第1話:辺境医女、捕らえられる
(鴨の脂の匂いがする……)
そう思ったときには、視界がぐらりと傾き、足がもつれていた。
「お嬢さん、しっかり!」
誰かの声。耳に響くほどの近さだというのに、やけに遠く感じられた。
視界の端で揺れていたのは、夜市の赤い燈籠。それが、上下さかさまになったところで、白蓮ユエは意識を手放した。
「目が覚めたかね。なに、殺しはせんよ」
硬い木の寝台。湿り気のある部屋。
仄暗い光が差す格子窓の向こう、カラスの鳴く声。
(また、これか)
ユエはわずかに眉をひそめた。
三年ぶり、四度目の拉致監禁である。
「どこの誰だか知らぬが、せめて診療器具だけは返してほしいものだわ」
「これはまた……気丈なお嬢さんだ。自分がどこにいるか、わかっているのかね?」
「さあ。山ひとつ越えたくらいの距離かしら。空気が乾いている。土の匂いも違う」
男は「ふっ」と鼻を鳴らした。
老いた宦官──だろう。声に艶がなく、足音も重みを欠いていた。視線が一段低いのは、去勢後に骨格が変わったせいだ。
「貴女には、帝都でひとつ、大役を担ってもらう」
「断るわ。診療院を閉めるつもりはないの。山奥の患者が泣くわ」
「では──こう言い直そう。帝妃が毒で亡くなった。その診断を、貴女に頼みたい」
その瞬間、ユエは薄く笑った。
「毒、ね。呪いだとか言い出すつもりなら、私はただの山女でいい」
「……やはり、貴女を呼んだのは正解だった」
そう言って宦官は笑った。が、目元は少しも笑っていなかった。
馬車に揺られた二日後、ユエは帝都にいた。
高く聳える城門、花街すら飲み込む朱の塀。
──宮廷。
生まれてこのかた、避けてきた場所だった。
しかし、命じられれば行かねばならぬ。それが、辺境医女の宿命であるらしい。
案内されたのは、誰もいない静かな庭。
小さな離れの建物で、薄墨色の衣を着た女官が待っていた。
「白蓮ユエさま。おつかれさまです。さっそくですが、こちらに──」
案内された部屋には、横たわる女の亡骸。
(……この匂い)
腐敗の匂いではない。血や薬の匂いでもない。
(臓が、内側から焼けている)
ユエはかがみこみ、そっと亡骸の唇を開いた。
口腔内に、黄変した舌。喉奥には斑点。
「金属か、あるいは植物系。これは……」
指先で唇の裏をなぞる。ぬるりとした粘液。──これは、胆液の逆流。
「間違いない。これは“精製された毒”よ」
「……呪いでは、ないのですか?」
おそるおそる問う女官に、ユエは冷静に告げた。
「呪いで肝臓は壊れないわ。毒よ。しかも、相当手が込んでいる」
目を細め、遺体の手元に残された酒盃を見る。
中身は空。が、底にうっすらと残った銀粉のような光。
「銀盃の底……これ、錯化剤を含ませている」
女官はぽかんと口を開ける。
「錯化剤、ですか?」
「飲み物に溶け込んだ毒素を、一時的に“無毒化”するための細工よ。……つまり、この酒は、呑んでる最中は毒じゃなかった」
「……っ、それじゃあ──!」
「数刻後、錯化が解けて毒素が発動。肝臓を溶かした。呪いじゃない、これは“計算された死”」
ユエは冷たい目で言い放った。
「犯人は、この盃を用意し、錯化剤を仕込める知識を持ち、酒を差し出す立場にいた者」
「では……それは、誰……?」
「それを探るのが、私の役目でしょう」
ユエはそう言って立ち上がった。
──この“毒”は誰が作ったのか。なぜ“今”だったのか。
情報を囲碁のように一つずつ並べ、盤面を読み切る。
「命を診る。それが医者の仕事だから」
彼女の目に、火が灯った。
──数日後。王宮では再び、死が起きる。
だがそれは、犯人が綻びを見せた瞬間でもあった。
すみません。2話のデータが破損してしまったので、一度完結済みにして、明日以降2話の執筆が終わり次第、更新していきます。




