雨の中のスタジアム
あの日の出来事から、まだ一日しか経っていないのに、孫静沢の胸の中には、まだ小さなモヤが残っていた。
昨日の昼、食堂でのことだった。
同じクラスの女子が、会計の時にカードの残高がなくて困っていた。
列の後ろからは「早くしてよ」と声が飛び、彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。
孫静沢は何も考えずに、そっと自分のカードで彼女の分を払ってやった。
――それだけのことだった。
ところが、教室に戻ると数人の男子がすぐに茶化してきた。
「おい孫静沢、お前今日、楊思雨と一緒に食堂行ったって?」
「やるじゃん、でもさ~、万依琳にバレたら大変だぞ~?」
その名前が出た瞬間、孫静沢の心臓がどくんと鳴った。
彼は思わず固まり、すぐに顔が熱くなる。
怒りなのか、照れなのか、自分でも分からなかった。
「違うって。ただ偶然一緒になっただけ。彼女がカード忘れただけだよ。」
そう言い返しても、周りの笑いは止まらなかった。
誰も悪気があるわけじゃない。けれど、なぜか息苦しかった。
――その後、ずっと頭がごちゃごちゃしていた。
翌日。昼休み。
窓から差し込む光が机の上に細く落ちる。教室は静かで、数人しか残っていなかった。
いつもなら真っ先にバスケに行く孫静沢は、今日は机に伏せて動かない。
「今日は行かないの?」
隣の席の趙翰文が声をかけた。
「なんか、だるい。」
「具合悪いの?」
「別に。」
「まさか、週テストの“サービス問題”落としたとか?」
思わず笑いが漏れた。
「そんなわけあるかよ。」
趙翰文は淡々と「ふーん」と返し、ノートを閉じた。
「じゃ、バスケ行く?」
「お前もやるの?」
「まあな。小学校の時、地区大会で三位だった。」
言葉とは裏腹に、少し誇らしげな表情をしていた。
孫静沢は笑って立ち上がる。
「じゃあ、試してみるか。」
──午後の太陽が、コートを焼くように照らしていた。
地面から熱が立ち上り、空気が揺らぐ。
趙翰文はフリースローラインの外でドリブルを始めた。
姿勢はきれいで、リズムも安定している。
「先攻でいいよ。」
「じゃあ、遠慮なく。」
ボールが乾いた音を立てて跳ねる。
最初は軽い遊びのつもりだった。
だが、数分も経たないうちに、孫静沢は本気を出していた。
「お前、けっこう上手いな。」
「当然。昔はレギュラーだったから。」
「意外だな。普段あんなに無口なのに。」
「無口でも、プレーはできる。」
試合が進むにつれ、趙翰文の口数が増えていった。
「ほら、ステップ遅い。」
「近づきすぎ。抜かれるぞ。」
「ディフェンス悪くないけど、シュート下手。」
「お前、うるさいな!」
「勝ってる時は喋りたくなるんだよ。」
互いに笑いながら、ボールの音だけがコートに響いた。
気づけば、次の授業のチャイムが鳴っていた。
「やるじゃん。」
「だから言ったろ。」
「自信家だな。」
「お前ほどじゃない。」
そんな他愛ない会話の中で、少しずつ距離が縮まっていた。
「放課後、もう一試合やるか?」
「いいね。」
「でも、雨降りそうだぞ。」
「降ってもやる。」
──放課後。
ベルが鳴った瞬間、窓に雨粒が当たる音がした。
「どうする?」
「やめとくか?」
「ビビった?」
「……行くか。」
二人は笑いながら、雨の中へ飛び出した。
グラウンドは滑りやすく、ボールは濡れて重くなっていく。
でも、そんなことはどうでもよかった。
「そこ防げよ!」
「今のはファウルだろ!」
「は? 正当防衛!」
水しぶきが上がり、靴が泥に沈む。
髪から滴る水が目に入り、それでも笑いが止まらない。
趙翰文がスリーポイントを打とうとして滑った。
孫静沢が笑いながら手を差し出す。
「大丈夫かよ。」
「お前もな。」
二人は声を上げて笑った。
その笑いは、雨音にすぐ溶けていった。
やがて、雨が弱まり、コートには誰もいなくなった。
二人はフェンスに腰を下ろし、息を整える。
「お前、意外とすげぇな。」
「知ってたろ。」
「自意識過剰。」
「お前ほどじゃない。」
「それは褒め言葉?」
「たぶん。」
目を合わせて、また笑う。
笑いながら、言葉のいらない“何か”が生まれていた。
「明日もやる?」
「いいよ。」
「でも、また雨降るかも。」
「雨でも、やるさ。」
雨上がりの空に、薄い橙色の光がにじんでいた。
二人は並んで校舎へ戻る。
会話は少なかったが、孫静沢はなぜか満たされていた。
――みんなに好かれなくても、いいのかもしれない。
一緒に笑って、雨の中で走れる友達がいれば、それで十分だ。




