海陵王と鉄の流通
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
金代の歴史を見るのに『金史』だけで十分と見る向きもありますが、『大金国志』には『金史』には無い独自の記事があります。
次に挙げる記事がそれです。
西夏の故虚馬鎮と韃靼の沿辺招討に、両国の交易所の監督官を置いた。
交易所は雲中の西北の過腰帯の上の石楞坡と、天徳・雲内・銀甕口の数ケ所にあった。
契丹の時代にも交易所は置かれていたが、鉄の輸出だけは厳重に禁止し、鉄製品を持ったまま交易をすることも禁じていた。金の時代になり、ただ利益のみを見て、鉄の禁制を緩めた。
また宋の時代には河東では錫を混ぜた鉄銭を用いていた。領土画定で河東が金のものとなると、鉄銭は用いず、全て官が回収した。官では鉄銭二貫五百銭ごとに一本の鉄棹に作り替え、一本を銅銭五百五十で民間に払い下げた。
北の地では鉄は貴重で、民間では火山軍・武州・八館の天徳・雲内で買い、北方に持ち運んだが、このころ河東の鉄銭はほとんど無くなった。劉予が廃されて以来、陝西に至るまでの地域に有った鉄銭もまた北方に流出した。北方ではこれを得ると、その多くが武器となった。鉄を用いて堅固な武器と防具が広く行き渡るようになって、ようやく鉄の禁制が緩められたのである。
これは即位してすぐに行った政策でこれで、海陵王は即位当初から、大まかな方針だけでなく具体的に何を実行すべきかの構想を持っていたことが窺われます。