黒板アート
午後の陽ざしがブラインドの隙間から斜めに差し込み、
教壇の上にいくつもの明るい筋を描いていた。
教室にはチョークの粉の匂いと、
床を拭いたばかりの湿った空気が漂っている。
担任が教室を出る前に、淡々と告げた。
「今月末までに黒板アートを出します。クラス委員、よろしくね。」
言い残すと、彼女は足早に去っていった。
孫静沢はチョークを手に取り、
教壇に立って声をかけた。
「黒板アートを作ることになったんだけど、
手伝ってくれる人いない?
文字でも絵でも、どっちでもいい。」
彼は教室を見回す。
けれど誰も動かない。
机に向かって宿題を続ける者、聞こえないふりをする者。
空気が、一瞬だけ止まった。
「字の練習にもなるよ?」
そう付け足しても、反応はない。
苦笑が浮かんだまま、
少し困ったような沈黙が流れた。
四列目の万依琳は顔を上げた。
彼の小さな焦りが見えたからだ。
彼女はいつも、誰かが困っている場面を見過ごせない。
「やります!」
明るい声が、静寂を破った。
その瞬間、孫静沢は明らかにほっとして笑った。
「助かる!ありがとう。」
彼は黒板に彼女の名前を書き込んだ。
李方苒は黙って宿題を続けながら、
二人のやり取りを聞いていた。
彼女は絵を描くのが好きだった。
黒板アート――その響きに、ほんの少し胸が弾んだ。
枠を描いたり、飾りを付けたり、
そういう細かい作業が昔から好きだった。
けれど同時に、迷いが胸に広がる。
「自分から言ったら、目立ちすぎるかも。」
そんな不安が、いつも先に出てくる。
彼女はペンでノートをトントンと叩いた。
だが、万依琳の「やります!」という声を聞いた瞬間、
その迷いがふっと薄れた。
――知っている人がいるなら、大丈夫。
休み時間の終わり、彼女はそっと後ろを振り向いた。
「黒板アート、私もやってみたい……いい?」
孫静沢は嬉しそうに笑った。
「もちろん!」
後ろの席で、杜景晨はノートの端に落書きをしていた。
その会話は聞こえていた。
興味なんてなかった。
けれど、“万依琳”という名前が出た瞬間、
ペンの動きが止まった。
(……彼女がやるなら、悪くないかも。)
そう思っても、手を挙げるのは気恥ずかしい。
自分の気持ちを悟られるのが怖かった。
昼休み、食堂のテーブルで向かい合う二人。
光がトレーの銀色に反射して眩しい。
「黒板アート、もう人集まった?」
杜景晨が何気なく聞く。
「まだ二人だけ。」
「ふうん。」
箸でご飯をつつきながら、間を置いて言う。
「……まだ足りないだろ?」
「そりゃそうだ。」
孫静沢の目が輝く。
「お前、来てくれるの?」
「俺?やめとく。」
「でも字、上手いじゃん。書道やってたって言ってたろ?」
「昔ちょっとだけ。」
「決まりだな。」
「……はぁ。お前に言われたら断れねぇな。」
口では渋々、心の中では少し嬉しい。
――“自然に誘われて”参加できた。
その形が、都合よかった。
放課後の教室には、三人だけが残った。
窓の外の光は柔らかく、
黒板にはまだ水拭きの跡が薄く光っている。
「テーマは“金秋迎新”だって。」
万依琳が言いながらチョークを取る。
「方苒、絵うまいよね。枠と飾りお願いできる?」
「うん。」
李方苒はチョークを持ち、慎重に線を引いた。
柔らかく、丁寧で、静かな線。
「きれい!」
万依琳が笑う。
李方苒も小さく笑った。
その笑みは照れくさく、でも少し誇らしげだった。
杜景晨は二人のやり取りを黙って見ていた。
話しかけたいけれど、うまく入れない。
「杜くん、字うまいでしょ?」
不意に万依琳が言った。
「え?俺?」
「そう。学校の手書き新聞、あなたが書いてたよね?先生も褒めてた。」
彼は驚いた。――見ていたんだ。
「覚えてたんだ?」
「もちろん。字、すごくきれいだった。」
「……まあ、少し練習しただけ。」
照れ隠しのように言って、
「じゃあ、タイトルと本文、俺が書く?」
「お願い!」
チョークを受け取る手が、少し震えた。
下手に書きたくない。けれど、力みたくもない。
ゆっくりと書き始める。
線が伸び、文字が形を成す。
「わぁ、整ってる!」
「まあまあ。」
彼は軽く言いながらも、
胸の奥がふわりと熱くなった。
――彼女が俺を見ている。
三人は黒板の前で黙々と作業を続けた。
粉の匂いが漂い、白い粒子が光の中で舞う。
李方苒はイラストを描き、
万依琳はレイアウトを書き込み、
杜景晨は文字を整える。
「ねぇ、知ってる?」万依琳が話し出した。
「隣のクラスの男子、授業中に小説書いてて、
数学の先生に没収されたんだって。」
「マジで?」
杜景晨が笑う。
「今度俺も書こうかな。」
「何を?」
「……宿題。」
三人とも吹き出した。
静かな教室に、笑い声が反響する。
空が暗くなり始めたころ、
黒板アートは完成した。
粉だらけの黒板、白くなった指先。
「いい感じ。」
李方苒が少し後ろに下がって、
自分の描いた絵を見つめた。
その声には、小さな誇りが混じっていた。
「うん、完璧。」
万依琳が笑う。
「三人、けっこういいチームじゃん。」
「まあな。」杜景晨は教壇にもたれて言った。
口ではそっけなく、
けれど口元がわずかに緩んでいた。
夜。
杜景晨はベッドに横たわり、
頭の中にあの黒板の光景が浮かんだ。
――万依琳の笑顔。
――「字、きれいだね」と言った声。
寝返りを打っても、消えない。
彼は思った。
あの時、手を挙げて本当に良かった。
たぶん、あれはこの新学期でいちばんの“衝動”だった。




