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萎んだ花が開くとき  作者: 陽花紫


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2/4

静かに時を待つ

 夜の帳は、ゆっくりと降りていた。

 遠くで鐘の音がひとつ鳴り、屋敷の窓からこぼれる灯りは庭の花々を照らしていた。

 クレアはその灯りの中で、まだ夢の中にいるような気がしていた。

 つい数時間前まで、彼女はただの仕立て屋の手伝いであった。針と糸の先にしか未来を感じられなかった自らが、いまはこうして知らぬ青年の屋敷に身を寄せている。

 しかしその青年は、もう知らぬ人などではなかった。


「寒くは、ありませんか?」

 そうライアンは、薄手のショールをクレアの肩にかける。

 クレアはわずかに首をすくめながらも、礼を言って微笑んだ。その笑みは、いつのまにか柔らかくなっていた。


 クレアが生活する離れの小屋は、簡素なものであった。

 しかしそのささやかな景色が彼女の心を静めていた。

 部屋の片隅には、木の机と小さな針箱が置かれている。

「どうかこれを、使ってください。あなたが落ち着くまで、好きなように暮らしてくださいね」

「……まるで、私がここで暮らすことを最初から知っていたようね」

「ええ。知っていました」

 ライアンは、少し照れたように微笑んだ。

 その笑みに、クレアは思わず息をのむ。

 彼の瞳の奥には、かつて誰かが彼女に向けたことのない真っ直ぐさがあったのだ。

 打算でも憧れでもない、ただ穏やかに見守る眼差し。

 それはどこか懐かしいような、しかし痛みを伴う温もりでもあった。


 夜風がカーテンを揺らし、ランプの光が一瞬だけライアンの横顔を浮かび上がらせた。

 その横顔はまだわずかに、あの少年の面影を残していた。しかしその声の響きは深く、確かな青年のものでもあった。


「クレア様」

「ライアン、もう“様”はつけないで。いまの私は、ただのクレアなのよ」

 ライアンは、小さく笑う。

「では、……クレア」

 たったそれだけの言葉が、まるで長い鎖を外すように彼女の胸の奥に響いていた。

 ライアンの表情はやわらぎ、子どものように嬉しそうに微笑む。

「クレアのその声を、ずっと聞きたかった」

 そして、クレアの髪を静かに撫でた。


 沈黙が、ふたりを包みこむ。

 ランプの灯は、壁に揺れる影をつくっていた。それはまるで、寄り添う二輪の花のようでもあった。


 クレアは静かに、窓の外を見た。

 街の灯りが遠くで瞬き、どこかで誰かが笑う声がかすかに届く。

 かつて彼女が暮らしていた世界は、あの華々しい光の中にあったのだ。それを遠くから見つめる今のクレアに、不思議と寂しさはなかった。


「ねえ、ライアン」

「はい」

「私、ずっと思っていたの。あの頃の私は、何かを手に入れたくてずっと走っていた。でも気づいたら、両手には何も残っていなかったのよ」

「それでも、あなたは優しかった。誰かのために涙を流せる人でした」

 クレアは小さく、息をのんだ。

「そんなこと、どうして知っているの?」

「噂で聞きました。あなたが貧しい男の子にコートを与えたことや、ご友人のために身代わりになったことも……」

「それは……、昔の話よ」

「いいえ。そういう人は、どんなに時が経っても変わりません」

 その言葉に、クレアは思わず目を伏せた。


 長い年月、彼女は自らの過ちを責め続けていた。

 美しさを盾に男を誘い、その愛から逃げ、心を閉ざしてしまったことを。

 しかしライアンのあたたかな声が、その心を溶かしていく。

「こんな私に、何ができるかしら」

「ここにいてくれるだけで、いいんですよ。クレア」

 その言葉に、クレアの胸の奥で小さな音がした。

 あの日と同じように、また花弁がそっと開くような音が。


「なら……少しだけ、ここにいさせて」

「はい。いつまでも、いてくださいね」


 ふたりの間に、再び沈黙が落ちた。

 互いの呼吸の音が、まるで夜の虫の声と溶け合うように優しく響いていた。


 クレアは机の上の針箱を開け、古い糸巻きを手に取る。

「これを、使っても?」

「もちろん。ここにあるものはすべて、あなたの物ですよ」

 針を持つ手が、かすかに震える。

 慣れた手つきで糸を通し、小さな布切れに針を落とす。その音が一つ一つ、静かな夜へと溶けていく。


 ライアンはその様子を、背後から黙って見つめていた。

「あなたの指先は、やはり綺麗ですね」

「綺麗なんかじゃないわ。節くれ立っているもの」

「それでも、私には一番美しいもののように見えます」

 針が止まり、クレアは顔を上げた。

 ライアンの目が、まっすぐ彼女のことを見つめていた。

 その視線に、息が詰まりそうになる。

「そんなことを言われたのは、初めてよ」

「それなら、これからは何度でも言いますね。あなたは、美しい」

 小さな笑いが、ふたりの間に生まれた。

 その笑いは、どこか懐かしい音をしていた。


 外では風が花壇を撫で、その甘い香りが窓から入り込む。

 クレアはその香りを胸いっぱいに吸い込み、静かに目を閉じた。ほんの少し前まで枯れていたと思っていた心に、再び色が差していくのを感じていた。

 それは恋というよりも、芽吹きにも似たような感覚でもあった。

 まるで生きることの意味が、ようやく少しだけ見えてきたような。ささやかな芽吹きが。


 やがて、ランプの炎が小さく揺れた。

 ライアンは立ち上がり、そっとカーテンを閉めた。

「今日は、もう休みましょう。長い一日でしたからね」

「……ええ」

 彼の背中が扉の向こうに消えると、クレアはふと微笑んだ。

「おやすみなさい、ライアン」

 小さな声が、夜気の中に溶けていった。


 部屋に残るのは、針と糸の音、そして花の香り。

 それらが優しく混ざりながら、彼女の胸の奥へと静かに降り積もっていく。


 萎んだ花は、今夜も静かに息づいていた。

 それはまだ完全には開くことはないものの、確かにそこには光が届いていたのである。


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