屋台通りの約束
学期が始まって五週目。
教室の空気はすっかり落ち着き、人間関係の境界線もだんだん見えてきた。――誰と誰が一緒にご飯を食べるのか、誰と誰が連れ立ってトイレに行くのか、休み時間にいつも騒いでいるのは誰と誰か、昼休みに同じ机を囲むのは誰か。
十分の休み時間。粉チョークと陽の匂いが混じる中、ほとんどの生徒が動き出す。机に突っ伏して仮眠をとる者、廊下で連れ立っておしゃべりをする者。
陳雅桐は今日も教室の中心だった。
男子と笑い合いながら、ひょいと手を伸ばして誰かのペンを取り上げ、明るい声が教室の真ん中で反射する。廊下を通りかかった先生は眉をひそめて「少しはお行儀に」とだけ注意して去っていった。
その頃、杜景晨は孫静沢の席のそばに立っていた。
「昨日の関数の問題、ちょっと自信なくてさ」
練習帳を手に、わざとらしくない調子で訊く。「ここ、直接約していい?」
孫静沢がしばらく見つめ、「うん、ここは消していいよ」と答える。
「そっか。」杜景晨は「ああ、なるほど」といった顔を作った。
――本当は質問が目的じゃない。ただ、少しでも“あの人”に近づきたかっただけだ。
孫静沢の席とは過道を挟んで向かい側に、万依琳がいる。高いポニーテール。文具を揃える手元に、髪の先が陽を弾いてふわりと光る。集中しているのに、どこか軽やかな所作。杜景晨は一瞬、言葉を忘れた。
耳では孫静沢の説明を聞きながら、意識はもうあちらへ流れている。
ここまで来ても、万依琳は一度もこちらを見ない。胸の奥に小さな空洞ができたような気がした。
ちょうどその時、万依琳がペンケースをしまい、ふっと笑って李方苒の席へ向かった。
「方苒、今日は宿題少ないし、小吃街(屋台通り)行かない?この前通ったとき、糖油餅の匂いがめちゃくちゃ良くて」
李方苒は意外そうに瞬きし、すぐにうなずいた。「うん、行く」
自然に誘われるのは初めてで、胸の奥がふわりと温かくなる。
万依琳は笑いながら、心のどこかで迷っていた。
本当は二人だけで行きたかった。女の子同士なら気楽で、目立ちすぎないから。――でも、杜景晨に解説している孫静沢が視界に入った瞬間、胸の奥で奇妙な衝動が跳ねた。
見てほしいような、誤解されたくないような。袖口でそっと指をこすり合わせ、数秒だけ迷う。
そして、何でもないふうを装って声をかけた。
「孫静沢も来る?家、あっち方面でしょ?」
軽い調子。まるでついでに訊いたみたいに。
孫静沢は一瞬きょとんとして、それから笑ってうなずいた。「行く行く」
その笑顔は真っすぐで、空気の微妙な揺れに気づく様子もない。ただ、クラスの友達と放課後にどこかへ行く――それが純粋に嬉しかった。
だが、その数秒で、杜景晨の胸は静かに踏まれた。
すぐ隣に立っているのに、空気から自分だけ消しゴムで消されたような感覚。
――彼女は、こちらを見なかった。
手元の練習帳を見下ろす。視線の色が少し暗くなる。
「君は、僕には“透明”なんだ」――そんな感覚がまた押し寄せた。
沈黙に気づいた孫静沢は、場を和ませようとして言った。
「じゃ、もうちょい人呼ぶ?多い方が賑やかでしょ」
「任せるよ」万依琳が笑う。
「じゃあ、趙翰文と杜景晨も」
孫静沢はくるりと振り向き、すぐそばの杜景晨に向けて言う。
「俺?」杜景晨は素っ気ない顔を作る。「やめとく。勉強あるし」
――心の中では、さっきまでの落差の波がまだ引かない。だが、自然に向けられた誘いが、ほのかな感謝と安堵を連れてくる。
「毎日そんなに詰めなくていいって。たまには息抜き」
孫静沢が笑って肩を軽く叩く。
「……じゃ、行ってやるか」
口では渋りながら、胸の奥の小さな期待はもう抑えきれなかった。
「趙翰文、お前も来いよー」
声をかけられた趙翰文が顔を上げ、ちょうど前の席の李方苒と目が合う。二人して、ほんの少し固まる。
「僕は、どっちでも」
淡い声。それだけなのに、李方苒の心が小さく跳ねた。
彼女は俯いて練習帳を整えるふりをし、口元に笑みがにじむのを止められない。
チャイムが鳴りそうで、皆が席へ戻る。
杜景晨は自席に戻り、手は机の角に置いたまま、心はまだざわついていた。――一緒に行ける嬉しさと、最初に置き去りにされた寂しさ。その両方が同時に存在する。
万依琳は席へ戻りながら、口元にまだ笑いを残して「放課後ね」と、李方苒と孫静沢に軽くウインク。
李方苒は笑ってうなずいた。放課後がこんなに楽しみなのは初めてだった。
授業が終わるベルが鳴ると、校舎は一気に解き放たれ、廊下は足音と笑いとカバンの擦れる音でいっぱいになる。
孫静沢が真っ先に立ち上がり、「ほら、小吃街!忘れるなよー!」と弾んだ声。
「李方苒、万依琳、趙翰文、杜景晨――行くぞ!」
「行くよー」万依琳が笑い、
趙翰文は小さく「うん」とだけ返すが、その声音の奥にはわずかな高揚がある。
李方苒は少し緊張してカバンを抱きしめながら、それでも「うん」とうなずいた。
杜景晨は一番に「別に」といった顔を作り、「食べすぎて動けなくなるなよ」と軽口。
だが孫静沢に肩をぽんと叩かれ、「お前がいないと揃わないだろ」と笑われると、胸の火がぱっと明るくなる。
――この午後、授業の内容なんて全然頭に入っていなかった。やっと、この時が来た。
五人は校門を出る。夕陽が低く、鉄の柵に影を落とし、風が影をふわりと揺らす。
前を歩くのは二人の女子――高いポニーテールの万依琳と、低い三つ編みの李方苒。光の中、並ぶ背中。歩幅は一歩軽く、一歩ゆっくり。
すぐ後ろに三人。真ん中を歩く趙翰文。孫静沢は笑いながら、ときどき前の二人に話を投げる。杜景晨は、その合間にそっと万依琳を見てしまう。
孫静沢と彼女が言葉を交わすテンポ――自然で、息が合って、見ているだけで少し胸がざわつく。
自分には到底できない自然さ。羨望と、わずかな痛み。表情に出さないように、俯いて“考え事”のふりをする。
沈黙に気づいた趙翰文が、ためらいがちに声を落とした。
「……何、食べる?」
「まだ決めてない」
「辛すぎるのは遠慮したい。前に激辛スナック食べて、喉やられた」
「じいさんかよ」杜景晨が口の端を上げる。
「じゃあ、最終決定権は僕にあるってことだね」
何でもない冗談に、杜景晨の中の張り詰めた糸がふっと緩む。
――この人、思っていたほど“近寄りがたい”わけじゃないのかも。
学校から十分ほどで小吃街に着く。
狭い通りの両側に、油の香りを上げる屋台。鉄板はじゅうじゅう鳴り、飴がけのサンザシが赤く光る。熱気に混じる甘い匂い。
「いい匂い!」万依琳の目がきらりと光る。
「だろ、ここ美味いんだ」
「チキンカツどう?」と孫静沢。
「私はいいよ」李方苒が少し恥ずかしそうに頷く。――男子も一緒のこういう買い食いは、彼女にはまだ新鮮だ。
屋台の前で、店主が油鍋を睨みつけてチキンを返す。
孫静沢が財布を出しかけたとき、杜景晨がそっと手を伸ばして止めた。
「ここは俺が」
わざと素っ気なく言い、肩をすくめる。「こんなの奢りでいいだろ」
「やるじゃん、太っ腹」孫静沢が笑う。
「たまには見せ場が必要で」――平静を装うが、鼓動は速い。
ただ、彼女に“気づいて”ほしかった。たとえ、チキン一枚分の存在感でも。
万依琳が少し驚いたように目を丸くし、「ありがと、課代表」と笑う。
笑うと目が細く弧を描き、瞳に小さな光が灯る。
皆が口々に礼を言い、杜景晨は「どういたしまして」と鼻で笑う。
――やっと、彼女の視線がこちらに来た。
チキンを食べ終え、今度は飲み物。
「さっきは杜景晨が奢ったし、次は俺ね。フェアに行こう」孫静沢。
「そこまで“貸し借り”にしなくていいけど」――そう言いながら、杜景晨はどこかほっとする。過剰に“アピールしてるやつ”にならずに済む。
「何飲む? 万依琳、李方苒、趙翰文、杜景晨」
「レモングリーンティー」李方苒が恐縮気味に。「ありがとう」
「タピオカミルクティー。砂糖少なめで」万依琳が目を細める。
「僕はオリジナルで。甘さ控えめ」趙翰文はいつもの淡々。
「はいはい、健康志向ね」孫静沢が茶化す。
杜景晨は少し迷い、「じゃ、キャラメルチーズフォームで」
「多めの甘さだろ?」孫静沢が即答。
「なんで分かる」
「前に一緒に買っただろ。君、それ頼んでた」
「……」一瞬黙る。――自分の小さな好みを覚えていたことが、思いがけず胸に触れた。
飲み物を受け取り、路肩で紙コップを手渡す。
趙翰文はオリジナルを一口飲み、わずかに笑う。「悪くない」
「いつもそれ?」と李方苒。
「うん。……君も甘すぎるの苦手だよね?」
李方苒は一瞬きょとんとし、ふわりと笑った。「バレたか」
その笑みは小さいのに、風まで柔らかくする。
通りの端の階段に座って、紙袋と空カップを足元に置く。
話題は自然と転がる。先生の口癖、体育の種目、学年の噂。
普段無口な二人も、気づけば言葉が増えていた。
数学の先生の物真似を趙翰文が真顔でやってみせる――
『皆さん、∠AOBはいくつですか――え、そこ分からない?』
五人は腹を抱えて笑い、杜景晨でさえ思わず口を手でおさえた。「似すぎ」
その一瞬、堅さが全部ほどけた。
“ただのクラスメイト”から、“一緒に笑って、食べて、ふざけられる人たち”へ。
夕陽が沈み、屋台の灯りがぽつぽつ灯る。
風が角を曲がって吹き、制服の裾を揺らし、昼間のぎこちなさをさらっていく。
「そろそろ帰ろ。心配される」孫静沢が立ち上がる。
帰り道の途中まで一緒に歩き、分かれ道で手を振った。
足音が交差し、杜景晨は最後尾を歩く。
前を行く四つの背中――笑いながら、肩を並べながら。
――放課後の二時間が、こんなに短いなんて。そんなことを、ふと思った。




