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無視された一瞬

その朝は、息が詰まるほど蒸し暑かった。

空は白く濁り、風は窓の外で渦を巻くだけで、教室には入ってこない。

ぎっしり詰まった読書の声と、ペン先の擦れる音が混じり合い、

髪が首筋に貼りつくような空気だった。


万依琳ワン・イリンはノートを抱え、一列ずつ提出物を集めていた。

今日もいつも通り、柔らかな笑みを浮かべている。

「国語の宿題、出してくださいね。今日は読解問題です。」

声も、いつものように穏やかだった。


彼女はこの仕事を嫌っていなかった。

むしろ「みんなに信頼されている」「先生に頼られている」――

そんな感覚が心地よかった。

この教室に、自分の居場所があると感じられるから。


もう少しで集め終わるという時、最後の列にいた男子が、

机に突っ伏したまま必死にペンを走らせていた。


彼女は数秒待ってから、そっと身をかがめた。

「先にほかのを集めてくるね。急いでね、もうすぐ先生来るから。」

「……うん。」

顔も上げずに短い返事。


十数秒後、チャイムが鳴った。

「もう出さないとだよ。」

小さくそう言った瞬間、彼の手が止まった。


「……急かすなよ、まじで。」

低い、つぶやきのような声。

ほんの一言――けれど、その冷たい響きが細い針のように刺さった。

軽いのに、的確に痛い。


万依琳は数秒固まった。

何も言わず、ノートを受け取り、

静かに前へ歩いた。


廊下に出る。

日差しが強く、影は薄い。

先生はいつものように笑って言った。

「依琳、早いね。助かるよ。」

「いえ、大丈夫です。」

彼女も笑って返した。

――けれど胸の奥の小さな痛みは、消えなかった。


教室に戻り、机に顔を伏せる。

深呼吸をして、落ち着こうとした。

だが静けさの中で、かえって胸の奥の“ちくり”が浮かび上がる。


(私、怒ってないのに……)

(ただ、少し声をかけただけなのに。)


“まじで”の一言が、倒刺のように心に残る。

抜こうとすれば痛く、触れればまた痛い。

袖口を無意識に握りしめ、

涙が静かにこぼれ落ちた。

呼吸を整えようとするほど、喉が詰まる。


最初に気づいたのは、孫静沢ソン・ジンザーだった。

彼はただ、替えのペン芯を借りようと振り返っただけだった。

けれど、万依琳の肩の丸まり方が“寝ている”それではないと、すぐに分かった。


「……大丈夫?」

探るように、小さく。


万依琳の肩がびくっと震え、

慌てて目をこすった。

「ううん、平気。」

「具合悪い?」

「ちょっと……疲れただけ。」


彼は眉を寄せた。

その瞬間、聞きたくなった。

誰かに何か言われたのか。先生に叱られたのか。テストが悪かったのか。

けれど、彼女の目にある「聞かないで」という小さな意志が、彼を止めた。


「じゃ、少し休みな。」

二秒の沈黙のあと、彼はポケットティッシュを一枚取り出し、机の上に置いた。

「拭きな。」


――その一言で、彼女の心は崩れた。

もう泣くまいと必死に堪えていた感情が、

“誰かの優しさ”に触れた瞬間、溶け出した。


顔を伏せたまま、声を殺して泣く。

嗚咽は小さいが、止まらない。

孫静沢は慌て、どうしていいか分からず手を宙に浮かせた。


李方苒リ・ファンランも気づき、そっと身を寄せる。

「依琳、大丈夫?」

「平気……。ちょっと、情けないだけ。」

「情けなくなんかないよ。」李方苒が、肩にそっと手を置いた。

「誰だって、こういう時ある。」


孫静沢も低い声で言う。

「気にすんな。理由は分かんないけど、お前はずっとちゃんとしてる。

もし誰かに何か言われたなら、それはそいつが悪い。」

「誰にも言われてないよ。」

「じゃあ、なおさら気にすんな。気分落ちる時って、理由いらないからさ。」


彼はそれ以上何も聞かなかった。

ただ李方苒と一緒に、

周りの好奇の視線をそっと遮った。


――言葉よりも優しい、静かな支え。


その様子を、陳雅桐チン・ヤートンも見ていた。

彼女は近づき、柔らかい声で言った。

「依琳、どうしたの?」

ティッシュを一枚差し出しながら、微笑む。

「泣かないで、先生もうすぐ来るよ。」


笑顔は本物に見えた。

だが瞳の奥には、かすかな興味が光っていた。

(あの子も泣くんだ。)

(いつも完璧そうなのに。)

その“欠けた瞬間”を見る喜びが、

自分でも気づかぬうちに微笑を柔らかくした。


後ろの席。

杜景晨ト・ジンチェンはペンを持ったまま、動けずにいた。

彼は全部見ていた。

孫静沢が身を乗り出し、ティッシュを差し出したこと。

李方苒が肩に手を置いたこと。

陳雅桐が優しく声をかけたこと。


――そして、自分が何もできなかったこと。


(俺も、何か言えばよかった。)

(ひと言でもいい、慰めたかった。)


立ち上がろうとした時には、

すでに彼女の周りは人で囲まれていた。

そこに“入る場所”は、もうなかった。


手の中のペンをくるりと回す。

(……やめとこう。もう十分だろ。)

(今さら行っても、邪魔なだけ。)


胸の中にぽっかりとした空洞。

自分が入りたかった感情の場面に、

透明な壁を作られたようだった。


机に視線を落とす。

だが目は、何度も彼女の方へ流れる。

小さな背中。震える肩。

見ているだけで、胸が痛む。


その痛みには、

万依琳への思いと、

近づけない孤独が混ざっていた。


――同じ教室にいるのに、

同じ陽射しの下なのに、

彼女とはガラス一枚隔てられているようだった。


「万依琳、大丈夫?」

孫静沢がもう一度、小声で聞いた。

彼女は鼻をすんと鳴らし、笑って首を振る。

「もう大丈夫。ありがとう。」

「ならよかった。」

「……さっき、あんまり聞かなかったのも、ありがとう。」

「え?」

「聞かれすぎると、疲れちゃうから。」

「そっか。」

「うん。」


二人の声はどちらも低く、

ようやく落ち着いた静けさを壊さないようにしていた。


チャイムが鳴る。

万依琳は洗面所で顔を洗い、戻ってきた。

目の端はまだ赤い。

けれど、教室の外から風が入ってきて、

彼女の髪を軽く揺らした。


孫静沢が近づき、

さっきのティッシュの残りを差し出す。

「汗、拭けよ。」

「……ほんと、おせっかい。」

彼女が笑う。声は柔らかく、少し照れていた。

「別にいいだろ。そういうの、好きなんだよ。」


彼女はうつむき、心臓が少し跳ねた。

それは派手な慰めではなく、

ただ“そこにいてくれる”温かさ。

もう無理に強がらなくていい――そんな安心。


杜景晨は、そのやりとりを見ていた。

胸の奥で、また静かな酸っぱさが広がっていった。

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