〈第9話〉断罪イベント4日前ー遅すぎた祝福ー
木目ばりの床に反射したカラフルなステンドグラス。滲んだそれをぼんやりと見ながら、ひたすらに祈りを捧げる。
私は宗教など信じていないがーーー今だけは、神に縋りたい気分だった。
どうか、この世界で推しを幸せにできますように。その明るい未来を、見届けることができますようにと。
ゆっくりと瞼をあけ、立ち上がる。
「おやおや、珍しいお客様ですね」
背後から聞こえる柔らかな声。振り返った先には、穏やかな表情の老神父がいた。
私にとっては初めて見る相手だが、リリアにとっては馴染みの人物なのだろう。
「神父様、お久しぶりです」
貴族らしい綺麗な礼をするミカ。私も慌てて腰を折る。
「礼拝ですか。最後に2人で来たのは……もう、10年以上前でしょうか」
遠くに想いを馳せるように、ロザリオを撫でる神父様。その姿はどことなく哀愁が漂っていた。
「……リリアさん。その傷は一体どうしたのですか?」
神父様の声が、わずかに固くなる。
うわー、聞いちゃうかぁ……。そりゃそうだよね、頭に包帯巻いてたら誰だって気がつくよ。ターバン巻く文化圏ぐらいだよ聞かれないの。
「えぇと……それが、私にもわからなくて。飛び降りたらしいのですが、記憶がないんです。なので、調査中と言いますか……」
神父様は一瞬言葉を失ってから、目を伏せて眼鏡のフレームをなおす。それはまるで、自らを落ち着かせるための儀式のようだった。
「なるほど……。聖女様と殿下が懇意にされているという話、この教会にまで届いています。貴女のことが気がかりだったのですが、まさかこのようなことになっているとは……」
眼鏡の奥の瞳が細められる。
「私に答えられることならば、なんでも聞いてください。迷える子羊を導くのが私の務めです」
その声が、じんわりと心に染み込んだ。全て包み込むようなその態度に、既視感と安心感を覚える。もしかしたら、リリアの記憶がそうさせるのかもしれない。
「ありがとうございます、神父様。……元々殿下とは仲の良い婚約者だったと聞きました。それが、15歳のある日を境に疎遠になったとも……その時のことを、聞きたいのです」
神父様はそれを聞いて、困ったように微笑んだ。
「あの時のリリアさんのことは、今でも鮮明に思い出せます。……見たことがない沈んだ顔で、連日必死に祈りを捧げていましたから。少しでも楽になればと声をかけましたが、貴女は微笑んで何も話してはくれませんでした」
神父様は記憶を少しずつ掬い上げるように話し続ける。
「ある日、リリアさんは殿下と2人で教会を尋ねてきました。前方で私が祈りを捧げている時にある会話が聞こえていたのです。盗み聞きのようで気が引けましたが、リリアさんのことが心配で……つい、魔が差しました。聖職者であるというのに、情けない話です」
神父様は自嘲気味に笑った。
見守ってきた子供がそんなふうに急変したら、誰だってそうなる。むしろ、慈悲の心がそうさせるのは当然と言えるだろう。
「リリアさんは殿下に尋ねました。『もし、私が危険な目にあったら……殿下は、私を守ってくださいますか?』と」
背筋にぞくりと電流が走る。まるで禁域に足を踏み入れたような、そんな感覚だった。
「どこまでも真剣で、怯え震えた声が、今でも耳から離れません。しかしそれに対して、殿下はこう答えたんです」
これ以上、進んではいけない。聞いては、いけない。
そんな声が、聞こえた気がした。
「『お前が僕を好きなままだったら、考えてやってもいい』と」
沈黙が、その場を支配する。
脳内が自分以外の何かに支配されたような、奇妙な感覚だった。胸のなかから溢れるこの悲しみは、一体誰のものなんだろう。
「祈りの最中にも関わらず、私は振り向いてしまいました。見えたのは、失望した顔で殿下を見るリリアさんと、何食わぬ顔で前を見続ける殿下。……その時からです。リリアさんが、殿下と明らかに距離を取り始めたのは」
静寂を打ち破り、神父様は最後の言葉を言い切った。苦々しいその顔をみると、胸が痛んだ。
神父様にさえ言えなかった、リリアの祈りや葛藤。デービットはそれを一瞥もせずに切り捨てたというのか。
思春期の幼なさ故の失態というには、あまりにも残酷で。
空いた口が塞がらず、入り込む空気のせいか喉が渇いて仕方がなかった。
「あいつ……そんなことを……」
隣から聞こえた、地を這うような恐ろしい声。
視線が自然と声の主に引きつけられた。
強く噛まれ、血が滲んだ唇。耳に残る、ぎりりと奥歯が軋む音。視線を下ろすと、爪が食い込んで白く変色した手が見えた。
「み、ミカ……?」
先程とは比べ物にならない剥き出しの激情。私はただ、震える声でミカの名前を呼ぶことしかできなかった。それは怒りか、はたまた恐怖か。自分でもわからなかった。
「俺が、どんな気持ちであいつを諦めたと思ってんだ……リリアを、あいつを……!」
強くなる語気、震える拳。
痛いほどに滲む、リリアへの想い。
「守れもしねぇくせに……何が婚約者だ!!!」
その想いを全て出し切るようなミカの声が、静かな教会に響き渡る。しかし、それを咎めるものは、否、咎められるものは1人もいなかった。
肩で息をするミカ。充血した結膜が、エメラルドの瞳を彩っていた。
何度目かわからぬ沈黙。心なしか、空気が先ほどより熱く感じられた。
「……もしも、リリアさんの隣にいたのが貴方だとしたら……リリアさんが身につけていたのは、包帯ではなくベールだったかもしれませんね」
静かに語る神父様の声が、熱を静かに冷ましていく。
「その後の婚約取り下げ騒動で、殿下は酷く取り乱されたと伺っております。もしかしたら今でも……殿下は、リリアさんに何かしら思うところがあるのかもしれません」
伏せられた目が何を意味しているのか、私にはわからない。しかし、胸の中をかき乱されるような、嫌な予感がした。
「聖女様の件もあります。どうか、ご無理をなさらずに」
私を一瞥した神父様は、視線を隣のミカへと移す。
「ーーー貴女に手を差し伸べてくれる方との未来に、女神様の祝福があらんことを」
その声に、ミカは目を丸くする。白くなった拳が、わずかに血色を取り戻した。
私はその手をそっと取る。
ミカは僅かに瞳を揺らしてから、優しく私の手を握り返した。
その感触を確かめてから、私は神父様をまっすぐに見据えた。唇が、微かに弧を描く。
「私はもう、1人で絶望に打ちひしがれる子供ではありません。自らの手で、未来を切り開いて見せましょう」
胸の中で渦巻く暗雲は晴れない。だがしかし指先を包む温もりは、雲間から差し込む一筋の陽光のように私の心を照らしていた。
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