第36話 とぎれて
一歩……たった一歩だけど大きな距離。
メドリから離れる。手を離して。
「……っ……は、っ」
息が漏れる。
少し息苦しい。寒い。
動悸が激しい。身体の震えが止まらない。
けど……まだ大丈夫。前も一歩はギリギリ大丈夫だった気がする……あれ、どうだっけ。わからない。頭が締められて、思考が防がれてる。
「イニア……」
「だ、大丈夫……まだ、大丈夫だから……!」
心配するメドリを手で制して、さらに一歩下がる。
魔力が異様にうるさくなってきた。思考が締め付けられてるし、吐き気がしてきた。平衡感覚がわからない。寒い。感覚がわからない。
「っは……!」
必死に体内の感覚に集中する。
体内の魔力でメドリの魔力に必死に触れる。
優しく、魔力を絡ませる。メドリの魔力の暖かさを感じる。
その暖かさが全身の不快感を少し忘れさせてくれる。
「……ぅん」
気付いたら、全身の感覚があって、その場に立っていた。
メドリから離れてる。離れてるけど、私は今メドリを感じてる。メドリが私の近くにいないのはわかってるけど、魔力が、メドリの魔力が私を包んでくれてるのがわかる。
「大丈夫……?」
「うん……やっぱり、ちょっと気持ち悪いけど……何もできないほどじゃないよ」
メドリを抱きしめたいし、メドリと触れ合いたいし、メドリとくっつきたいけれど……何もできないほどじゃない。
久しぶりに魔力のうるささを感じるし、吐き気はするし、頭は痛いし、気持ち悪いけれど……動ける。私の意識も不快感に飲まれることはなくて。
さらに一歩下がる。
メドリとの距離はさらに離れて、もう手を伸ばしても届きそうじゃない距離。すごく遠い。
けど……メドリの魔力はすぐそばにいてくれる。
大丈夫……きっと大丈夫。
「大丈夫そうですか?」
「はい、多分ですけど……」
パドレアさんの心配するような問いかけに答える。
そんな私の様子を見たパドレアさんはさらに要求する。
「どれぐらい離れたらダメとかはありますか? 一応理論上は魔力はどれだけ離れてても感じ取れるはずですが……」
「それなら……きっと大丈夫です」
今もすごく気持ち悪くて、できれば休みたいけれど……身体強化魔法は使えそうだし、メドリの魔力も感じ取れる。
もしこれがずっと続くならきっと大丈夫……大丈夫なはずだし……大丈夫じゃないといけない。せめてもう少しは活動範囲が広くないとメドリを守れない。
「イニア……休んでもいいんだよ?」
「ううん。まだ大丈夫だと思うから……私まだ頑張りたい」
メドリが私を気遣ってくれる。
嬉しい……けれど……けど、私は戦えるようになりたい。
メドリを守れる力がないと……
身体強化魔法を起動する。
蠢く魔力が身体強化魔法へと注がれることで、少し楽になる。メドリも私の術式に干渉して、身体強化魔法の効率を上げてくれる。
少しづつ……少しづつメドリから離れていく。
そして15mほど離れたところでそれが起きた。
15mまでは何の問題もなかった。
多少気分が悪いくらいで、メドリの魔力の暖かさを感じれたし、身体強化魔法を使ってたから、大丈夫だった。
もしかしたらほんとに、無限に離れられるのかもしれない……そう思った時だった。
それは何というか……急に穴に落とされるような……氷の中へ閉じ込められるような……そんな感じだった。
「ぇ……?」
一瞬何が起きたのかわからなかった。
そして魔力のうるささ鳴り響いて、全身に不快感が現れて、動悸が激しくなり、視界が歪み始めたと同時にかろうじて理解する。
メドリの魔力が感じれない。
メドリが……メドリがいない。
どこにもいない。魔力で体内を探っても、そこには私のうるさい蠢く魔力があるだけで、メドリの残滓も面影もなくて。
遠くにメドリが見える。
メドリがずっと遠くにいる。
手の届くところにメドリがいない。手を伸ばしても、メドリいない。
「ぅぷっ……!」
視界が歪んで、焦点が合わなくて、何も見えない。
吐き気が強烈に現れて、喉が焼けるように痛くなる。
締め付けられてもうほとんど思考できない頭が、吐いてることを教えてくれる。さらにそれが吐き気と気持ち悪さを加速させた。
平衡感覚がなくなって、身体がどういう状態かわからない。
今立っているのか、座ってるのか、わからない。
「イニア!」
音がする。何も聞こえない。うるさくて何も聞こえない。
何もかもが煩わしい。今私……どうなってるの?
気持ち悪い。苦しい。助けて。メドリ……メドリ、助けて……あぅ……ぁ!
「ぅう……!」
また身体は吐こうとする。
けれど、もう全て吐き出してしまったのか、鋭い不快感だけが胃と喉を通って、私を内側から蝕む。
苦しい。頭が痛い。
嫌……こんなの嫌!
いやぁ……!
全身に走る不快感が嫌で、苦しくて、気持ち悪くて、自分の体を抱きしめる。けれど、その感覚も煩わしくて、さらに強く抱きしめる。
さらに動悸が激しくなって手足は震えてる。全身が震えてる。自分で自分の身体を制御できない。どこまでが自分の身体かわからない。
うるさい……!
うるさいうるさいうるさい!
強く力を入れすぎて、身体が痛む。
痛いけれど、痛い部分は不快感が弱まった気がして、さらに強く力を入れる。けれど、なかなか力は入らなくて。
消えて! 消えてよぉ……!
気持ち悪い……!
もっと簡単に痛みを手に入れるために身体を掻き毟る。
爪が皮膚に刺さって痛い。かりかりという音がする。
そうしてる間にもどんどん不快感は強くなって、視界が歪んで、なんだか目の前にゲロがあるように見えてきた。いや、実際そうなのかもしれない。
気持ち悪い。
寒い。
苦しい。
しんどい。
吐きそう。
死にたい。
メドリ……!
そんな思いだけが私の中を循環している。
「ぁ……ぅ!」
声にならない声が聞こえる。
誰の声? そして自分の息が流れてるのがわかって、自分の声だと気づく。けどその息も煩わしくて、息を止めようとする。
もう何もかもが煩わしい。
うるさい。気持ち悪い。
「イニア……!」
何かが私に触れる。
その感触がうるさくて、不快感を生み出して、突き飛ばそうとする。けれど、その瞬間に気づく。
暖かい……
触れた何かの暖かさが冷え切った私を暖めていく。
「ぁ……ぇ……うぁ……」
声にならない声が出る。
少しづつ感覚が戻ってくる。
「大丈夫……大丈夫だよ……」
意味のない音が声になる。
ぐにゃぐにゃと歪んだ視界は、人型を映し出す。
何かに触れられていた感覚は、抱きしめられている感覚に。
「め、どり……」
メドリが私を抱きしめてくれていた。
それがわかった途端に不快感が急速に引いていく。
「イニア……大丈夫だから、私はここだよ……?」
「ぅ……ん……めどぃ……」
力が入らない。
全身の脱力感がすごい。
思考が回らない。
けれどメドリがそこにいることはわかる。
メドリが私を抱きしめてくれていることが。
「め、ど……めど、り……」
「ここだよ……イニア、ここにいるよ」
メドリを必死に呼ぶ。
メドリはそんな私の頭を優しく撫でながら、安心させるようにここいいるよって言ってくれる。私の背中をさすりながら、大丈夫だよって言ってくれる。
そう言ってくれるおかげで、感覚がほとんど戻ってきた。
頬が冷える。それで泣いてるということに気づく。
「イニア……大丈夫だから……ここにいるから……」
「めど……りぃ……!」
メドリに抱きつく。
メドリを感じたくて、そこにいるって確かめたくて。
そのあとで、涙と鼻水とゲロで顔がぐしゃぐしゃになってることに気づく。
「メドリ……! 私、きたなっ」
「ううん。汚くないよ……イニア、今は気にしないで……甘えていいから……」
離れようとしても、メドリが私を抱きしめて離さない。
頭を優しく安心できるように撫でてくれる。
私はもう限界だった。
メドリの掌に髪を擦り付ける。
甘える。もう何も考えずにメドリに甘える。
「ぅう……ん」
「大丈夫だよ……大丈夫」
そうしてしばらくメドリを感じていた。
さっき失った瞬間を忘れて、埋め尽くすようにひたすらにメドリを感じていた。




