ざわめき始めた心
午後の陽ざしが教室に差し込み、窓の外ではグラウンドを走る足音。
空気にはチョークの粉と熱気が混じり、扇風機は生ぬるい風をゆっくりとかき回すだけ。
机に突っ伏して眠る者、宿題を埋める者、小さな笑い声――
すべてが空気の底に押さえつけられたみたいに、静かだった。
そのとき、出入口で押し殺した笑い声がした。
隣のクラスの女子が三人、ドアのところからひょいと覗き込む。
「どれが孫静沢?」
「真ん中の列。ジャージのジッパー開けてる子。」
三人は顔を見合わせて、また小声で笑う。
「ほんと、かっこいいじゃん。」
そして、いたずらに成功した子どもみたいに、くすくす笑いながら走り去った。
最初、孫静沢は状況が分からなかった。
自分の名前が聞こえた瞬間、ぽかんとする。
「……え?」と入り口を見た時には、もう誰もいない。
一部始終を見ていた陳雅桐が、舌打ちまじりに半分冗談で言う。
「やるじゃん、人気者。隣のクラスの女子まで見学に来るとか。」
孫静沢はみるみる赤くなり、ペンさえおぼつかない。
「いや、べ、別に、俺、あの人たち知らないし……」
「とぼけないで~」
陳雅桐はからかいながら続ける。
「で、好きな人とかいるわけ?」
「いない。」反射的に即答。
「じゃ、どんなタイプが好き?」
「考えたことない。俺は……勉強が先。」
声が少し震えている。
陳雅桐はふふんと笑って、含みのある顔をした。
「勉強系王子、了解。」
彼女は楽しそうに笑い、彼は耳まで真っ赤になる。
一つ通路を隔てた席の万依琳は、その会話を耳にしていた。
手元のペン先が数秒止まる。
わけもなく胸の奥が重くなる。
顔を上げると、机に頬杖をついて笑っている陳雅桐と、からかわれて戸惑う孫静沢が見えた。
彼女はすぐ視線を戻し、平静を装う。
(……彼、ほんとに人気だな。)
それは憧れか、嫉妬か、ただの小さな落ち込みか――自分でも分からない。
後ろの席の杜景晨も、気づいていた。
ペンを二度ほど回し、胸の中に渋い味が広がる。
孫静沢をしばらく見つめ、淡い妬みがまた背中をのぼる。
(何もしなくても、好かれるんだよな、あいつは。
隣のクラスの女子まで、見に来るくらい。)
うつむいて、苦笑する。
――でも、認めないわけにはいかない。
“いい顔”なのに、偉ぶらないし、誰にでも感じよく接する。
(……そりゃ、好かれるよな。)
大休憩のチャイムが鳴る。
外に出て散歩する者、机で眠る者、仲間うちで固まっておしゃべり――教室はにぎやかだ。
万依琳はどこへ行く気もなかったが、座っているほど胸が詰まってくる。
(少し、風に当たろう。)
廊下を当てもなく歩き、輪ゴムを指で弄びながら、理科棟の角まで来ていた。
そこは人通りが少なく、階段口から涼しい風が抜ける。
実験室の前で、鉢植えの葉をつまんでぼんやり。
ため息ひとつ。理由は分からない。ただ、何もかもがずれている気がした。
ふと振り向くと、階段下の影に人影――趙翰文だ。
ジャージの上着を羽織り、膝に陽の四角い光を乗せて、静かに座っている。
「びっくりした……ここにいたの?」
小声で問うと、彼はノートを閉じ、淡々と答える。
「大休憩は大体ここ。人少なくて、静かだから。」
「道理で、あんまり見かけないわけだ。」
彼女は少し無理に笑う。
彼は、こちらが歩いてきた時から気づいていた。
さっきまでの、目に見える“元気のなさ”も。
しばらくして、彼は小さく尋ねた。
「……機嫌、悪い?」
「え? ううん。」
反射的に首を振るが、視線は泳いだ。
彼は追及しない。ただ、短く視線を合わせて、黙る。
気まずくなった彼女は、口実をつくって教室へ戻っていった。
趙翰文はその背中を見送り、またノートを開く。
四週目。
教室の空気はもう新鮮味を失い、誰もが自分の居場所に落ち着きつつある。
同じ机、バスケ組、アイドル組、成績上位組――小さな輪が形を持ちはじめる。
“安定”こそが、学校という場所の本質みたいに。
――けれど、例外もいる。
陳雅桐、その“例外”。
彼女は誰とでも遊べる。とくに男子と。
休み時間に男子の輪へ混ざってじゃれ合い、笑い声で他人の視線をさらっていく。
女子一人で男子の中にいる、その感覚が好きだった。
それは思春期特有の虚栄。彼女自身、言葉にはできない。
ただ、その瞬間だけ、世界中の目が自分に向く。
女子の“仲良しグループ”もある。三、四人で、身なりに気を配り、噂話も好き。
いちばん一緒にいるのは周芯雨。
二人で売店へ行き、内緒話をしては、甲高い笑い声。
肌の白さや体重を、心の中で競い合う――親友であり、見えないライバルでもある。
最近、学年を駆け巡った新しい噂――
隣のクラスに“今学期初のカップル”が誕生。手をつないで歩いていたのを見られたらしい。
学期四週目の学校には、湖に投げ込まれた小石のような波紋。
昼休み、陳雅桐は周芯雨、もう一人の女子と机をくっつける。
「マジ?ほんとに付き合ってるの?」
「本当よ。昨日の放課後、一緒に帰ってたって。」
「やば、早すぎ!」
口では驚き、心では少し酸っぱく。
陳雅桐は鼻で笑う。
「どうせすぐ別れるって。」
声は軽い。けれど胸の奥に、言葉にできない痛み。
(なんで“先に好きになられる”のは、あの子なんだろう。)
周芯雨が茶化す。
「でも、あの子、顔はまあまあじゃない?」
「どこが?」陳雅桐は反射で噛みつく。
「ふつうでしょ。」
声は小さいのに、侮りが滲む。
放課後の帰り道、彼女は考えるほどに苛立ってくる。
本気で好きな人がいるわけじゃない。
でも“誰かに好きと言われる”感覚は、欲しい。
――この世界から、やさしく証明されたい。
頭の中で男子の顔を並べると、真っ先に浮かぶのは孫静沢。
熱愛ではなく、“適任”。
見た目、評判、先生受け、同級生の信頼。
(このクラスで私に見合うのは、彼。)
彼女は、そう言い聞かせた。
翌日の休み時間。
彼女はいつものように男子グループへ行かず、女子とも群れず、静かに課題をしている孫静沢の隣へ腰を下ろす。
「孫静沢。」
「ん?」
「もし、このクラスにカップルができるなら、誰だと思う?」
「知らないよ。」彼は目を丸くする。
「考えたことないの?」
「ない。」
「じゃ、どんなタイプが好き?」
「……そんなの、考えたことない。俺はまず勉強。」
答え方が、真面目に設問に解答しているみたいだ。
陳雅桐は吹き出す。
「真面目すぎ。じゃさ、もし“あなたのこと好きな子”がいたら?」
「え?」完全に固まる彼。
「とぼけないで。隣のクラスの女子、見に来てたじゃん。」
「や、やめろって。言いがかり。」
反論したくても、言葉が見つからない。
彼女は笑いながら畳みかける。
「じゃ、私って、あなたの“好きなタイプ”に入る?」
「……考えたことない。」
「つまんな~い。」
彼女は顔をそむける。口元には、わずかな満足。
――相手の心拍を乱せた、という手応え。
横の席で、万依琳はずっと聞いていた。
ペン先はいつの間にか、三十秒も止まっている。
「私って、あなたの好きなタイプ?」
その一言が、細い針のように胸へ刺さる。
彼女は視線を落として書き始める――が、手が震える。
(何に、傷ついてるの、私。)
孫静沢は誰にでも公平で、安易に軽いことを言う人じゃない。
それは分かっている。
でも、あの含み笑いの調子で問われると、胸の底がざわつく。
(……気づいてないの、彼。)
ため息。すぐに、そんな自分が可笑しくもなる。
(何を気にしてるの、私。)
それでも、薄い水彩のにじみみたいに、気持ちは広がっていった。
前の席の李方苒も、話を聞いていた。
(……鈍すぎ。)
陳雅桐の声色は、誰にでも分かる“からかい+ほのめかし”。
少しやりすぎで、見ているこちらが気まずい。
それでも孫静沢は、いつも通り真面目に返す。
やがて、ざわめきが細り、先生が入室。
皆が席へ戻る。
陳雅桐はペンを弄び、口元にまだ薄い笑み。
万依琳は問題集を開き直す――けれど、文字が頭に入ってこなかった。




