春が来る
物哀しいが、妙に暖かみのある烏の声が木霊した。いかにも夕暮れにこそ似つかわしい響き。カァ カァ ではなく、アァ アァ と聞こえて来る。ちょっと手前で、アァ アァ と一羽が鳴くと、少し向こうで、アァ アァ と別の一羽が応じている。二羽の烏が鳴きかわしている、その真中の黒々とした山の端で、まぁるい太陽が、黙って静かにとろ火のように燃えている。
夕方ぶらぶらと歩いていると、そろそろ薄暗くなってきたものだから、周りでちかちかと灯りがともり始める。住宅の窓やお店の看板や街灯や自動車、色々なところで灯りがともり始める。そういった街の光、生活の光、大変良い。僕が今歩いているどこまでも真直ぐな道に沿って、向こうの方までそういった点滅がちらちらしている。嬉しい。僕は際限もなく穏やかな気分になってくる。あそこへ行きたい。あそこまで行きたい。でもあそこって何処だろう。
そんな風なことを思いながらふらふらと漂っていると、丸みを帯びた各種のネオンの光で織りなされた街の夜景がゆらりゆらりと踊り始め、さまよえる蜃気楼とでもいった風情で次第々々にその形状を崩して行き、仕舞いには川面に映って揺れ動いている光の群れのようになってしまうのだ。
夜の時間、暗闇の中に何かいろいろなものが潜んでいるように感じられるそういう時間、何がいるんだろう。この気配は何なのだろう。思わず息をひそめて耳を澄まし、見つけ出してやろうという気になる。幾本もの感覚の触手をするすると伸ばし、あちらこちらを探って行くが、やっぱり何も見つけられない。
真夜中、遠くの方で微かに列車の音、レールの上を走るコトンコトンという音、ポーという警笛の音、遠い音、遠ざかって行く音、僕は以前からこの音にこだわって来た、ずっと。自動車の音、タイヤが路面をこするギュルルという音、車体が風を切るシューンという音、遠い音、遠ざかって行く音、僕は以前からこの音にこだわって来た、ずっと―――何故なのかな。何がそんなに僕を魅了するのかしら。走って行く音だから?どこかへ行くであろう音だから?だとしたら一体どこへ行くんだろう。
よどんだ夜空、湿ってしまった星の光(そういえば夕日も水っぽかったっけ)月も手振れの写真みたいに霞んでいる。雲よ、雲よ、白くたなびいてはいるがこいつも黒い空間にべったりと貼り付いてしまっているような体たらく、何事なんだろう、これは―――春が来たのだよ。
暖かくなってきて、今日も雨が降った。裸の木の枝もむき出しの地面も、ちらちらと芽吹いて来た。虫達の姿が目につくようになり、スズメのさえずりで、朝目が覚めるようになった。とりわけ桜の樹、沢山の小さな蕾が広がって遠目にこれがうっすらと色付いてきていて花見も間近い―――春だ、春だ、もう春だ。
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今日の朝、空中を飛び回っていた一匹の羽虫が僕の目の中で溺死した。