新たな自分の門出に風を吹かせて~風鳥未果~(7)
7
時は小1時間前に遡る。
魔道良2207室第45グループのグループルーム、そのリーダーの席で雫が事務仕事に追われていた。
雫の斜め後ろの席では、上手がちらちらと雫を見ながら自分の仕事を続けている。
「新年度もまだ始まって2日目だっていうのに、どうしてこんなに忙しいのかしらねえ?」
「新年度が始まってまだ2日しか経っていないからこんなに忙しいのかと。」
「なるほど。」
「あとは、雫様が黙々と仕事をすればもう少し捗るのではないかと。」
「それはたしかに。」
「ということで、あと30分沈黙に耐えて頑張ってください。」
「はーい。」
雫が髪を耳に掛けて眼鏡を掛けなおす。
「ただいま。」
雫が仕事に取り掛かろうとした同じタイミングでスマスがグループルームに戻ってきた。
「おかえりなさい、スマス。」
雫が嬉しそうに仕事の手を止める。
それを見た上手が長い溜息をつく。
「ただいま雫。仕事かい?」
「ええ捗らない仕事をしているの。」
「昨日の午後からこちらの仕事に手が付けられないのは毎年大変そうだねえ。」
「それはお互い様でしょう。今専門学校の帰りじゃないの?」
「そうだよ、さっきまで研究室に缶詰めになってたんだ。」
「お疲れ様ね。明日からはお休みでしょ?」
「どうだろう?確かに教授としての仕事は少し減るけど、結局こっちの仕事がある程度溜まっているからねえ。それに少し時間を割きたい学生がいるんだ。」
「スマスが将来を見込む学生、ひいては魔道師ねえ。」
雫が面白そうな表情でスマスを見ている。
「なんだい?」
スマスは自分の席に座ってパソコンを開き、そこに上手がブラックコーヒーを持っていく。
「スマスが興味を持った魔道師さんなら私も会ってみたいなと思ってね。」
「それなら雫は昨日会ってるじゃないか。」
「そうなの?」
「あー会ってる、会ったうえに風魔法の使い方まで教えてる。」
雫がしばらく目をぱちぱちさせてあーっと頷いた。
「彼女ね、確か風鳥さん。」
「そう、世間って狭いよね。これは結果論だけど概ね僕が彼女の面倒を見ることになったんだ。すべては雫が彼女に風魔法のノウハウを感覚的にレクチャーしてくれていたおかげだね。」
「あら嫌だった?」
「そんなわけないさ。魔道適性が開花して間もない魔道師とお近づきになれただけじゃなく、魔道師の専門が風魔法に適性を示しているときた。こんな光栄なことはないね。」
「そうでしょう。でも私は彼女に風魔法を教えた自覚はなかったわよ。むしろあの1回でよく覚えたなあって驚きながらお話を聞いていたんだけど。」
「驚くのは僕の方だよ、てっきり意図的に教えたのかと思ってた。彼女曰く、雫のクレタ春風がとても印象深かったそうだよ。」
「そう、それは良かったわ。せっかく魔道適性を開花させて魔道師としての人生を歩もうとしている雛に出会ったんだもの。あれくらいの入学祝い送ることには何の躊躇いもないけれど、そこまで気に入ってくれるなんて嬉しいわ。それにあの魔法っていろいろ織り交ぜてるからそこから風魔法の使い方だけコピーできるなんてすごい素質だわ。そういえば今朝糸奈から話を聞いたんだけど、昨日スマスが糸奈のところに連れてきた新人魔道師って風鳥さんのこと?」
「他に誰がいると思うんだい?昨日僕は彼女のヒヤリングしかしてないよ。」
「そう。」
雫がいつの間にか再開していた仕事の手を止めてスマスに視線を向ける。
「将来が楽しみね。」
雫の視線に気づいたスマスが雫を見てウインクした。
「うん?」
「いやあ雫ならそう言ってくれるって信じてたんだ。良かったよ、これで少し交渉を有利に進められそうだ。」
「交渉?」
「そう。」
スマスが席から立ちあがって雫の前まで行く。
「雫、風鳥未果の学年担任として正式に申し込むよ。彼女の魔道技能向上個別クラスの担当になってもらいたい。」
雫がスマスの顔を凝視してしばらく固まっていた。
「そうね、私のクラスが風鳥さんにはいいわね。分かったわ。」
「ありがとう。ついでにさ、僕が魔道良に居る時、どこにいるかも把握してほしいから挨拶も兼ねて彼女をここに連れて来ようと思うんだけどいいかな?」
「もちろん構わないわ。となると明日かな?」
「彼女に先客がいなければそうなるね。」
「分かった。」
スマスがにっこり微笑んで扉の方へ歩いて行く。
「それならさっそく誘ってくるよ。この時間は7時間目の部活動見学に行ってるころだから頑張って探さないと。」
「行ってらっしゃーい。」
スマスが雫にひらひらと手を振ってその場を離れる。
「雫様。」
「分かっているわ。仕事の手を止めるなでしょ。」
「はい。」
「そうね、せっかく明日お客様がお見えになるのなら、時間に余裕を持たせておきたいし、ついでにグループルームの掃除もしておきたいしね。上手、お茶菓子の用意をよろしくね。」
「畏まりました。」
朝です。
昨日より2時間ほど遅い目覚ましで目を覚ましました。
今日は4月3日水曜日です。
昨日までのとっても濃い数日のせいでまだ体から疲れが取れていません。
もう少し寝たいところですが。
「いけない、今日はマルロート先生から魔道良に招待されている日だった。」
慌てて飛び起きてもう一度時間を確認する。良かった、寝坊はしていない。
約束の時間は10時だから、まだ2時間くらいある。
今日は何を着て行ったらいいんだろう?
朝ご飯はどうしよう?
買い物ってどこに行ったらいいんだろう?
目を覚ましたばっかりなのに気になることが止めどなく頭の中に湧いてきます。
「うん?」
聞き慣れた着信音でスマホに手を伸ばす。
充電残量100%になったスマホにはまだ見られない差出人からのメッセージが入っていた。
「ゆな?なんだろう?」
メッセージは小刻みに送られてくる。
「おはよう、もう起きてる?」
「今日お休みだよね?特に予定がないなら一緒に履修登録済ませようよ。」
驚くほどのナイスタイミングです。
「おはよう。今起きたところだったよ。履修登録一緒にやりたいな。今日は10時に魔道良に行く約束があるんだけど、それ以外の時間ならいつでも会えるよー。」
返事はすぐ返ってくる。
「未果は結構朝弱いの?」
「どうだろう?昨日みたいに起きないといけない時は起きれるけど・・・。」
「まあみんなそんなもんだよね。魔道良には何の用事?」
別に隠しておく必要はないだろう。
「マルロート先生が魔道良に誘ってくれてて。」
「そっか。いい経験になると思うよ。10時に待ち合わせてるんだね?じゃあ終わったくらいにまた連絡する。」
「ありがとう、私も終わったら連絡するね。」
良かった、たまたまだけどこれで履修登録はどうにかなりそうです。
オリエンテーションの中で一番わけが分からなかったから一人でするのは心細かったしゆなには頭が上がらなさそうです。
朝食には結局昨日買っていた菓子パンを食べた。
早く近くのスーパーの場所を覚えないと生活費が持ちません。
魔道良に行くということで一応スーツを着て東棟の1階に来ました。
エントランスはものすごく広くて天井も高い。
言われた通り空いているソファーを見つけてそこに座ります。
入り口からはたくさんの人が出たり入ったりを繰り返している。
服装はばらばらだ。
「風鳥さん、待たせたかな?」
スマホで近くのスーパーを調べているとマルロート先生に声を掛けられました。
「マルロート先生、おはようございます。全然待ってないです。」
私は慌てて立ち上がる。
先生は私が入って来た入り口とは反対方向に立っている。
「スーツで来てくれたのかい?気を遣わせてしまったね。堅苦しいドレスコードはなかったんだけど、風鳥さんはとても礼節のある学生のようだ。感心だね。」
「ありがとうございます。」
「次からは普段と変わらない装いでいいからね。」
「分かりました。」
マルロート先生は白いパンツに不規則な柄のブラウスを着ている。
「じゃあ行こうか。最初に受付を通ろう。勝手に部外者を通すと後で叱られてしまうんだ。」
「はい。」
それは当然だと思うんだけどマルロート先生はとても面倒くさそうだ。
先生が声を掛けたのは入り口から四つ目のカウンター。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
「彼女の入場受付を。」
「畏まりました。まずは社員証をご提示ください。」
「お願いします。」
受付のお姉さんの第一印象はとても物静かという感じ。
マルロート先生から社員証を受け取ると機械に翳して返却する。
「ありがとうございます。マルロートさんのお客様ということですね?」
「はい。」
「お客様の身分証明証をご提示いただけますでしょうか?」
「風鳥さん、今日学生証って持ってたりするかな?」
「えっ。」
慌ててカバンの中を探す。
「すみません、家にあります。」
「おっと、昨日伝えなかった僕の伝達ミスだね。気にしないで。」
マルロート先生が優しい笑顔で答えてくれた。
「藤宮さん今日だけ大目に見てもらえませんか?何かあった時はこちらで責任を取りますので。」
「マルロートさんからの今日だけは、私が把握しているだけでも7回目ですよ。それに受付全体としては14回目になります。」
「僕の今日だけの価値が下がっているねえ。」
「はい。」
「さてどうしたものかなあ。」
この受付の人は藤宮さんというらしい。
「藤宮さん交換条件といきませんか?近いうちに雫に用事を任せます。」
「分かりました。こちらにお名前とご所属をご記入いただけますでしょうか?」
藤宮さんが私に書類とペンを渡す。
私がマルロート先生を見ると先生が頷いた。
私は名前と専門学校の学生であることを書いて藤宮さんに返す。
「ありがとうございます。お入りください。マルロートさん、先ほどの件くれぐれもよろしくお願いしますよ。」
「はい必ず。じゃあ行こうか。」
「はい。」
私はマルロート先生の後ろに続いてエレベーターホールに向かう。
「学生証すみませんでした。」
「いえいえ、僕が伝え忘れたことが悪いから。魔道良に来るのは初めてだったね。初めての魔道良はどう?」
「とっても広くて驚いてます。人も多いしすごいですね。」
「MYでも屈指の巨大組織だからね。」
いくつもエレベーターが向かい合うホールから一つのエレベーターに乗り込んで36階まで上がりました。
途中で耳が何度もぷつぷつ言う。
私が顔を顰めているとマルロート先生が笑った。
「どうしたんだい?」
「いえ、ちょっと耳が痛くて。」
「そうか、慣れないとそういう反応になるんだね。回数をこなせば少しずつ慣れてくるよ。」
「初めて見た時にもものすごく驚いたんです。あまりにも建物が高かったので。」
「それが4棟もあるわけだしね。何度か足を運ぶうちにきっとお気に入りの場所ができるよ。」
「楽しみです。」
エレベーターを下りて右に曲がりマルロート先生は廊下を真っすぐ進みます。
「ここが僕の所属してるグループの部屋だよ。僕に用事があって魔道良を訪ねてくれた時はここに来てね。さっきの受付には学生証を持って行って僕に会いに来たって伝えればいいから。」
「分かりました。」
先生が廊下の突き当りで止まる。
「ここが僕の所属するグループルームの部屋だよ。」
マルロート先生が壁に取り付けられた機械に社員証を翳すと扉のロックが解除された。
「さあどうぞ。」
マルロート先生が引き戸の扉を開ける。
「失礼します。」
「ただいま。」
「おかえりなさい。」
先生と二人で室内に入るといろいろな声が帰ってきました。
でもみんな一様におかえりなさいと言ってくれる。
「お客様をお連れしたよ。」
「風鳥さんいらっしゃい。遊びに来てもらえて嬉しいわ。ゆっくりしていってね。」
雫さんが席から立ち上がってこっちに来てくれる。
「ありがとうございます。」
雫さんと握手をすると何だか体がぽかぽかとした。
これは何だろう?
「スマス、少し時間がかかったわね。大丈夫だった?」
「受付で少し足止めをされてしまってね。雫、僕からの1週間分のお願いだから今日中に藤宮さんのところに顔を出してもらえないかい?」
「別にスマスに頼まれなくても会いに行くくらいならいつでもするのよ。でもスマスがわざわざ私に頼むってことは何かあったのね?」
「ちょっとね。」
雫さんが溜息をつく。
「分かったわ。それは構わないけど交換条件に私を使わないでね。」
「次からは気を付けるよ。」
「はいはい。」
雫さんが部屋をぐるっと見回してにっこり微笑んだ。
「どうぞ掛けてと言いたいんだけどうちにはお客さん用のテーブルがなくて。あそこに絨毯があるでしょう?今卓袱台を出すから靴を脱いで上がってて。」
「分かりました。」
雫さんが示してくれたのは、10個の机が等間隔に置かれた空間の真ん中、そこだけ絨毯が敷かれています。
私が靴を脱いで絨毯の上に正座をすると、金色の髪がとても綺麗な女性の人がこちらに歩いてきた。
「初めまして、自己紹介をさせていただきたいのですがよろしいですか?」
「もちろんです。」
私の背筋が伸びる。
「ありがとうございます。」
女性が絨毯の上に正座をする。
「Mirarainと申します。このグループに所属する魔道師です。あなたは、スマスの担当している大学生さんと伺っています。こちらに用事で来てくださった時にはまたお会いするかもしれません。どうぞお見知りおきを。」
「ご丁寧にありがとうございます。風鳥未果といいます。よろしくお願いします。」
「風鳥さんですね。覚えました。もうすぐ雫が紅茶を持ってくると思います。少しお待ちくださいね。」
「はい。」
Miraさんがにっこり微笑んで立ち上がる。
私は改めて室内をぐるっと見回す。
他の机よりも明らかに視線が低くなって視界はあまり広くない。
だけど何だか。
「普段はそこにお布団が敷いてあるんだよ。」
いつの間にかマルロート先生が卓袱台を持ってこちらに来ていた。
「お布団ですか?」
私は慌てて絨毯の中央にスペースを作る。
「そうだよ。」
マルロート先生が卓袱台を置いて私の正面に座る。
「仮眠室もあるんだけどね、少し仮眠を取りたい時にちゃんとしたベッドで眠ったら起きられなくなるだろう。それにうちのグループにはまだまだ学生が多くてね、どこに誰がいるのか一目で分かった方がいい。あとはうちのグループリーダーがとても不規則な生活をしているから、布団は必需品なんだ。それでこの場所はみんなから見える位置でありながら、横になると案外人の視線が気にならない設計になってる。それに適度な自然光や間接照明の明かりで居心地がいいんだ。今風鳥さんが眠いなあと思ったのは、僕たちの魔道の心地よい波動みたいなのがここに滞留するからだね。」
どうして眠たいと思っているのがばれたんだろう。
「すみません。私とても失礼な表情をしていたんじゃ?」
「どうして、眠たそうな顔はしていたけど何も失礼なことなんてないよ。数日前こっちに引っ越してきたばかりで体の力を上手く抜けていなかったんだろう。疲れているならゆっくり休んだ方がいい。」
「でも。」
「ここには女性も何人かいるから安心して。」
「そういう意味ではなくて。」
「スマスからかいすぎよ。」
あわあわする私の後ろから雫さんの声がした。
「風鳥さんは、紅茶が覚めてしまうことを気にしているの。分かってるでしょう?学生で遊びません。」
「的確なお叱りをどうも。」
雫さんも絨毯に上がってくる。
手元にはティーセットの乗ったプレートを持っています。
「スマスがごめんなさいね。めんどくさいと思ったら適当にはっきり言ってもらって構いませんからね。」
「そんなことないです!」
私は即答した。
雫さんがくすくす笑ってマルロート先生を見る。
「いい教え子に出会えたのね。」
「素敵な縁に感謝だよ。」
「そうね。」
雫さんが三人分の紅茶をカップに注ぐ。
「やけどしない程度だと思うけど気を付けてね。なんてことない紅茶よ。ミルクやレモンはお好みで。こっちのお菓子は好きなだけ食べてね。」
「ありがとうございます。」
改めて雫さんと向かい合うと緊張する。
「じゃあいただきましょうか。」
「僕このクッキー好きなんだ。」
「せめて風鳥さんが選んでからにしたらいいのに。スマスのお客さんなんでしょ。」
「でもとっても緊張しているようだからさ、こっちがラフに接した方がかえってリラックスできるのかなと思って。」
「それは理にかなっているけれど。」
雫さんがお菓子の乗った木の小さなカバンを私に差し出す。
「先に選んでちょうだい。」
「でも。」
「お客さんとしての権利くらい大切になさい。」
そんな言葉初めて聞きました。
「ありがとうございます。」
私はお礼を言ってお菓子の中からホワイトチョコのコーティングをされたバームクーヘンを選んだ。
「いただきますね。」
「ええどうぞ。」
雫さんがにっこり頷いて籠をマルロート先生に渡す。
「はいどうぞ。」
「ありがとう。」
とても不思議なお茶会はこうしてぬるっと始まりました。
雫さんとマルロート先生が私の話をたくさん聞いてくれて、お二人とも私の質問にたくさん答えてくれた。
時間はあっという間に流れて私たちは2杯目の紅茶を飲んでいる。
「すみません、長居をしてしまって。」
「気にしないで。今日はいつもに比べれば時間に余裕があるのよ。スマスのお客さんだしね。それに、これからスマスが風鳥さんの担任なんでしょう?スマスって授業や指導は楽しいんだけど、担任になるとなかなか手のかかる先生なのよ。何分魔道良と専門学校を行き来しているし、自分の研究もあるしでね。大学部には副担みたいな制度はさすがにないけど、たぶん風鳥さんにはそれと近しい存在が必要だわ。これからいろんな授業や活動を通して友人や頼れる先生をたくさん見つけていってくれたらいいんだけど、その中にうちのグループメイトを入れてもらえたら嬉しいわ。きっと力になれるから、遠慮なくいつでも遊びに来てね。」
「はい。」
嘘偽りのない雫さんの言葉がとても嬉しくて、自然と笑顔になってしまう。
「じゃあこのあたりでお開きにしようか。今日は忙しいのにわざわざ時間を作ってくれてありがとう。風鳥さん、このまま少し休むといい。顔に疲れてるって書いてあるし、明日から2日間は授業がないといったって体は休めておいた方がいい。6日からの授業はまた忙しくなるしね。」
「でも、この後予定もありますし。」
グループルームのインターフォンが鳴りました。