SEQ0――プロローグ――
SEQ0――プロローグ――
窓から差し込む、柔らかな朝の日差し……ん? 俺、寝室のカーテン開けてたか?
寝ボケたまま目も開かずにいると、誰かに体を揺すられた。
「けーちゃん、もう朝だよ……もう! けーちゃんってば!」
俺――花村景介の事をそんな風に呼ぶのは、3人しかいない。
1人は、婆ちゃん。もう1人は、俺が中学に上がる前に死んでしまった母さん。
残る最後の1人は――
「おはよう、陽子」
「うん! おはよう、けーちゃん」
睫毛の長い目を細め、にっこりと笑みを浮かべた黒髪の女の子。幼なじみの稲田陽子だ。
黒いブレザーに、黒いスカートという制服姿。それも一切着崩してない。一目でわかる優等生だ。
「春眠暁を覚えず。もう少し寝かせてくれ」
時計は6時30分を指している。いつもより早い起床だ。
「早起きは三文の徳、だよ」
陽子が膝を曲げて、こちらを覗き込んだ。彼女の髪は、ツヤツヤとしていて腰まで届く。その毛先が、頬をくすぐってくる。
「じゃあ、その分払うから……」
「朝ごはん作っちゃってるの! 冷めちゃうから、おーきーてー」
陽子が堪りかねた様子で、俺を布団から引きずり出そうとする。仕方ないので、自ら布団をめくってベッドから降りる。
「やっと起きた」
「……朝は弱いんだ」
「知ってるよー」
「明日から授業なんだから、今日ぐらい寝かせてくれよ……」
文句を言いつつ、身を起こす。
なんだか、ふわふわと思考がまとまらない。まだ寝ボケているようだ。
「わっ……ひどい寝汗。シャワー浴びる?」
陽子はわざわざ身を屈め、上目遣いで不安そうに覗いてくる。
「先に朝飯をもらうよ。待たせたみたいだし」
「わたしはもう済ませたから、気にしなくていいよ?」
そうは言いつつ、料理を冷ましたくなかったらしい。その顔がぱっと明るくなった。
というか、女子が部屋にいる状態でシャワー浴びるとか……できないだろ。
俺が住んでいるマンションの部屋は狭い。階数が高くなると広い部屋があるそうだが、当然のように家賃が高くなる。学生の俺が借りられるのは、安くて狭い部屋なのだ。
それゆえに、リビングとダイニングの境目なんて存在しない。今いる場所は、一まとめにしてリビングと呼ぶのが正解だろう。
食事を摂るのは決まって、そのリビングに設置されたダイニングテーブルだ。
見れば、テーブルには、トースト、スクランブルエッグとサラダ、そして牛乳が置いてあった。
「けーちゃん、朝はあんまり食べてくれないから……少なめにしたの」
「ありがとう。ちょうどいい量だよ」
これは本音だ。朝はどうしても、食事がめんどくさく感じてしまう。
「食べて、食べて」
そう急かされたので、トーストにバターを塗って齧る。サクッと香ばしいが、焼きすぎてない。まあ、よっぽどヘマをしなければ、トーストを作るのに失敗はしないだろう。
本命は、スクランブルエッグだ。
陽子の作るスクランブルエッグは絶品。一流ホテルのシェフも顔負けの、ふわとろ食感である。これをシンプルにケチャップで食べる。トーストに乗せても美味い。
「どう? 上手にできてる?」
対面に座る陽子が、若干身を乗り出して訊く。
「相変わらず、美味しいよ」
「ホント? 良かったー」
ホッと胸を撫で下ろした様子だが、そんなに心配しなくていいだろうに。
「けーちゃん」
「ん?」
もそもそと朝食を堪能していると、申し訳なさそうに陽子が切り出した。
「生徒会のお仕事があって……少し早く学校に行かなきゃならないの」
「じゃあ、もう出た方がいいなじゃないか?」
俺と陽子は同じ学校に在籍しているが、ここで「また後で」とはならない。
その理由は、俺たちの通う研宮学園にある。校舎を2つ所有していて、コースによって通う場所が違うのだ。
俺は新木場にある第二学舎、陽子は目黒にある第一学舎に通っている。だから普段、学校で会う事はない。通学路も別だ。俺は自転車だが、陽子は車で送り迎えしてもらっている。
「けーちゃんも遅れないでね。のんびりしてたら遅刻しちゃうよ」
「分かってるよ」
ちょうど朝食を食べ終わったので、食器を流しに持っていき、そのままの流れで陽子を玄関まで送る。
しかし、陽子は靴を履いただけでドアを開けようとはしない。
「どうした?」
「だって、けーちゃんと久しぶりに会えたのに……」
陽子は春休み中、京都にある祖父母の家に滞在していた。だから、『久しぶり』なのだ。
「そ、それじゃあ、放課後に遊ぼうよ。今日は午前で学校も終わるし……」
「……いいよ」
「やった」
テンションが上がった様子の陽子が、急に抱きついてきた。
陽子の身長はおよそ160㎝ちょっと。170㎝の俺と抱き合うと、彼女の横髪に鼻が埋まる。サボンの香りに混じって、どこかサクランボを思わせる甘いニオイが鼻腔をくすぐった。
問題はニオイだけじゃない。ブレザーのせいで分かりにくいが、陽子の胸は――とても大きい。具体的な数値は不明だが、なかなか見かけないレベルだ。
人肌の柔らかさの前にある制服と下着の硬さが、逆に生々しさを増大させている――って、そんな冷静に分析してる場合か! こちとら、健康な高校生男子。女子と抱き合ってなんていたら……
「陽子、もういいか?」
そっと陽子の肩を押して、体を離す。
幼なじみゆえだろうか。陽子は時々、小さい頃と同じ距離感で接してくる。困ったものだ。だが、信頼の証だと思えば嬉しさもある。
「……イヤだった?」
「そうじゃないが、本当に遅刻しちまうぞ」
俺がそう言うと、陽子は左手につけた腕時計を確認した。ピンクゴールドのそれは、社長をしている陽子の親が買っただけに高級なのは確かだろう。
稲田インダストリー。稲田家の分家が建てた国産軍事会社。今は、陽子の父親が二代目の社長をしている。そう、陽子は社長令嬢なのだ。
俺みたいな男が、なぜお嬢様の陽子と幼なじみなのか。その理由は簡単。親戚ぐるみで繋がりがあったからである。
「とにかく、また連絡するから。待ち合わせ場所は、後で決めようぜ」
「うん」
「じゃあ、気を付けて」
「けーちゃんもね。最近、この辺りも物騒だし……けーちゃんの不調も治ってないし……」
再び顔を伏せてしまった陽子を急かすと、ようやくドアの外に出た。
陽子の不安そうな様子を見ていると、こっちまで不安になってきた。
陽子が、少し古いモデルの黒いトヨタ・センチュリーに乗るのを、外廊下から見届けて部屋に戻る。
陽子の去った部屋は、どこか淋しい。静けさを消すように、テレビのリモコンを手に取る。
小さなソファーとローテーブルの前に設置されたテレビに向かって電源ボタンを押すと、画面の向こうでは、女性アナウンサーがよく通る声で原稿を読み上げていた。
『昨日、刃物を持った男が東京駅前に現れた事件。現行犯逮捕した特武には、賞賛の声が上がっています』
特武。正式名称を『特別認定武装私人』といい、特武や武装人と略される。
特武は民間人という扱いを受けながらも、武装を許可された人間だ。さらには、一定範囲の捜査権と逮捕権すら持っている。
(ホント、物騒になったもんだぜ)
心の中で悪態をつく。海外と比べたらまだ治安がいいとはいえ、5年ぐらい前の日本はもっと安全だった。それこそ、特武に頼らなくてもいいほどに。
テレビを消して、シャワーを浴び、制服に着替える。
シンプルな黒色のズボン、胸ポケットにワッペンの付いたブレザー。ワッペン自体は、陽子のものにも付いている。だが、その色が違う。
第一学舎に通う者は深緑色、第二学舎に通う者は臙脂色だ。これはネクタイやリボンも同じ。うちの学校は、こうやって生徒を区別しているのだ。
加えて、校章が彫られた金色のバッジをブレザーの左襟の穴に付ける。通称『校章バッジ』。中等部との区別のために、高等部の生徒が付けさせられるバッジだ。研宮学園は中高一貫校なので、こういったモノも存在している。
寝室に戻った俺は、ベッド脇に設置してある鍵付きのキャビネットを開けた。
そこから取り出したのは、ベレッタ・Px4ストーム。自動拳銃だ。
ベレッタ社特有の上部を切り開いたデザインではないが、ポリマーフレームが採用されているから、軽くて丈夫で錆にも強い。グリップは使う人間の手に合わせたサイズに変更でき、銃弾も9㎜パラベラム弾なら18発まで装填できる。
俺は、コイツを『ストーム』って呼んでいる。本当はシリーズ名だが、こっちの方が呼びやすいからな。
そのマットブラックの銃を、ブレザーで隠したショルダーホルスターにしまう。
ストームの横に置いてあった折り畳みナイフも、ベルトに装着したナイフホルスターにしまった。
最後に、特武免許証を入れたカードケースを内ポケットに入れる。
携帯で確認すれば、まだ8時にもなってない。今から出れば、十分間に合う。
特に急ぎもせず、寝室を出て、リビングを通り過ぎ、玄関で靴を履く。
ふと、姿見に映る自分自身が目に入った。
無気力で、少し長めの前髪から覗く目つきには鋭さの欠片もない。
(どれもこれも、花村家が悪いんだ。戦ってばかりの花村家が)
古くから続く武門の一族。花村家はその1つだ。代々、武力で物事を解決してきた……血に塗れた歴史がある。
稲田家とは、その歴史のどこかで繋がりを持った。花村の人間が稲田の財を守り、稲田は花村を資金的に援助する。そうやって支え合ってきたのだ。
(結局、俺もその運命から逃れられない)
鏡に映る俺が、返り血に染まっているように見えた。
(バカバカしい……)
頭を振って、ドアノブに手を掛ける。あんなのは、ただの妄想に過ぎない
「行ってきます」
リビングまで聞こえるように言って、ドアノブを捻った。