くなる。ライアンの瞳は、まっすぐ自らの身を映していたのだから。

 その真っ直ぐさが、かえって痛くも思えた。


「そう、それは……ありがとう」

 それだけを言って、クレアは視線を落とした。

 白い手に浮かぶ細い血管が、月の光を受けて青く透けて見えた。

 その手を、ライアンはそっと包みこむ。

「とても、冷たい」

「あなたの手が、温かいだけよ」

「私はいつまでも、あなたの身を温めていたい」

 クレアは微笑みながらも、心の奥に小さな恐れを感じていた。


 ――いつまで、彼にこの手を取ってもらえるのだろう。


 ライアンは若く、未来を持っていた。それに比べ、自らはもう過去の人間であるのだと。

 日に日にその皺は増え、髪には白いものが表れていた。

 彼がそれを気にしないと笑っても、時の流れは誰にも止めることはできないのだ。


***


 ある夜、クレアはなかなか眠りにつくことができないでいた。

 離れの小屋の窓辺へと座り、月の光を受けながらそっと鏡をのぞきこむ。

 そこに映るのは、見慣れぬ顔であった。若き頃の輝きは消え、代わりに静かな影が頬をなぞっていた。

 しかし今となっては、その影が嫌いではなかった。

 ただその影が彼の光を曇らせるのではないかと思うと、途端に胸が苦しくなる。


 翌朝、ライアンはいつものように明るい声でその名を呼んでいた。

「クレア、今日は街まで行きませんか?」

「街へ?」

「ええ。少し買い物を。それに、新しい布地を見に行かなくては」

「でも、私はもうそんな華やかな場所には……」

「似合いますよ。誰よりも」

 その一言に、クレアの胸の奥は震える。

 彼は、いつだってそうであったのだ。彼女が壁を作ろうとすると、静かにそれを壊してしまう。その優しさで、まっすぐな眼差しで。


***


 街へ向かう馬車の中、クレアは窓から外を眺めていた。

 道を歩く若い娘たちが、笑いながら鮮やかに咲く花を買っている。かつては彼女も、あの中にいたのだ。

 今はもう、遠い風景であるかのように見えてしまう。

「……ねえ、ライアン」

「はい」

「あなたは、後悔しない?」

「何をですか?」

「もっと若い人と出会う機会を、私なんかのせいで失ってしまうことを」

「そのようなこと、考えたこともありませんね」

 その言葉に、クレアはかすかな笑みを浮かべる。

「でも、人はきっと言うわ。どうしてあんな年上の女を、って」

「人の言葉より、私はあなたの言葉がほしい」

「私は……、怖いのよ。いつかあなたが私を置いていってしまうんじゃないかって」

 その言葉を聞いたライアンは、クレアに向けて静かに手を伸ばした。

 馬車の中、彼女の指先をそっと握る。

「置いていきませんよ。あなたは、私の花なのですから」

「花?」

「冬の庭に咲いた、最初の花。誰も気づかない場所で咲いて、それでも確かに光を求めていた」

 クレアの目に、その光がにじむ。

 言葉にならない想いが、胸の奥へと溢れてくる。


 馬車が止まる頃、クレアは静かにライアンの肩へと寄りかかる。

「ライアン」

「はい」

「あなたに会えて、よかったわ」

「私も、あなたに会うために今日まで生きてきました」

 その言葉に、クレアの唇がかすかに震えた。

 年齢の差は、消えることはない。しかし心が重なる瞬間だけは、その時の流れも止まるのだと知った。



 屋敷に戻ると、空は茜色に染まっていた。

 クレアは花束を抱え、離れの部屋へと戻る。花瓶に水を入れ、一輪の花をそっと挿した。


 甘い香りを胸に吸い込んで、クレアは微笑んだ。

「まだ、開いていけるのかしらね……」

 その呟きに、背後からライアンの声が重なる。

「ええ。あなたが私を信じてくださるのなら、いつまでも」

 クレアは振り向き、そっとライアンの広い胸に顔を埋めた。

 その鼓動は、穏やかに響く。まるで時の音そのものであるかのように、深く、優しく。


 時の流れは、二人を隔てるものではなかった。

 それは二人を、ゆっくりとひとつにしていく見えない糸のようなものでもあったのだ。


 外では風が吹き、花々が揺れていた。

 その中で、クレアの胸の奥の花も静かに息づいていた。ゆっくりと、確かに。

 彼女の時は、ようやく彼と同じ歩幅で進み始めていたのだ。


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