午後の数学
午後一時半。
教室の空気はむっとして粘り気があり、扇風機はゆっくりと回るだけ――まるで眠気をあやすみたいに。
カーテンの隙間から差した陽が黒板の縁に落ち、光の中でチョークの粉が漂う。昼食後特有のけだるさが満ちていた。
数学の先生が教壇に上がる。
「ほら、気合入れて。今日は新しい単元、連立一次方程式だ。」
座席の間から、小さなため息が広がった。
――この授業は、踏ん張って聞くしかない。誰もがそう分かっていた。
李方苒は、食後の授業にいちばん弱いタイプだ。
頬杖をつき、視線は黒板とノートのあいだをふらふら。
“x”“y”“b”“k”が目の前でぐるぐる回って、催眠の記号みたいに見える。
趙翰文は、彼女のペンがずっと止まっているのに気づいた。
ノートのページは真っ白のまま。
反射的に、彼は手を上げかけた。
――同じ机の相手の背中を、軽く「今ここ大事」と叩く、あの合図。
手は半分まで上がって、そこで止まる。
(俺たち、そこまでの距離じゃないかも。)
知らない仲ではない。けれど、気安く触れていい間柄とも言い切れない。
驚かせたらどうしよう。
「見られてた」と気づいた彼女が気まずくならないだろうか。
それに、出しゃばりだと思われたくない――。
彼は手を引っ込め、キャップをひねるふりをした。
でも、このままじゃ彼女はまた放課後、ひとりで長いこと宿題を唸ることになるだろう。
ふと、二人の机の“境目”に目がいった。
並べたはずの机は、真ん中に小さな隙間。脚もわずかにずれて、前縁が半指ほど段違い。
支障はないけれど、きれいではない。
(……これだ。)
彼は自分の机の縁に手をかけ、ゆっくりと力を入れて、彼女側へすっと寄せた。
二つの机の前縁がぴたりと揃う。
木が擦れる、小さな音。
李方苒が顔を上げ、きょとんと彼を見る。
趙翰文は声を落として言った。
「机、ちょっとずれてたから。そろえただけ。」
「……うん。ありがとう。」
かすれるような小さな返事。
「うん。」
彼は何気ないふりで前を向く。心の中は少し熱くなって、先生の声はほとんど耳に入らなかった。
一方の李方苒は、そのささやかな動きでいきなり目が覚めた。
二の腕をつねって、意識を教室へ引き戻す。
別の列では、陳雅桐が机に頬をのせ、気だるげな目つき。
「ちょっと寝るね。後で起こして。」
同じ机の孫静沢は、問題を書き写しながら顔も上げない。
「今日、新しい単元だぞ。寝るな。」
「じゃあ教えてよ~」
茶目っ気と半分の甘えを混ぜた声。そう言いながら、彼女は横向きに寝るふりをした。
数分後、孫静沢は横目でちらり。
陳雅桐は目を開けたまま、口角だけで笑っている。
「だまされた。寝ないって。」
「……お前な。」
彼は苦笑する。
「じゃ、真面目に聞け。」
彼女は小さく得意げに笑い、少しだけ姿勢を正した。
後列の杜景晨は、ノートの端に線をいくつか走らせながら、前を見ている“ふり”。
実のところ、授業は頭に入っていない。
彼の席からは、万依琳の背中がよく見える。
背筋を伸ばし、きれいな字でノートをとる――無駄のない動き。
昨日の黒板新聞を思い返す。
チョークを渡してくれた手元、
「字、きれいだね」と笑った横顔。
(休み時間、少し話しかけようかな。宿題のことでもいい。いや、でも急に行ったら“狙ってる”みたいに見えるか……。)
その“意図”を見透かされるのが怖い。
(じゃあ――別の口実で。)
たとえば、孫静沢に問題を“教える”ふりをして、その様子を彼女が目にする……。
想像しただけで、胸の奥が少し熱くなる。
チャイムが鳴った。
教室の空気がほどける。
机に伏せて眠る者、本を開いておしゃべりする者。
杜景晨は孫静沢の方へ本を持って歩く。
「さっきの問題、分かった?」
「どれ?」
「最後のページのやつ。」
答えを待たず、彼はページの余白に手早く式を書き始めた。
「先生の手順は多いけど、実際は簡単。こうやって直接消去すればいい。」
「ほんとだ、そっちの方が早い。」
孫静沢が素直に感心する。
杜景晨は口元を少し上げ、得意めに言った。
「こんなの序の口。夏休み、二年の範囲まで予習したし。面白いのは二次関数とか、幾何の難問だよ。」
「二次関数まで?」
「もちろん。」
声をほんの少し大きくして、
万依琳の方へ、ちらり。
……彼女はノートに何かを書き込んでいて、こっちを見ていない。
胸の奥が、わずかに沈む。
それでも続けた。
「式の導出とかも見た。今のよりずっと難しいやつ。」
そのとき。
「二次関数?」という言葉に、趙翰文が顔を上げる。
「昨日、中考(高校入試相当)の模擬問題で、最後の空欄が二次関数だった。詰まっててさ。見てくれる?」
李方苒が思わず彼を見る。
「もう入試の問題やってるの?」
隠せない尊敬と驚きが滲む声。
趙翰文は気恥ずかしそうに笑った。
「いや、数学だけ先にやってる。他は全然。」
「すごい……。」
彼女の目が少し明るくなる。
その表情に、彼の胸が小さく跳ねた。
「数学、結構楽しいよ。」と、彼は小声で付け足す。
杜景晨は、まさか趙翰文に頼られるとは思っていなかった。
問題用紙を受け取り、視線を落とす。
――式がびっしり。頭が一瞬、真っ白になる。
本当は、定義を少しかじった程度。
“二次関数”という響きも、まだ新しい。
でも、今さら退けない。
三人の視線が集まっている。
ましてや、前方には万依琳。
彼女が振り向かなくても、“見られている”気がしてしまう。
「ええと……」
咳払いひとつ。
「これは、ちょっと複雑で。開口の向きとか、頂点の形とか……式の変形とかも見ないと。」
「なるほど……。」
趙翰文は真面目に聞く。
「焦らなくていい。授業でちゃんとやってからでも遅くない。」
そう言って、さらりとペンを置く。
「そろそろチャイム鳴るな。」
「ありがとう。」
趙翰文がうなずく。
席へ戻った杜景晨の心拍は、まだ速い。
さっき口にした“専門用語”が、自分でも嘘っぽく聞こえた。危うく自分で信じるところだった。
そっと万依琳の方を見る。
彼女は前の席の女子と小声で話していて、こちらへの反応はない。
(気づかれていない……。)
見破られなかった安堵と、誰に向けていたのか分からない“演技”の空虚さ。
ちぐはぐな感覚が胸に残る。
(彼女、最初から俺を見てなかった。)
小さく、心の中でつぶやく。
趙翰文は、問題用紙をもう一度見つめた。
――彼には分かっていた。
杜景晨が、言葉ほどには分かっていないことを。
それでも、彼は指摘しない。
ほんのり笑って、しまい込む。
同じ年頃の男子なら誰だって、
少しは“賢く見られたい”。
尊敬されたい。
――それは、悪いことじゃない。




